風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

さらってしまいたい

2018年07月25日 06時45分45秒 | 詩集

 焼けた肩に
 蒼い月の光
 燃えるように
 燃えてしまうように
 光が跳ねるから
 水着の紐のあと
 僕は思わず
 くちづけてしまう

 朽ちた木のボート
 傾いた船べり
 君の肩を抱いて
 並んで腰かける
 見上げる夜空
 潮騒は遠い星座に
 吸い込まれ
 時がとまった
 南十字星

 夢は天の川を流れ
 さらさらと
 こぼれる滴が
 ふたりの愛になる
 僕の腕に甘えて
 くすくす笑う君
 胸のふくらみが
 息づくから
 僕はまた
 くちづけてしまう

  ふたりでいると
  なにもかもが静か
  ふたりでいれば
  なにもかもが
  やさしい
  澄んだ風よりも
  素敵な君の瞳

 月の吐息を
 両手ですくい
 真珠を一粒
 そっと入れてみる
 まぶしい光があふれだし
 穏やかな砂浜から
 海の向こうまで
 光の道がつながる

 僕らの愛の道
 世界で一つだけの道
 燃えるように
 燃えてしまうように
 光が跳ねるから
 このまま君を
 さらってしまいたい


うなぎのたれ丼(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第402話)

2018年07月20日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 学生の頃はとにかく腹が減ってしかたなかった。

 東京で一人暮らしをしていたのだけど、バイト代は次からつぎへと食費で消えてゆく。

 うなぎの蒲焼は大好物だけど、そんなエンゲル係数の高い生活を送っていたのでは、なかなかうなぎの蒲焼は手が出ない。スーパーでうなぎの蒲焼をみかけても、限られたお金でとにかく量をみたさなくてはいけないから、ほかのものを買うしかない。

 でも、ときどき、

「ああ、うなぎが食べたいなあ」

 と、どうしても食べたくてしかたなくなってしまうときがある。うなぎの匂いが鼻孔をつつくようだ。スーパーの棚に並んだパック詰めのうなぎが僕に食べてくれとささやきかけるようだ。うなぎを見ているだけでつばがわいて、お腹が空く。

 そんな時は、うなぎのたれを買って帰り、うなぎのたれ丼を作った。なんのことはない、どんぶり飯にうなぎのたれをかけただけのものである。

 御飯にしみこませたうなぎのたれを味わいながらうなぎを食べた気分になる。どうせうなぎを食べるのだったら、スーパーのパック詰めではなくて、浜松駅で売っている駅弁のうなぎ弁当を食べたいなあなんて思ったりして。

 いろんなことを想像しながらうなぎのたれ丼を食べた後は、ちょっぴり贅沢した気分になったのだった。





(2017年7月9日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第402話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


梶井基次郎『檸檬』――心に棲む美しい爆弾(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第401)

2018年07月14日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 美しい私小説だ。折に触れて読み返してしまう。主人公が「えたいの知れない不吉な塊」という実存的不安を抱えながら京都の町へ散歩に出かけたときのことを書いてある。

 初めのほうは、なにげない街角の風景描写、店に並んだこまごまとした雑貨の描写、幼い頃の想い出の回想などが続き、それが心をなごましてくれる。個人的には、幼い頃、びいどろを口にくわえてみたりしたものだったというくだりが好きだ。読んでいて、こちらも涼しい気持ちになる。

 主人公はまるでお金がないという状況で、かなりの借金も抱えているようだが、心の余裕までは失っていないようだ。主人公は、こまごまとした雑貨を眺めては上等の鉛筆を買ったりして、ごくささやかな贅沢を愉しむという。主人公のこのゆとりが読み手にも心のゆとりを与えてくれる。一緒に散歩しているような気分を味わえる。



