風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

『西門豹』 (第2章 - 2)

2011年04月04日 04時09分32秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 三日後の朝、西門豹は県庁の門へ出た。
 馬番が葦毛《あしげ》の馬を牽いてくる。西門豹自慢の東胡産《とうこさん》の馬だった。毛並みは中の上といったところだが、騎馬民族が育てた馬だけあって偉丈夫の西門豹が乗っても簡単にへこたれない丈夫さが身上だった。鍛えあげた古強者の風格がある。
 足を蹴り、宙へ舞うようにしてさっとまたがった。
 一直線に大通りが伸び、その先に城市《まち》の南門が見える。快晴の遠出日和だ。大きな獅子鼻《ししばな》の穴を広げてまぶし気に爽やかな朝の空気を吸いこみ、威勢よく手綱を一振りした。
 城市を抜け、小麦畑の中の道を飛ぶように駆けた。
 目的地は彩の住む村だった。
 額に汗がにじむ。
 胸が高鳴る。
 あの娘と言葉を交わすのだ、と思っただけで心がせいた。
 小さな原生林を抜ける。小高い丘の上に集落が見えた。遠目にも目に飛びこんでくるほどの真新しい白壁の家が、等間隔で整然と並んでいる。入口には、高い柱が二本、青空を突き刺すようにしてそびえていた。
「あれが目印だな。巫女の村か」
 巫女だけが住むという話だった。
 丘を駆け登り、柱の傍で止まった。呼びかけて案内を請おうとすると、すぐ脇の祠《ほこら》の陰から色白の女が音もなく現れる。彩だった。
「お待ちしておりました」
 彩は、優雅に揖《ゆう》(両手を胸の前で組んで上下させる礼)をする。西門豹は、少年の日にあったような青いときめきを覚え、
「どうしてわかった?」
 と、骨ばった顔を微笑ませながら訊いた。西門豹の目許に朴訥《ぼくとつ》にも見える笑い皺が浮かび、二重まぶたが意外にかわいらしい曲線を描く。滅多に見せない顔だった。
「ゆうべ星を見て知りました。西門さまは、どうして今日わたくしが村にいるとわかったのですか」
「そんなことは考えもしなかった。話をしたくなったから来ただけだ」
「先日は大変ご無礼いたしました」
「気にしなくていい」
「恐れ入りますが、村の中では馬には乗れません。どうぞ降りてください」
 彩は、取り澄ました表情のまま綱を取る。西門豹は馬を降りた。彩は馬の鼻を優しくなで、なにごとかを語りかける。
「馬の心がわかるのかな」
「はい。ですが、この馬はまだ心を開いてくれません。会ったばかりだからでしょう。そのうち友達になれます」
 彩は、祠の脇の槐《えんじゅ》に馬を繋《つな》いだ。木陰には桶が二つあり、新しい秣《まぐさ》と水が用意してある。星占いの話はどうやら本当のようだと得心《とくしん》がいった。
「どうぞ、こちらへ」
 彩は掌を上へ向け、村の中心を指し示す。
 村の中央は広場になっていて、奥には極彩色の模様を施した大きな社が建っていた。ぴんと張りつめた空気が漂い、肌を突き刺す。人影は見当たらないのに、誰かに見られているような厳しい視線を感じる。
 ――神々のまなざしか、もののけのまなざしか。
 西門豹は、ふとそんなことを思い、
「一年中、ずっとここにいるのか」
 と、きれいに掃き清められた広場を横切りながら訊いた。
「そうです」
「実家へは帰らないのか。父母が恋しくはないか」
「おりません。赤子の時、わたくしはさきほど馬を繋いだ槐の下に捨てられました」
「すまなかった。気を悪くしないでくれ」
「いいのです。わたくしはここで大切に育てていただきました。ここがわたくしの家です。寂しいなどと思ったことはありません」
 一番大きな家へ招かれ、軒先で足を洗ってから入った。
