風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

花とカニ

2011年07月31日 12時20分30秒 | フォト日記

 公園を散歩した時に見かけた花。
 亜熱帯なのでトロピカルな花がいろいろあった。






 ハイビスカスはわかったけど、それ以外は名前を知らない。




 池でカニを逃がしてあげた。




 榕樹の葉からそろりそろりと降りていった。


広州アジア競技大会前夜 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第45話)

2011年07月27日 06時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 二〇一〇年十一月十二日から、広州でアジア競技大会が開催される。
 準備は着々と整っているようだ。広州の南部には選手村が建設され、各競技会場の建設も終わった。会場のそばには羊のマスコットが飾られていたりする。ちなみに、広州の愛称は羊城。マスコットキャラククターはそれにちなんで制作された。
 サッカー場やバスケットコートなどがある体育中心のそばを散歩していたら、濃緑色の制服を着た武装警察がそこかしこに立っているのを見かけた。武装警察の一個小隊が、手足をぴんと伸ばしながら会場の付近を行進していたりもする。まさに厳戒態勢だ。
 地下鉄駅では荷物検査が始まった。
 地下鉄に乗るためにいちいちX線検査機にリュックを通さなくてはいけないので面倒くさいことおびただしい。大イベントはみんなそうなのだけど、イベントに絡む商売をしている以外のごく普通の一般住民にとって、あまりいいことはない。交通規制やらなんやらでいろんなことがやりにくくなってしまう。
 ビジネスでも影響が出ている。広州一帯ではビルなどの建設工事が禁止になった。中国の建設工事は防塵対策をしないので、埃がそこらじゅうに飛び散ってしまう。建設規制は、工事による大気汚染を防ぐためだ。僕の勤め先もこの規制にひっかかり、新倉庫の建設がアジア競技大会の後に開催されるアジアパラリンピック以降まで凍結となった。
 高速道路にも検問所ができて、時々、検査のために車をとめられたりする。十一月からナンバーによる交通規制が始まるので、不審者対策も兼ねて設置されたようだ。検問所にはライフルをかかえた警察がいるので、あまりいい気持ちはしない。
 ビザの取得も以前より手間がかかるようになった。
 通常、一大イベントを開催する場合は、ビザの取得要件を緩和したりして、外国からどんどん見物客を招くものなのだけど、中国の場合は反対だ。北京オリンピックの時はビザの発給を制限して、なるべく外国人がこないようにした。あの時は観光ビザも取れなかったうえに、ビザなしで入国しても、その延長が困難だった。今回も、北京五輪時のような厳しいビザ発給制限とまではいかないけど、地方政府はなるべく外国人を減らすようにしているらしい。
 パスポートを携帯していないと罰金五百元だそうで、公安は時々、外国人に対する一斉検査を実施している。主に、外国人宿泊客の多いホテルの付近にある飲食店へ立ち入り検査を行なうようだ。僕の知り合いは五つ星ホテルの近くにあるマクドナルドでハンバーガーを食べていたら、公安にパスポートを見せろと言われたそうだ。僕も、日本焼酎バーでとんこつラーメンを食べていたら公安にパスポート、就労許可証、臨時住居登録証の提示を求められたことがあった。
 中国人の友人によれば、外国人が大勢きたのでは混乱してしまうので、そうしているのだとか。その話を聞いた時、僕は驚いてしまった。
「なんで? アジア競技大会はアジアの大会なんだよ。中国の大会なら、外国人を制限するのはわかるけど、アジアの代表として広州で開催してるわけだから、アジア人にきてもらうべきだよ。そのほうが大会が盛り上がるんだから」
 僕は彼にそう言ったのだけど、彼はぴんとこないようで、
「とにかく、外国人が大勢きたら人が多すぎて混乱してしまうよ。外国人にめちゃくちゃされたら困るじゃない。政府もそう言っているよ」
 と、なに喰わぬ顔で平然と言う。
 よく言えば、彼は政府の言うことを素直に受け取っているようだ。悪く言えば、自分の頭で物事を考えていない。一般的に言って、中国人は目の前に置かれた現実にはめっぽう強いし頭もいいけど、自分の半径三十センチを越えた事柄に関しては驚くくらい政府の言い分を鵜呑みにする。
 このような外国人を制限するという考え方はおそらく、チャイニーズスタンダードというべきもので、国際社会では通用しないものだろう。アジア競技大会は中国のものではない。すべてのアジアの国のものだ。このような考え方はアジア競技大会の私物化にほかならない。「誘致に成功したからにはうちのもの」という発想しかできないのは、理解に苦しむ。
 もっとも、これが中国文明の限界といえばそうなのだけど。この国には公《パブリック》という発想がない。すべてが私《プライベート》の延長線上にしかない。アジア競技大会のような政府事業にしてもそうだ。社会の公共性を重視するということは、中国ではほとんどないと言っていい。
 一大イベントなので警備を厳重にするのは理解できる。
 なにがなんでも成功させたいという地方政府の意気込みも理解できる。
 しかし、開かれたイベントを開催できない国が、開かれた国になるはずがない。経済発展にしたがって中国の民主化も進むという意見をちらほら見かけるけど、そんな意見を言う人ははっきり言って中国の実情をまったく知らない人だ。北京オリンピック時のビザ発給制限や今回の件を見てもわかるように、中国が開かれた社会になるのはまだまだ遠い先の話だろう。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第45話として投稿しました。2010年10月31日発表です。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