 さて、主人公は散歩先の青果店で檸檬を買う



「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。」



 この檸檬の描写がたまらなく素敵だ。きれいな檸檬が目の前に浮かんでくるようだ。

 ここでうまいなと思うのは、檸檬の重さを確かめているところだ。



「美しいものを重量に換算して来た重さ」



 美を重さにして描写することで読み手の胸にその美しさがすとんと落ちる。なにかの感情を手に取ってみることのできるものの重さで置き換えてみるという手法はうまくはまると効果的だ。



 檸檬を買ってすっかり嬉しくなった主人公は丸善へ入り、本棚から取り出した画集を積み上げて遊ぶ。なにか足りないなと思った主人公は積み上げた画集の上に檸檬を置いてみる。



「檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。」



 主人公はその美しさに満足するのだが、そこでふといたずら心を起こす。檸檬を片づけずにそのまま置き去りにして出て行ってしまうのだ。しかも、心のなかでその檸檬が大爆発する光景を想像しながら。ちょっとした社会への反抗といったところだろうか。小説は主人公が丸善を出て、京極を下っていくところで終わる。



 原稿用紙にして十四枚しかないこの短編小説には、青春の実存的不安といったものがコンパクトにまとめてよく描かれている。それも、ただ憂鬱にひたったり観念を広げるのではなく、心に映る様々な感覚を通じてそれを描き、最後はいささか危険な遊び心で締めくくっているのがいい。「えたいの知れない不吉な塊」が美しい檸檬に転化して、最後にはそれが穏やかに爆発したようにも思える。



 主人公の青年は、市井に住む隠者のようだ。

 社会の生産活動にはかかわっていない。学校へも行っていないようだ。町中にじっと隠れ住み、感覚を研ぎ澄ませながら己の存在について考え続けている。逆にいえば、なにも持たずにひっそりと暮らしているからこそ、それができるのかもしれない。



 この小説を読み返すたび、心の中にすうっと風が吹き抜けたような気分になる。そうして、自分の心に中にある檸檬をじっと想像してしまう。それはいつ爆発するかもしれない美しい爆弾でもあるのだ。



(2017年6月29日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第401話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/



とけちゃいたいね

2018年07月09日 06時45分45秒 | 詩集

 暑いねえ
 ソフトクリームみたいに
 とけちゃいたいねえ
 ぐったりしなって
 とろけちゃえば
 思いっきり
 リラックスできそう

 つまらないことで
 けんかはよそうよ
 どうせ仲直りするのだから
 けんかしてもしなくても
 おなじことだよ
 つかれるだけだもん

 ぼくたちは
 二本ならんだ
 ソフトクリーム
 ぐにゃっと曲がって
 もたれあって
 たおれそうで
 たおれない

 たおれるかわりに
 ひたすらとける
 とければとけるほど
 きみとぼくの境目が
 なくなる
 こころの境目も
 消えてゆく

 暑いねえ
 ソフトクリームみたいに
 とけちゃいたいねえ
 とろとろにとけて
 もうすこしだけ
 もうひとつだけ
 愛しあおうよ




あるように

2018年07月02日 06時45分45秒 | 詩集

 僕を濡らす
 梅雨の雨は
 しとしとと
 穏やかな顔をして
 あるように
 降り続ける

 植え込みの
 紫陽花は
 あざやかな青紫を
 まき散らしながら
 あるように
 咲き続ける

 焼き板塀の
 かたつむりは
 ゆったりと
 雨雲を見上げ
 あるように
 這い続ける

 世界は
 あるように
 あり続けるのに
 ぎこちないのは
 僕ばかり
 不自由なのは
 僕ばかり

 愚かさの束縛を
 一つほどいては
 一つ増え
 二つほどいては
 二つ増え
 なかなか
 減ってくれない
 そんなことの
 繰り返し

 届かない憧れが
 ささやくように
 雨は降る
 紫陽花は咲く
 かたつむりは這う
 あるように
 ある姿の
 時の静けさ

 僕も
 あるように
 ありたい
 ただあるように
 ありたい
 いつの日にか


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