 部屋には香がたちこめている。すっと心が安らぐ香りだった。
 彩は敷物を勧める。西門豹は正座して、二人は向かい合った。深い森の奥にいるような、どこまでも静かな部屋だった。この部屋の雰囲気は彩の瞳に浮かぶ不思議な静けさと同じだと、西門豹はふと気づいた。彩の後ろの壁いっぱいに、緋色《ひいろ》の地に金糸で龍を刺繍した荘厳な緞子《どんす》がかかっている。雄々しく体をくねらせ、空を昇る龍だった。
「この間の話の続きだが、そもそもなぜ龍神は怒っているのだろうか」
 西門豹はさっそく切り出した。龍の実在を信じたわけではない。彩がなにを考えているのか、隅から隅まで余すところなく知りたかった。
「人があるがままを壊すからです」
 ふっと彩の顔つきが変わり、真剣なまなざしで西門豹を見つめる。
「あるがままとはなんだ」
「この世のことです。河、森、山、この世のすべてのことでございます。河伯さまは、人がこの世のすべてを壊し、調和を乱すことにたいへんお怒りです。とりわけ、たくさんの木を伐って森を失くしてしまったことに」
「河の神がなぜそのようなことに怒る?」
「すべては一つに繋がっております。森が壊れれば、河も壊れます」
「たしかに、鉄を作るために木を伐りすぎてしまった。製鉄には大量の薪が必要だからな。昔は森が雨水をたくわえたものだが、今ではひとたび大雨になれば、雨水は荒地の表面を流れ、そのまま河へ注ぎこむ。一度に大量の雨水を抱えこんだ河は溢れ、洪水が起きる」
「森を壊し、森の神々をおろそかにした報いです」
「では、森を元通りにすれば、龍神の怒りもおさまるのだな」
「そうかもしれません。ですが、そもそもの問題は思い上がった人の心にあります」
「思い上がってなどいないが」
「そうでしょうか。人は森羅万象《しんらばんしょう》に宿る神々とともに生きています。それを忘れてはなりません。人は青人草《あおひとぐさ》です。あるがままの土から産まれ、青々と命を繁らせ、ついには再び土へ還《かえ》る草です。人もまた、あるがままの一部にすぎません。それなのに、己の欲のために森や河をほしいままにするなどもってのほかです。これを思い上がりと言わずに、なんと言えばよいのでしょうか」
 彩の瞳にかすかな怒りがたぎった。狂信者の眼のようにも、子を守る本能に駆られた母の眼のようにも見える。どちらにせよ、息を吹きかけた炭火のようで綺麗だった。
「人が欲深いというのは理解できる。だが治水に成功したよその県では、神々を祀りながら堤を築き、開墾して、民の暮らしが上向いている。今のように貧しさに追われるのではなく、暮らしが楽になっている。それはいけないことなのか」
「いけません。あるがままを壊せば、そこに宿る神々が死にます。神々を殺せば、人にも必ず跳ね返ってきます」
「どういうことだ」
「神々が死ねば、人も死にます」
「死んでなどいない。むしろ、ここよりもずっといい暮らしをして、活きいきとしている。私はこの目で見てきた。嘘ではない」
「今はいいでしょう。ですが、やがて死にます。まず、心が死にます」
 ――心が死ぬ。
 その言葉が西門豹の心のどこかを穿った。心の水面に石の礫《つぶて》を投げ入れられたようで、はっと彩を見つめた。
「なぜだ」
 西門豹は、眉間に深い亀裂を刻む。
「あるがままに棲む神々は、わたくしたちの心を見つめています。そうして、わたくしたちの心を支えています。だからこそ、人の心も生きていられるのです。その神々が死ねば、人の心は見つめられず、支えられず、死んでしまいます。心が死ねば、おのずと体も滅びましょう。人はすべて死に絶えてしまうでしょう」
「胸のすくようなことを言う」
 西門豹はからっと笑った。彩の思い切った物言いが小気味よかった。
