美しい私小説だ。折に触れて読み返してしまう。主人公が「えたいの知れない不吉な塊」という実存的不安を抱えながら京都の町へ散歩に出かけたときのことを書いてある。
初めのほうは、なにげない街角の風景描写、店に並んだこまごまとした雑貨の描写、幼い頃の想い出の回想などが続き、それが心をなごましてくれる。個人的には、幼い頃、びいどろを口にくわえてみたりしたものだったというくだりが好きだ。読んでいて、こちらも涼しい気持ちになる。
主人公はまるでお金がないという状況で、かなりの借金も抱えているようだが、心の余裕までは失っていないようだ。主人公は、こまごまとした雑貨を眺めては上等の鉛筆を買ったりして、ごくささやかな贅沢を愉しむという。主人公のこのゆとりが読み手にも心のゆとりを与えてくれる。一緒に散歩しているような気分を味わえる。
さて、主人公は散歩先の青果店で檸檬を買う
「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。」
この檸檬の描写がたまらなく素敵だ。きれいな檸檬が目の前に浮かんでくるようだ。
ここでうまいなと思うのは、檸檬の重さを確かめているところだ。
「美しいものを重量に換算して来た重さ」
美を重さにして描写することで読み手の胸にその美しさがすとんと落ちる。なにかの感情を手に取ってみることのできるものの重さで置き換えてみるという手法はうまくはまると効果的だ。
檸檬を買ってすっかり嬉しくなった主人公は丸善へ入り、本棚から取り出した画集を積み上げて遊ぶ。なにか足りないなと思った主人公は積み上げた画集の上に檸檬を置いてみる。
「檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。」
主人公はその美しさに満足するのだが、そこでふといたずら心を起こす。檸檬を片づけずにそのまま置き去りにして出て行ってしまうのだ。しかも、心のなかでその檸檬が大爆発する光景を想像しながら。ちょっとした社会への反抗といったところだろうか。小説は主人公が丸善を出て、京極を下っていくところで終わる。
原稿用紙にして十四枚しかないこの短編小説には、青春の実存的不安といったものがコンパクトにまとめてよく描かれている。それも、ただ憂鬱にひたったり観念を広げるのではなく、心に映る様々な感覚を通じてそれを描き、最後はいささか危険な遊び心で締めくくっているのがいい。「えたいの知れない不吉な塊」が美しい檸檬に転化して、最後にはそれが穏やかに爆発したようにも思える。
主人公の青年は、市井に住む隠者のようだ。
社会の生産活動にはかかわっていない。学校へも行っていないようだ。町中にじっと隠れ住み、感覚を研ぎ澄ませながら己の存在について考え続けている。逆にいえば、なにも持たずにひっそりと暮らしているからこそ、それができるのかもしれない。
この小説を読み返すたび、心の中にすうっと風が吹き抜けたような気分になる。そうして、自分の心に中にある檸檬をじっと想像してしまう。それはいつ爆発するかもしれない美しい爆弾でもあるのだ。
(2017年6月29日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第401話として投稿しました。
『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/