なかよく、はんぶんこ

2011年07月21日 06時15分00秒 | 童話
 
 ぼくとおにいちゃんは、いつでもなかよく、はんぶんこ。
 おかあさんが、いたチョコをかってくれたから、さっそく、はんぶんこ。
 あれえ、おにいちゃん、ちゃんとわってよ。
 おにいちゃんのほうが、ちょっとおおきいじゃない。
 ねえ、ここのところが、ななめになってるでしょ。それでね、ここのところが、とびでてるでしょ。そのぶん、おにいちゃんのほうが、おおきくなってるんだよ。ぼくには、ちゃあんとわかるんだからね。
 そうだよ。これくらいかな。
 ありがとう、おにいちゃん。
 おにいちゃんて、やさしいね。

 おばあちゃんがもってきてくれたドロップを、ぜんぶおさらにならべたよ。
 あか、あお、きいろ、みどり、オレンジ、しろ。きれいだな。
 いつものように、はんぶんこ。
 おにいちゃんをしんじてないわけじゃないけど、こういうことは、ちゃんとしておかなくっちゃね。
 ねえ、おにいちゃん、きいろってレモンあじでしょ。ぼく、レモンあじがすきなんだ。あんまりすきじゃないみどりをあげるから、ぼくのとかえっこしてよ。
 あれえ、おにいちゃん、むっとしちゃった。どうしよう。
 ねえねえ、ぼくがにばんめにすきなオレンジをあげるから、やっぱり、さんばんめにすきなあおをあげるから、おにいちゃんのきいろとかえっこしてよ。
 わーい、ありがとう。
 おにいちゃんて、やさしいね。

 おせんべいは、おいしいね。
 おにいちゃんはくいしんぼうだから、すぐにぜんぶたべちゃって、ぼくのをいちまいほしいってねだるよ。
 だめだよ。もうはんぶんこしたじゃない。そんな、ぼくみたいなことをしたらいけないよ。ぼくはおとうとだからいいけど、おにいちゃんはだめ。だって、おにいちゃんは、おにいちゃんじゃない。
 ええっ、どうしてえ? どうしてそんなことをいうの?
 おにいちゃんは、よなかにおしっこしにいきたくなっても、もうついていってあげないっていうんだ。
 ひどいよ。
 ほんとにひどいよ。
 よなかは、まっくらなんだよ。トイレへいくのは、こわいんだよ。おばけがでたら、どうするんだよお。がまんしすぎて、おねしょをしたら、どうするんだよお。
 なきたくなっちゃう。
 ぼく、ないちゃうよ。
 いちまいあげるから、ぼくがトイレへいくときはついてきてね。
 おしっこしがおわるまで、トイレのそばでまっていてね。
 おねがいだから、ぼくをおいて、さきにおふとんへもどらないで。
 え? もういちまい?
 おにいちゃんはずるいなあ。しょうらい、おかねもちになれるよ。
 わかったよ。
 もういちまいあげるから、やくそく、やぶらないでよ。