「人が全部死んでしまえば、この世はさぞせいせいするだろうな。だが、そんなことが本当に起きるかな」
「わたくしには、はっきり見えます」
「では一つ訊くが、龍神も死ぬのか」
 西門豹は真顔に戻った。
「それは――」
 彩は顔を強張らせる。悲しみの薄い膜が彼女の頬を覆う。薄く塗った蝋《ろう》のようで、触れればひび割れてはがれ落ちそうだ。
「このままではそうなるかもしれません」
「龍神が死ねば、彩殿の心も死ぬか」
 西門豹は、思わず畳みかけた。訊かずにはいられなかった。彩はひっそり目を瞬かせ、なにも言わず身じろぎもしない。思いつめた瞳が風に弄《もてあそ》ばれる鈴のように揺れる。西門豹は、獲物を追うような視線で緞子の龍を睨んだ。心の底に憎しみの錐《きり》が突き刺さる。犬くらいならひねり殺せそうなごつい手を握りしめた。
 ――龍神が恋敵などとは、ばかげている。
 そう思ったが、どうにも抑えられない。
「彩様」
 突然、息を切らした男の声が響いた。
「せがれがすごい熱を出して、うなされておるんです。それだけじゃなくって、火柱が見えるなんて叫んで走り回るんですよ」
「わかりました。すぐに行きましょう」
 彩は、涙まじりの声ながらも気丈《きじょう》に答える。大巫女としての責任感がそうさせるのだろう。西門豹は、その健気《けなげ》さがいとおしくて、
「送っていこう」
 と、立ち上がった。
「ありがとうございます。助かります。では、わたくしは道具を取って参りますので、槐のところでお待ちください」
 彩は、硬い面差しに無理した微笑を浮かべ、奥の部屋へ消えた。
 西門豹は、男を伴って家を出た。男は、陽に焼けた肌から土の匂いを放つ丸きりの農民だった。話を聞いてみると、男の息子は九つで、八人育てた子供のうち最後に生き残った一人だと言う。他の子供は飢えと病気で死んでしまった。
「苦労したな。ところで、彩殿の医術はどうだ」
 西門豹が慰めるように肩を叩いて尋ねると、
「そりゃもうすごいですよ。せがれは、去年も彩様に助けていただいたのです」
 と、男は憂鬱だった顔をぱっと輝かせる。
「信頼しているのだな」
「もちろんですとも。彩さまが大巫女になられて、みな大喜びです。あんなに力を持ったかたは、ほかにいません。河伯さまだって、きっと鎮めてくださるでしょう。洪水はなくなりますよ」
「そうなればよいがな」
 それ以上返す言葉もなく、西門豹は思案気に腕を組んだ。
 巫術《ふじゅつ》で水害がなくなるのなら苦労しない。しかし、たとえそれを話してみたところで、精霊信仰と言えば精霊信仰、迷信と言えば迷信の世界観の中で生きている農民に理解できるはずもない。そんな彼らをどう導くのかが難しい。
「お待たせしました」
 彩が走ってきた。男の住む村は十五里(約六キロ)離れたところだという。二人で先に行くことにした。西門豹は後ろに彩を乗せ、馬を走らせた。
 彩の腕が西門豹の腰を抱く。西門豹は背中に柔らかい果実の甘い重みを感じ、じわりと伝わるあこがれの温かみを背中で測った。
 ――とても手の届きそうにない女を乗せている。
 西門豹は、まっすぐ前を見た。見開いた目には、引き締まった凛々《りり》しさが浮かんでいる。
「この馬は、なんと呼ぶのでしょうか」
 彩が問いかける。
「名前はない。なぜ馬の名を訊く」
「乗せてもらっているのに、名前を知らないのはおかしいですわ」
「彩殿が名付け親になってくれ」
「よろしいのですか」
「もちろん。馬も喜ぶだろう」
「では、蒼い風と書いて蒼風《そうふう》ではいかがでしょうか」
 彩の声は弾んでいた。
「よい名だ。馬にかわって礼を言う」
 蒼風は脚を速め、細く伸びる土埃の道を駆けた。



(続く)

『西門豹』 (第2章 - 1)

