風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

考える葦(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第146話)

2012年12月29日 00時03分48秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 考え方が変わったというよりも、ぼんやり生きていた僕がいろんな物事を真剣に考えるようになったのは、バックパックを背負って旅に出て、今住んでいる中国で暮らすようになってからだった。
 デカルトは、
「我思う、ゆえに我あり」
 と書いた。
 考えることは、物事を疑うことから始まる。
 だけど、たとえ世の中のすべてのものを疑って否定したとしても、そんな風に物事を考えている自分の存在は否定できない、ということだ。物事を疑っている自分だけは、しっかり実在している。
 デカルトは疑って疑い抜いてとことん考えたから、こんな命題を書物に記したわけだけど、そこまで突き詰めなくても、「疑う」ということは考えることの第一歩になる。
 外国で暮らしてみると、日本では考えられなかったことに出くわす。ささいなことでも、日本と外国の差異に考えさせられる。自分が培ってきた「常識」がばらばらと音を立てて崩れる。
 日本人なら言わなくても通じる「暗黙の了解」が通じない。もちろん、外国にも、「「暗黙の了解」はある。しかし、それは日本の「暗黙の了解」とはまた違ったルールで動いている。どうにも居心地が悪くて、心に棘がささったようで、胸がちくちくと痛むこともある。
 小さなことでいえば、テーブルマナーがそうだ。
 日本では、魚の骨や鶏の骨を絶対にテーブルのうえに置いたりしない。必ず、自分の皿に置くか、がら入れの器を用意してそこに捨てる。だが、中国ではテーブルのうえに置いてもいい。初めはかなり違和感があったけど、そうするよりほかにない。中国人の家に食事に招待された場合、がら入れをくれとお願いするわけにもいかない。相手に煩わしい思いをさせることになるので、エチケット違反になる。今ではずいぶん慣れてしまったけど。
 また、ご馳走によばれた時は、全部食べてはいけない。
 日本では残さずに平らげるのが礼儀にかなっているが、中国の場合、それをするとホストの面子を潰すことになる。つまり、中国人の考え方では、「ホストは客を満足させられるだけの料理を用意しなかった。もてなしが足りない」ということになるのだ。少しだけ残して、「もう食べられません。食べきれないほど用意していただいてありがとうございました」というふうに箸を置くのが礼儀にかなっている。
 そんな壁にぶつかったところで、自分の常識を疑い始める。「常識」と「正解」は別問題なのだと気づかせられる。
 さて、それからが大変だ。
 固いと思っていた自分の基盤がぐらぐら揺れる。なにが「正解」なのかわからなくなってしまう。
 中国人は彼らの「常識」で僕にいろんな物事を問いかけてくる。もちろん、彼らの常識も「正解」ではない。「常識」は「常識」にすぎない。中国の文化のなかでだけ通じる処世術にすぎない。人と無用な摩擦を生まないようにうまく振る舞うということも、生きてゆくうえで大切な技術ではあるけど、民族の違いを超えて、時を超えて、変わらない大切なことを自分自身の手でしっかり摑みたいと願うようになった。自分の軸をしっかり築かなければ、相手のいいようにされてしまったり、倒されてしまったりするから。自分がなにをしたいのかさえも、わからなくなってしまうから。
「正解」を求めるためには、その物事の本質はなんだろうという問いかけが不可欠だ。それなしでは、「正解」を得られない。理解できないことにでくわした時は、牛が胃の中のものを反芻するように繰り返し考える。正直なところ、いろんなことにぶつかりすぎて胃がもたれている感じではあるけど、いろんなことが勉強になった。いろんなことを誤魔化しながら生きてきたんだとよくわかった。もちろん、僕自身のことだ。
 外国での生活は苦労が多いけど、その分、収穫も多い。思い切って放浪の旅に出てよかった。死ぬまでずっと、考える葦でありたい。そして、その糧で以て、文章を綴りたい。


(2012年1月1日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第146話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

戦争の跫音(あしおと)がする

2012年12月23日 16時42分32秒 | エッセイ

 時代の闇がまたいちだんと濃くなった。

 先の総選挙で中道リベラル勢力が壊滅してファシズム勢力が躍進したことにより、戦争への道が開かれてしまった。
 戦後、日本がこれほど右傾化したことはない。しかも、左翼、中道をあわせても衆議院の議席数は全体の10%にもおよばず、野党がほとんどいない状況だ。個人の生命や人権を平気で踏みにじるファシストたちがやりたい放題にできる。
 サミュエル・ハンティントンは『文明の衝突』のなかで日本と中国を別の文明に分類したが、日本文明と中華文明が衝突する(というよりもむしろ、むりやり衝突させられる)危険性が現実味を帯びてきた。非常に危ない。