 おじいちゃんが、ボンタンアメをくれたんだ。
 やったあ。ボンタンアメ、だいすき。
 おじいちゃん、ありがとう。
 おじいちゃんも、だいすき。
 おじいちゃんは、ぼくのあたまをなでなでしてくれたよ。
 ボンタンアメはね、おじいちゃんからぼくへのプレゼント。だから、はんぶんこしないの。だって、ぼくのものだもん。
 うわっ。おにいちゃん、おこった。
 にげろ!
 おかあさん、たすけてえ。
 おにいちゃんが、ぼくをいじめる。
 ぼくは、だいどころでばんごはんをつくっているおかあさんのスカートのなかへかくれたよ。
 ここなら、ぜったい、だいじょうぶ。
 おにいちゃんは、はいれないもん。そんなことをしたら、おかあさんに「おにいちゃんでしょ」って、しかられてしまうんだよ。
 おかあさんのスカートのなかは、まほうのおしろ。おにいちゃんだって、おばけだって、ぜったい、はいれないんだ。
 おにいちゃんは、めのまえで、ぼくをまちかまえてるよ。たのしいな。
 なあに、おにいちゃん?
 だめだめ。
 おにいちゃんのしゅくだいは、はんぶんこしないの。
 しゅくだいって、おにいちゃんが、いつも、いやいややってるやつでしょ。なんで、ボンタンアメはんぶんと、しゅくだいはんぶんをかえっこしなくちゃいけないんだよお。おにいちゃんが、じぶんでやりなよ。ぼくは、こうみえてもいそがしいんだ。いろいろとね。
 それ、なあに?
 かんじのれんしゅうちょう?
 しゅくだいじゃないの?
 ほんとう?
 うそだ。
 ばかにしないでよ。だって、しょうがないじゃない。まだならったこと、ないんだもん。じはしょうがっこうへあがってから、ならうんでしょ。ぼくは、まだ、ようちえんだもん。おにいちゃんには、まけたくないけどさ。
 ほんとう?
 ぼくにもかんじが、かけるようになるの?
 おにいちゃんが、おしえてくれるの?
 ぼくのなまえが、かけるようになるの?
 やったあ。
 おにいちゃん、ちゃあんとおしえてよ。とちゅうでゲームをやったりしたらだめだよ。おにいちゃんは、あきっぽいんだから。
 ボンタンアメと、かんじのれんしゅうちょうをはんぶんこ。
 ちゃんとかんじをかいたら、おにいちゃんのたんにんのみやざわせんせいが、あとでまるをつけてくれるんだって。うんとがんばったら、はなまるっていってね、まるのまわりにおはなをかいてくれるんだって。はなまるって、どんなのかなあ? たのしみだな。うれしいな。
 ありがとう、おにいちゃん。
 おにいちゃんて、やさしいね。
 ぼくとおにいちゃんは、いつでもなかよく、はんぶんこ。


 了

誰が芸術写真を切り取った?(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第44話)

