どこでなにをしているの?
木枯らしがアスファルトに落ちた枯葉をさらってゆく。風に巻かれた木の葉たちはコンクリート造りの小さな橋を渡りそこね、狭苦しい住宅街を縫いながら流れる川へはらはら落ちる。肩をすぼめた僕は、遥が編んでくれたマフラーを巻きなおした。いっそのこと、川に氷が張るくらいに、息も凍るくらいに冷たくなってくれたら、遥のことを思い出さなくてもすむのに。
信号が青に変わる。僕は立ち止まろうとしていたのだけど、見えない力に引っ張られるようにして、また歩き始めた。自分が自分でないような、うつろな気分。心が抜け殻になってしまったようで、ふわふわして地に足がつかない。ランドセルを背負った小学生たちが、はしゃぎながら僕を追い越す。
ふたりの思い出がつまった駅前の通りは、もうクリスマスの支度が始まっていた。コンビニも、ハンバーガーショップも、ドラッグストアも、ブティックも、店の前にクリスマスツリーを置いたり、金と銀のモールを飾り付けたり、ガラス窓に白いスプレーでサンタクロースやトナカイの絵を描いたりして華やかだけど、僕の心まで賑やかにはしてくれない。去年の今頃は、世界中のすべてが僕たちを祝福してくれているように感じたのに。
「わたしは自分のことなんてなんにも知らない。――だから、ゆうちゃんのこともよくわからないの。――自分のことを知らない人は、ほんとうに誰かを愛することなんてできないのよ。だから――」
あの日、遥はつらそうな顔をして切り出した。言葉につっかえる彼女が痛々しい。綺麗に切りそろえたショートカットの黒髪が垂れ、化粧もなにもしていない素顔のままの白い顔が隠れる。あれほどなんでも話してくれたのに、もう自分の心は見せたくないと僕から逃れるように。
どんなふうに愛し合えばいいのかということは、ふたりでなんども話し合ったことだった。僕は、ゆっくりいろんなことがわかるようになればいいと、繰り返し彼女に言い聞かせた。僕自身にしろ、愛の意味なんて、なんにも知らないのだから。でも、僕の言葉も想いも、遥の支えにはならなかった。彼女にあんな別れの言葉を言わせたのは、たぶん、僕なのだろう。心がうつむく。グラスが傾くようにして、心のはしから氷水がこぼれそうになる。
遥のことなら、神さまよりもずっと理解していたつもりだったのに。
僕は、いったい遥のなにをわかっていたのだろう?
一週間前、別れることに決めて、駅の改札口まで遥を送った。気だるくてさびしい昼下がりだった。
「気が変わったら、いつでも帰っておいでよ」
彼女の荷物をつめた紙袋を渡した。意外に重かったから、彼女一人で持ちきれるだろうかと心配だった。ふと触れ合った指先が、今になっては妙に気恥ずかしい。
「わたしは、ゆうちゃんを傷つけたのよ」
遥はうつむく。遥の声は、泣いているようにも、怒っているようにも聞こえた。自分の感情をもてあました時のいつもの癖だった。
「いいんだよ」
僕は、さらりと手を振って背を向けた。
遥の強い視線を背中に感じたけど、僕は振り返らなかった。振り返ることなんて、できなかった。駅前のロータリーへ出た僕は、一瞬のうちに、これまでの六年半あまりのことを思い出していた。初めての恋人との初めての別れ。いろんな感情を押し寄せすぎて、僕の心は、ただ腫れたように痺れるだけ。かけがえのない人を失った直後は、こんなものなのだろうか。きっと、明日あたりには心が落ち着いて、さよならを実感するのだろう。そんなことをぼんやり思いながら、あてずっぽうに都営バスに乗った。僕は外の景色も、自分の心も見なかった。早く遥から離れてあげなくっちゃ。そのことばかり、ずっと自分に言い聞かせていた。