2011年04月02日 20時03分27秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 慌ただしい日々を送った。
 連日、長老たちや大店の商人や工場経営者といった地元の有力者が入れ換わり立ち換わり挨拶にやってくる。西門豹は、彼らとの面会に追われた。
 志を同じくする地元の協力者が欲しかったが、おもねり媚《こ》びて取り入ろうとする者ばかりで、これはと思える人物には出会えない。彼らは、西門豹を都へのパイプ役として利用したいだけだった。彼らとのやりとりはどうにも退屈でひまわりの種でもかじりながら適当にあしらいたかったが、そうもいかない。訪問客が差し出す近づきの印の品をやんわり断り、退屈も仕事のうちと割り切って折り目正しい県令を演じた。
 そんなある日、気になる客が西門豹を訪《おと》なった。
 書記官が大巫女《おおみこ》の訪問を告げた。
 巫女は、農村では知識階級であり、医師であり、神々と民衆を取り結び、民間の信仰を司るものとして農民の尊敬を集める存在だ。巫女の頭である大巫女は重要な客人だった。例の河伯祭についても、事情を聞き出さなくてはならない。
 西門豹は母屋の中央の間へ通すよう言いつけ、いつもより念入りに衣冠を整えた。
 部屋へ入ると、龍をあしらった銀細工の髪飾りをつけ、絹の白装束に身を包んだ若い娘がひれ伏していた。この白装束は一般人が葬式で身にまとう衣服であり、つまり死人=霊魂と向かい合う時に着る喪服が巫女の制服だった。
 西門豹は、前任者が遠い蜀《しょく》の国からわざわざ取り寄せたという最上質の漆塗りに精巧な螺鈿《らでん》をちりばめた座椅子へゆったり腰かけた。巨躯《きょく》と独特の顔つきのために、西門豹は常に峻厳《しゅんげん》な印象を与えがちだが、よくよく見てみれば、しっかりと結んだ口許は人を包みこむ大海のような穏やかさを帯びている。たおやかな陽光が窓から射しこむ。その光に螺鈿がきらめく。
「ようこそ参られた」
「恐縮にございます」
 女の声は凛と澄んでいた。岩間からこんこんと湧き出す甘露《かんろ》を想い起こさせる声だった。俗物の応接に明け暮れていた西門豹はどこか心を洗われた気持ちになり、さっぱりとした麻布で束ねた女のおろし髪を見つめた。
「面を上げられよ」
 大巫女は、恭《うやうや》しく顔を上げた。
 髪飾りの両端に吊るした翡翠《ひすい》がわずかに揺れている。深くしっとりとした色合いのよほどの上玉だった。それが頬にかかる丁寧に切りそろえられた漆黒の髪と、純白と形容したくなるほどのまぶしい肌とのあざやかなコントラストに涼しいアクセントを添えていた。大巫女は瞬きもせず、じっと西門豹を見つめる。
 ――神々の高級娼婦。
 西門豹の脳裏にそんな言葉が閃《ひらめ》いた。
 大きすぎるほどの黒目がちな瞳が、人のたどり着けない深い山奥にある沼のようで不思議な静けさをたたえている。それは、神々に仕える者だけが持つ揺るぎない確信と完璧な無垢からくるものなのかもしれない。だが、服の上からもそれとわかる豊満な肉体は、まるで秘密の花園でもぎ取った極上の白い果実のような、甘く強い色香を放っている。これ以上丸みを帯びれば崩れそうな、これ以上細くなってもなにかしら物足りないような、そんな危うい均衡《きんこう》を保つ腰から尻へかけての稜線《りょうせん》は、若葉に浮かぶ朝露の表面張力にも似たみずみずしい緊張感に溢れている。柔らかくみなぎった清楚な綾衣《あやごろも》の胸元に、桃色の頂上と小さな乳輪がかすかに透けていた。
 色気にあてられたのか、湿った生温かさに胸を締めつけるようだったが、
「名は?」
 と、西門豹はそんな感情の揺れをおくびにも出さず、短く尋ねた。
「彩《さい》と申します」
 彩は、西門豹の目から視線を逸《そ》らさずに返した。