2011年07月17日 08時15分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 一九九〇年頃のトップアイドルといえば、やはり宮沢りえさんを挙げないわけにはいかないだろう。とくにファンというわけでもなかったけど、テレビや雑誌で彼女の姿を見るときれいだなと思ったものだった。
 一九九一年秋、彼女の写真集『Santa Fe』が出版された。ヘアヌードのはしりの写真集だ。人気絶頂のアイドルのヘアが写っているということで話題沸騰。社会現象までになった。今はヘアヌードなんて当たり前だけど、当時は驚くべきことだった。出版部数は一五〇万部。芸能人写真集では今でも総出版部数第一位なのだとか。
 当時学生だった僕は、友人が買ったのをすこし見せてもらったのだけど、ため息が出るくらいきれいだった。
 ワイドショーでは、「宮沢りえさんは日本人と白人との混血なので、歳をとったら太ってしまう。だから今撮影した」などとリポーターが言っていた。この身体がいつかほんとうにぶくぶくに太ってしまうのだろうかと思うと不思議な心持ちになった。そんなことがあっていいのだろうか。
 眺めているうちに僕もこの写真集が欲しくなった。いやらしいなどと言ってはいけない。『Santa Fe』はれっきとした芸術写真集だ。男はみんな芸術を愛するものなのだ。僕が手元に置いておきたいと思ったのは、芸術を愛するがゆえであって、ほかの意図はない。信じてくれないかもしれないけど、ないと言ったらないのだ。ほかの使い道などありえない。
 買いたいなと思ってはみたものの、この写真集は一冊四千五百円もした。当時、アイドルの写真集はたしか二千円前後のものが多かったと思う。通常の倍くらいの値段だ。とても手が出ない。
 悶々と過ごしているうちに耳寄りな話を仕入れた。
 なんでも大学の図書館の研究書庫に『Santa Fe』があるという。大学の図書館には一般書庫と研究書庫があって、一般書庫は学部生も自由に本を借りることができるけど、研究書庫は大学院生しか借りることができない。学部生は閲覧のみ可能だった。
 借りられないのは残念だけど、見るだけでもと思って図書館の地下にある研究書庫へ行くことにした。
 階段を下りてからバッグをロッカーに預け、受付で登記。研究書庫へ入る理由を書く欄があったので、ロシア文学関係の研究書を閲覧するとかなんとか適当に書いた。僕の心にやましいところはひとつもない。だけど、誤解する人がいるかもしれないから、用心するに越したことはないだろう。
 窓のない研究書庫はコンクリートがむきだしになっていて味もそっけもなかった。なんだか秘密組織の秘密研究所のようで、白衣を着たマッドサイエンティストでも出てきそうだ。
 パソコンの端末で検索すると、やはり美術書のコーナーに置いてあるようだ。メモに控えた番号を見ながら写真集がずらりとならんでいる本棚を調べた。
 あった。
 表紙はいささかいたんでいるけど、まぎれもなくあの『Santa Fe』だ。
 誰にも見られないようこっそり小脇に抱え、廊下の奥のほうの隅にある一人用の机に向かって坐った。さあ、芸術の秋を心ゆくまで堪能しようではないか。
 ところが、表紙をめくった僕は目が点になった。
 なんと、写真集はあなぼこだらけではないか。
 芸術的なあまりに芸術的な美しい裸体の写真は、むざんにもカッターで切り取られ、誰かに持ち去られてしまった。どこもかしこも切り取られた跡だらけだ。
 あせった僕は次から次へとページをくった。服を着た写真や風景のなかで彼女が小さく写っている写真ばかり残っていて、もう一度見たいと思っていた芸術的なショットはまったく残っていない。これでは魚のあらみたいなものだ。おいしいところがごっそり抜けている。
 やれやれ。
 くるのが遅かった。
 もっと素早く情報を仕入れて、『Santa Fe』の入荷直後に閲覧すべきだったのだ。
 僕は、生協で買ったばかりのミニカッターをそっとポケットへしまった。



 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第44話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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ヒューマニズムについて(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第43話)