 日本は隣の中国と紛争になりかけの事件を抱えている。
 例の島の問題だ。
 日本と中国は互いに挑発を繰り返し続けており、両国の政府が和解する見通しは立っていない。どちらかが下手を打てば、一気に軍事衝突へ進んでもおかしくはない。

 国境の領土問題は決着がむずかしい。ましてや、無人の離島ともなればなおさらだ。そこで、解決のつかない問題は手を触れずに先延ばしにしておこうというのが、日中国交回復にあたった双方の政治家たちが出した智恵だった。日本の歴代内閣はこの方針に基づいて対処してきたのだが、数年前から、前原、石原といった一部の政治家がおかしな対応をとるようになった。決定的だったのは、もちろん、石原慎太郎が言い出した例の島の国有化問題だ。実効支配しているのは日本なのだから、中国を刺激せずに、つまり中国の面子を立てながらもそのまま黙って実効支配しておけばよかったものを、わざわざ騒ぎ立てて問題を大きくしてしまい、野田内閣が胡錦涛の面子を潰す形で国有化を強行した結果、日中関係に深刻な亀裂を入れてしまった。従来の日本政府の立場は、「領土問題は存在しない」というもので、以前は実効支配を盾にして中国側の要求を無視することもできたのだが、これだけ騒ぎが大きくなれば領土問題が存在することを認めてしまったも同然で、そうもいかなくなった。国有化は愚策としか言いようがない。

 この問題の背後には、日中を衝突させたいとするアメリカの凶暴な軍事路線勢力の思惑がある。いわゆる「中国封じ込め論」の尖兵として日本を利用し、中国を牽制しようとする動きだ。例の島の問題を騒ぎ立てる日本の政治家は、口先では勇ましいことを言いながらも、実はこのアメリカ勢力に踊らされている。もっとはっきりいえば、彼らの指令を受けて行動している。石原慎太郎がアメリカの某財団に招待された際、その記者会見の場で例の島の国有化を発表したのがいい例だろう。つまりアメリカの某財団の操り人形になって動いているわけだ。橋下もアメリカの言いなりになって動いている。以前、大阪維新の会が発表した「維新八策(船中八策)」の内容は、新自由主義の推進、TPP参加、医療保険の混合診療の完全解禁、日米同盟堅持などとアメリカの要望がほとんどだ。「維新の会」は維新でもなんでもなく、改革の皮をかぶった擬似改革政党にすぎない。自民党の補助勢力であり、アメリカが立ち上げた操り人形政党だ。

 自民党が『日本国憲法改正草案』の2012年版を発表したが、これは中国との戦争を実行しやすくするためのものにほかならない。そのためにまず憲法九十六条を改正して、衆参両院で3分の2以上の賛成が必要という改正手続きのハードルを下げ、その次に国民の主権を制限した憲法へ再改正して戦時体制を容易に作り上げることができる態勢を整えることを狙っている。

 自民党の改憲草案では、現憲法の「公共の福祉」という言葉が、「公益及び公の秩序」に置き換えられている。「公共の福祉」という概念は、みんなで力を合わせて暮しやすい社会を作るということだ。これに対して「公益及び公の秩序」はまったく反対の概念になる。公益とは国家の利益、公の秩序とは国家の秩序のことだ。つまり、国家の命令にはすべて従わなければならないということにほかならない。

 自民党の改憲案では国民の生命、人権、主権、財産、表現の自由はすべてこの「公益及び公の秩序」の制限を受ける。国家の戦争に協力しないものは、戦前のように「非国民」扱いすることができるわけだ。戦争反対のデモをしようとすれば、「公益及び公の秩序」に反するとして解散させられ(あるいは逮捕され)、戦争反対の文章をブログに発表すれば同じ理由で削除され(あるいは逮捕され)、財産は戦争のために供出させられるだろう。当然、命も「公益及び公の秩序」の制限を受けるわけだから、戦場へ駆り出されても国民は文句は言えない。国家が国民を徴兵できるということだ。

 自民党草案の憲法第九条案は、表面上は現憲法と同様に戦争放棄を掲げつつ戦争をしやすいように様々な修正が施されているが、なかでも目を引くのは次の条文の新設だ。

 (領土等の保全等)
第九条の三 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

 わざわざ「領土等の保全等」の条文を追加し、しかも「国民と協力して」と書いてある。この条文が例の島を念頭に置いてあることは明白だろう。「その資源」とは例の島の周囲に埋蔵された石油のことだ。そして、「国民と協力して」とは、戦争のために国民の主権を制限し、場合によっては徴兵する可能性もあるということにほかならない。

 現憲法と自民党の改正草案の根本的な発想の違いは、天賦人権説に基づくか、国賦人権説に基づくかが大きなポイントだ。天賦人権説は、人権は神様から与えられたと考える思想だ。神様を抜きにして、人間は生まれながらに人権を持っていると考えてもいい。これに対して、国賦人権説は人権は国家が与えるものと考える。第十九条を比較してみればすぐにわかる。