初めて遥に出会ったのは、中学三年生の時だった。新しいクラスでたまたま隣同士に坐ったのが、彼女だった。遥は友達を作ろうともせず、ただ静かに自分の世界を守るようにして、休み時間は必ず独りで文学書や聖書やキリスト教関係の本を読んでいた。おとなしそうな外見とはうらはらに、本を見つめる彼女のまなざしは勁《つよ》かったから、無口だけど意思の強い女の子なんだろうなと感じた。遥のそばに坐ると、いつも透明な香りがした。その香りは、どこか神秘的で、誇り高くて、涼やかな月の光のようだった。かぐや姫がもし実在したのなら、きっと遥のような少女だったに違いない。わけもなくそんな気がしてならなかった、というよりも、中学生らしい身勝手さで僕はそう決めつけてしまった。彼女の清明な香りが、すりきれた家族とともに暮らしていた僕の心を明るくしてくれた。
僕は、必要なこと以外は口を開こうとしない彼女へなにくれとなく話しかけた。話しかけずにはいられなかった。やや開き気味の大きな瞳が愛らしいし、人形のように小作りな顔も、雪肌のすらっとしたうなじも素敵だし、なにより、細いあごの片隅についた小さなほくろがあどけなかった。遥は初めのほうこそ僕にとまどっていたけど、そのうち自分から僕へ話しかけくれるようになり、時折、飛びきりの笑顔を僕だけに見せてくれるようにもなった。
ずっと好きだった。
初恋の人だった。
彼女以外の女の子のことは考えられなかったし、考えたこともなかった。別々の高校へ進んだ後も、友達以上恋人未満の付き合いは続いた。
遥は現役で東京の大学へ進み、浪人した僕は一年遅れで地元を離れて東京へやってきた。御茶ノ水の聖橋で再会した時、僕たちはぎこちなかった。僕よりも一足先に大都会の暮らしに馴染んだ彼女は、別世界の人のように大人びていたから。でも、一緒に時を過ごすうちに、中高校生の頃のようにまた打ち解けることができた。学校のことも、友達のことも、家族のことも、人には言えない悩み事も、なんでも話せる友達へ戻った。僕の遥を取り戻せてうれしかった。
去年のクリスマス前、僕の買い物に付き合ってもらって街を歩きながら、そっと遥の手を握ってみた。振りほどかれたらどうしよう、友達でさえいられなくなったらどうしようと冷やひやしたけど、遥は思ったよりも確かに僕の掌を握り返してくれた。
「わたしを受け容れてくれるのは、ゆうちゃんだけよ」
遥の声はあたたかだった。彼女の声はいつも木琴を叩いたように高く透明な音を響かせていたけど、あの時は、ひときわ澄んでいた。僕の二の腕が柔らかく熟れた彼女の乳房に押し当たる。愛が息吹き始めた彼女の鼓動は波打つようだった。
冷たく澄んだ水溜りがきらりと光る。
ふと足をとめ、空を見上げた。
今頃、どこで、なにをしているのだろう?
泣いたりしていないといいんだけど。
雨上がりのさっぱりとした青空に、クジラのような形をした雲がぽっかり浮かんでいる。大きな雲の下に小さな雲がへばりついていて、お母さんクジラに寄り添う赤ちゃんクジラのようだ。お母さんクジラはやさしい子守唄を唄っているみたいと、遥ならきっとそう言うだろう。彼女は雲を眺めるのが好きだった。地元にいた頃は河川敷まで自転車を走らせて、ふたりで土手に坐りながら雲の形を動物に見立ててよく遊んだ。冬の午後のやわらかい陽射しが僕をぬぐう。心がしんみりして、目の縁がほんのり熱くなる。
ほんとうに恋するよりも、恋したふりをしているほうがずっとうまくいく。そんな意地悪なことを言った恋の達人がいるけど、僕たちにはそんな器用な真似はできなかったし、したくもなかった。ほんとうの気持ちだけをお互いだけに伝えたかった。でも、恋の達人の言葉はある意味で事実を言い当てているのかもしれない。ほんとうに愛そうとすればするほど、相手のことを思おうとすればするほど、僕たちは迷宮をさまようようになってしまったから。ずっと抱きしめていたかったのに、結局、遥を手放すことになってしまったから。
愛って、いったい何なんだろう?
(続く)