2011年07月15日 06時15分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 高校生の頃、ヒューマニズムという言葉の意味は「人道主義」のことだと思っていた。わかりやすくいえば、やさしさや愛情といったものを大切にしましょうということだ。いうまでもなく、飢餓に襲われた遠い国の子供たちへの支援活動やホームレスの人たちへの炊き出しといった各種のボランティア活動はこの人道主義に根ざしている。
 テレビドラマの『金八先生』シリーズはこの意味でのヒューマニズムにあふれている。『金八先生』の世界には必ず救いがある。たとえ生徒が問題を起こしたとしても、金八先生は「君はまだ人間として未熟なだけなのだから人生の勉強を積みなさい」と諭し、がんばれと励ます。金八先生は、自分の生徒は全員、彼らが成長したあかつきには人として素晴らしい存在になると信じている。言い換えれば、すべての人間をやさしさと理性を持った存在とみなし、全幅の信頼を寄せるということだ。
 その後、ヒューマニズムには「人間中心主義」という意味もあるのだと知った。
 この人間中心主義は、神も仏もいるものかという一種の無神論だ。つまり、人間こそがこの世界の主であり、神であるという考え方だ。近代が始まってから、この考え方がひろまり、神さまや仏さまはどこかへ押しやられてしまった。
 人間中心主義が広まった裏には、それを必要とした時代の背景がある。神さまに縛られていたのではなにもできない。より正確に言えば、神さまを大義名分にしてこの世を支配しようとする宗教界に縛られたのでは、真実を見極めることも、自由に活動することもできなくなってしまう。ちょうど、地動説を唱えたがために教会から有罪判決を受け、監視つきの邸宅に閉じこめられてしまったガリレオのように。
 宗教界からの縛りを解くことで、人間の活動の幅はぐっと広がり、近代科学の飛躍的な発展につながった。
 ただ、この人間中心主義という考え方は一歩間違えればとんでもないことになる非常に危険なものを含んでいる。もし人間が神のような全知全能の存在や仏のような慈悲のかたまりのような存在になれるのならそれに越したことはないのだけど、人間がそんなふうになれるかと問われたら「否」としか答えようがない。
『カラマーゾフの兄弟』の主人公の一人であるイワン・カラマーゾフは「神がいなければすべては許される」と言った。つまり、殺人も許される――罪にならないということだ。こんなふうに人間中心主義という考え方をおし進めれば、人間から理性ややさしさを引っこ抜いてしまうことにもつながりかねない。人間から理性ややさしさを引っこ抜いてしまうということは、人間が動物化してしまうということだ。そうなれば、王様気取りの勘違いした動物ばかりが我が物顔でうろつくことになる。
 ヒューマニズムは諸刃の剣だ。
 ヒューマニズムによって、人間は自由を得た。人間の可能性が大幅に広がった。だけど、人間であることの条件を考えなければ、容易に一個の野獣と化してしまい、自分が誰かを食い物にしたり傷つけてしまったとしても、それを自覚することができなくなってしまう。僕が子供の頃は、「人としてそんなことをしてはいけない」とよくたしなめられたものだったけど、そんな言葉はもう死語になってしまったようだ。
 人間を理性とやさしさを持った人間たらしめるものはなんなのだろう? ほんとうの意味で人間を人間たらしめるものはいったいなんなのだろう?
 その答えは人それぞれだろうけど、僕自身だけではとても自分の理性ややさしさを保つ自信はないから、神さまや仏さまやお天道さまといった超越的な存在しか思い浮かばない。そういったものが自分を支えてくれているからこそ、時には過ちを犯したり、人を傷つけてしまったりしながらでも、理性ややさしさをなんとかまったく失わずにすんでいるのだと思う。狂った世の中でまっすぐ立って歩くためには、今のところそれしか思いつかない。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第43話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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ライチ狩り

2011年07月09日 18時35分11秒 | フォト日記
 


 広州の郊外にはライチ畑がたくさんある。
 実家が農家だという地元の青年にライチ狩りに連れて行ってもらった。




 丘の斜面に、ライチ、龍眼、桃といった果実の木が植えられている。六月下旬から七月上旬にかけて、ライチの出荷は最盛期を迎える。




 木登りしてライチを狩る青年。身軽なのが羨ましい。僕も木登りできたはずなんだけどな。




 もぎたての白い果実。甘くておいしかった。



世界の窓

2011年07月06日 22時54分28秒 | フォト日記
 見出しの写真は深圳にあるテーマパーク「世界の窓」のエッフェル塔。
 なんだか微妙な感じがしないでもないけど、ご愛嬌ということにしておこう。「世界の窓」には世界各国の建物があるのだとか。世界の工場と呼ばれ、世界各国のメーカーの工場がある深圳は中国にとって「世界の窓」だろう。




「世界の窓」からしばらく歩くと。「中国民俗文化村」がある。
 民族のテーマパーク。こちらには中国の五十六の民族が勢ぞろいしているのだそうだ。




 購物公園のあたりを散歩。公園があるのかと思ったら、オフィスビル街だった。




 フェラーリの店があった。隣はマセラティ。こんな超高級車がバンバン売れているんだろうな。






昔の恋を思い出す時は(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第39話)

2011年07月04日 17時00分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 いつから素直に好きだと思えなくなってしまったのだろう。
 若かった頃は、好きなものは好きと思えたし、そう言えたはずだった。自分の気持ちに正直だった。人を好きになるのに、理由や理屈などいらなかった。
 今は、好きだと感じた瞬間によけいなことばかり考えてしまう。たいていは、自分の身を守るための打算だったりする。くだらないことだ。いろいろ痛い目にも遭ってきたから、臆病になるのも、むりもないことかもしれないけど。
 ただ、すくなくともこれだけのことは言える。
 自分に正直だった頃のほうがずっと生きいきとしていた。
 年齢を重ねるにつれ、いつの間にか、できない理由ばかりをならべたてて、自分に言い訳するようになった。
 昔の恋のことを思い出す時、懐かしいのは彼女のことではなくて、もしかしたら心のままに人を好きになれた自分自身なのかもしれない。心の底から湧き上がる情熱に素直だった自分なのかもしれない。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第39話として投稿しました。『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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