(現憲法)
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

(自民党改憲案)
 思想及び良心の自由は、保障する。

 一見、似たようなものに思えるが、「侵してはならない」と「保障する」では意味合いがまったく違う。
 人は生まれながらにして思想及び良心の自由を持っているとする思想では、国家が人権を侵してはならないと考える。人権は聖なるものだからだ。これに対して、国家が思想及び良心の自由を与えるとする思想では、これらの自由は国家が保障すると考える。当然、国家が与える自由は、国家にとって都合のいい場合に限られる。ちょうど、戦前の日本や現在の中国と同じように。ちなみに、第二十九条の財産権の条文でも、「これを侵してはならない」が「保障する」に書き換えられている。場合によっては財産を召し上げることもありうるということだ。

 今はまだ日本が戦争を始めるだなんてとんでもないと思っている人のほうが多数派かもしれない。戦争なんてないほうがいいに決まっている。平和がいいに決まっている。が、もし例の島で軍事衝突でも起きれば、これほど右傾化が進んで極右(ファシスト)が幅を利かせている状況では、あっという間に戦時体制ができあがってもおかしくはない。戦前と同じように大手マスコミが戦争の方向へ世論を誘導するだろう。外国と軍事衝突を起こして混乱した時ほど、為政者にとって国内の統制を強めるチャンスはほかにない。人々が最も団結しやすいのは外に「敵」がいて、それに立ち向かわなければならない時なのだ。軍事衝突が発生すれば国民が国家の統制を受け容れやすい状態が出現して危機感に駆られた人々やナショナリズムを煽られた人々が戦時体制に同意することは大いにありえる。これは日本であろうと、中国であろうと、他の国であろうとどこの国でも同じだ。

 歴史の転換点は、一九八九年にベルリンの壁が崩壊した時のようにあっけないほど急にやってくる。そして、ベルリンの壁が壊れたのと逆のこともまた、あれよという間に起きてしまうだろう。
 戦争の跫音(あしおと)が後ろから聞こえてきた。



 了


四川火鍋

2012年12月22日 01時47分20秒 | フォト日記


 

 四川省成都で本場の火鍋を食べてきた。

 地元の人に案内してもらって、評判のお店へ行ってきた。

 鍋は真ん中があっさりで、周囲が麻辣(しびれるからさ)の二種類の味が楽しめるタイプ。

 もっとも、四川人はほとんど麻辣しか食べないけど。



 

 四川火鍋は油につけて食べる。



 

 こってりとした味でおいしかった。

 ときどき、ごりっと小さな粒を嚙んでしまう。山椒の粒だ。舌がぴりぴりしてくる。

 食べ終えるころには、山椒と唐辛子で口のなかがぴりぴりひりひりする。それがとても心地良かったりする。

 体があったまり、頭に汗をかいた。

やる気ないですぅ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第143話)

2012年12月15日 20時01分58秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 日本語のできる中国人の女の子を雇い、僕のアシスタントとしてつけてもらっている。いろんな雑務が舞いこんでくるし、日本ではあり得ないアクシデントがしょっちゅう起きて振り回される。とても一人では仕事を回せない。
 アシスタントの彼女は、今年の夏に大学の日本語学科を卒業したばかりだ。アニメ好きがこうじて日本語学科へ進むことにしたらしい。日本語の原音声でアニメを観賞できるようになりたかったのだとか。仕事が終わって家へ帰るといつもネットでアニメを観ているそうで、あまり有名でないアニメまでよく知っている。だから、仮にアニメちゃんとしておこう。
 いろんな人を面接した時、新卒のなかではアニメちゃんの日本語能力がいちばん高かった。最初の面接はすべて日本語で行なう。新卒の場合、緊張してしまってうまく日本語を話せなくなってしまう人も多いのだけど、物怖じせずに落ち着いていた。度胸があるところも買って採用することにしたのだった。
 もっとも、いくら日本語検定一級(英検でいえば一級レベル)を取っていて日常会話ができても、ビジネス日本語まではできないから、メールの書き方、挨拶の仕方、ビジネス文書の翻訳の仕方といったイロハをいちから指導した。初めの頃は日本への報告メールを書き上げた後、三〇分くらいパソコンの画面とにらめっこしながら何度も読み返して間違いがないかどうか確認してから送信していたものだったけど、飲み込みが早くてめきめき上達してうまくなった。右も左もわからないまま社会人になって、おまけに日本語で仕事をしなくちゃいけないのだから、かなり大変だと思うけどがんばっている。
 ただ、広東人気質というか、アニメちゃんは亜熱帯の人間なので、かなりむらっ気なところがある。中国人は全体的に気分屋だけど、広東人はとくにそれがはげしい。疲れがピークに達するととたんにふにゃっとなってしまう。
 ある時、アニメちゃんといっしょに地下鉄に乗っていると、
「野鶴さん、わたしは疲れました。やる気ないですぅ。会社へ行きたくありませ~ん」
 と、甘ったれた訴えを投げかけてくる。
「あのなあ、それが上司に向かっていう言葉か?」
「でも、ほんとうのことだからしょうがないじゃないですかぁ」
「僕は仕事をいっぱい抱えさせられて大変なんだ。そばで見ていてわかるだろう。そんなことを言ったら野鶴さんがかわいそうだと思わないのか?」
「はい、わたしもそう思います」
 アニメちゃんはしゅんとしおらしい表情をして、
「わたしみたいな部下をもって野鶴さんはたいへんです。かわいそうですぅ」
 と、どっと涙を流すような仕草をする。どうも本気でそう思っているようだ。
「自分でわかっているんだったら、がんばりなさい」
「でもでもぉ、会社へ行きたくないんですぅ」
「だめだこりゃ」
 僕は頭を抱えこんだ。
 会社へ行きたくない時って誰でもあるけどさあ。
 そうかと思えば、
「わたしの人生はまだ始まったばかりだから、人生を真剣に考えて自分自身が輝けるステージを探さなくてはいけないんです。今の職場にこだわっていてはいけないと思います」
 などと生意気なことをのたまう。
「あのなあ、今までいったいなんのためにいろんなことを教えたんだ」
「野鶴さんは損してしまいますよね。でも、わたしの人生です」
 それはそうかもしれないけど、手間暇かけて教育して、やっと最低限のことができるようになったばかりなのに、それですぐに辞められたのではたまったものではない。引き締めておかなければいけない。
「ふざけるなっ!」
 僕はアニメちゃんにヘッドロックをかまして、文字通り締めた。機嫌の悪いときは屁理屈をこねて反抗するので、そんな時もヘッドロックをしてちゃんとやれと指導するようにした。今の日本だったら絶対にできないけど。というか、そもそもふざけた反抗の仕方なんかしたりしないけど。
 ヘッドロック教育の成果はばっちりだった。怒るふりをすると、頭を隠して逃げ、言い付けを守るようになった。やさしくなければ人ではない。だけど、やさしいだけではいけない。飴と鞭を使いわけなくてはいけない。
 ところで、最近発見したのだけど、課内の食事会を設定するとアニメちゃんのモチベーションがあがる。食事会を楽しみにして、それまではルンルン気分ではりきって仕事をしてくれる。食事会が終わるととたんにトーンダウンしてだらりとしてしまうのだけど。
 じつにわかりやすい。



(2011年12月11日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第143話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

恐るべき吉林人(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第141話)

2012年12月10日 06時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 
 吉林省は中国東北三省の真ん中にある省。省都は長春だ。緯度はだいたい日本の北海道くらいで、昔でいう満州平野の真ん中にある。長春はおだやかな感じのいい街だ。人ものんびりしている。
 北海道くらいの緯度に位置していて、しかも内陸なものだから、十一月くらいから最高気温がマイナスになり、真冬になると氷点下三十度になったりする。とても寒いところだ。
 寒いから酒を飲んで温まる。
 酒を飲まなくては体が温まらない。
 職場に吉林人の同僚がいて、しょっちゅう一緒に仕事をするのだけど、なんでも彼は、地元に帰った時にはアルコール度数が五〇数度もある白酒を茶碗へなみなみと注いで友達と乾杯するのだそうだ。もちろん、文字通り杯を飲み干すのである。茶碗一杯分の白酒をひと息に飲み干して、すぐにまた乾杯する。二杯目を飲み干せば、三杯目の乾杯にうつる。そうして、延々と白酒を乾杯し続ける。それが彼らの飲み方なのだとか。
 彼といっしょに日本出張へ行った時、日本の本社の人たちに夕食をご馳走になったのだけど、その時、彼は本社の酒豪Sさんと飲み比べをした。ビールを何杯も乾杯でイッキ飲みして、サワーも次々と一気に飲み干しておかわりし続けた。飲み放題コースをお願いしておいてよかった。それはともかく、酒豪で鳴らしているSさんもかなわず、最後はとうとうダウンしてしまった。
「強すぎるよお。なんであんなに飲めるんだよお」
 と、Sさんはつぶやきながら眠りこんでしまった。完全に潰れてしまった。
 一方、吉林省の彼は、
「ビールもサワーも薄いですから、まだまだ飲めますよお」
 と陽気にはしゃいでいる。ほんとうに、彼はまだまだ飲めそうだった。
 恐るべき吉林人。さすが白酒を茶碗に注いで鍛えただけのことはある。
 


(2011年12月4日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第141話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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