「ずいぶん若いと見受けるが」
「十九です」
 彩は、今日から大巫女を務めることになったと言う。
 先代の大巫女は、半月前に七十過ぎの老齢で他界した。大往生だった。通常なら比較的年齢の高い経験豊かな練達者が後継者になるところだが、まれにみる高い霊力を買われた彩は先代の遺志もあってとくに選ばれた。もちろん、河伯を鎮《しず》めるのを期待されてのことだが、そこまで語ったところで彩はそんな自信ありませんとつぶやき、困ったように瞳を伏せた。
「正直だな」
 西門豹は淡々と言った。
「ないものをあるとは申せません」
「いいのだ。別に責めているわけではない。それで、どうするつもりだ」
「祈りよりほかにありません。わたくしのすべてをかけて祈り、河伯さまを大切に祀《まつ》るのでどうか洪水を起こすのはやめていただきたいと、想いを伝えるよりほかにありません」
 彩は唇をかみしめる。ふっくらとしたあでやかな紅が押しつぶれる。
 西門豹は、意見と立場は違うものの彩のひたむきさに素直に共感した。魂の一途さを彼は好んだ。ふと、己の使命を一生懸命語る彼女を励ましたい心持ちにさえなったが、それはできない。彼には彼の使命があった。
「ところで、私は龍を見たことがないのだが、どのような姿をしているのだ? あなたの髪飾りには龍が彫ってあるが、そのような形なのかな」
「はい、さようでございます」
「どうしてわかる」
「何度も会っています。髪飾りの河伯さまは、わたくしが見た姿をもとにして作りました」
 彩の声は、あくまでも真摯《しんし》だった。
 予期しなかった答えに虚を衝かれた思いがして、西門豹は途惑った。書物の中で見知らぬ漢字に出くわした時のようにとっさに意味を掴めず、くぼんだ眼窩の両目をみはった。
 ――嘘をついているとも思えない。世の中には人知を超えたものがあるからな。神がかりの巫女ならあり得ることかもしれない。
 西門豹は思い直し、どんなに奇異に思えても、彼女にとっての真実を述べているものとして受けとめようと決めた。
「いつから会っているのだ」
「物心のついた頃からです。ついこの間、斎戒《さいかい》していた時にもこられました」
「龍神はどんな様子だった」
「激しておられます。痛々しいほどのお怒りようです。かわいそうでなりません。わたくしは何度も河伯さまを抱きしめようとしましたが、かないませんでした」
「抱きしめる?」
「さようです。抱きしめていたわってさしあげたかったのです。苦しみをやわらげてさしあげたかったのです。悲しゅうございます。昔は河伯さまのほうからわたくしを抱きしめ、情を交わしてくださったものでした」
「情を交わすとは、まさか――」
「男女の営みのことでございます」
 彩の瞳に光がはねる。完熟した甘い桃のような頬に滴が伝う。
 西門豹は思わず犬歯をむき出し、歯噛みした。
 髪を乱した彩が滑らかな雪肌の太股を開き、ぬらぬら光る龍の長い胴を両脚ではさみこみながら、胸いっぱいの吐息をつくありさまが心をよぎる。神話の一場面でも見るような光景だった。どこにでもありそうで、どこにもないような切ない怒りが胸の底に湧く。嫉妬だと、自分で気づいた。
「わたくしは嫌われたのかもしれません。ですが、河伯さまはまだ会いにきてくださいます。それが、唯一の望みです」
 彩はのどをつまらせ、白絹より白い指で目の端を押さえる。
 西門豹は、腰に帯びた韋《なめしがわ》を右手で何度も揉《も》みしごいた。自分の気性の激しさを心得ていた西門豹は、心が波立った時、いつもそうして気を鎮めた。
 ――若い巫女に懸想《けそう》している場合ではない。治水と開発が焦眉《しょうび》の急だ。
 自分にそう言い聞かせ、彩をなだめて話を続けようと試みたが、彩はただ肩を震わせるだけだった。むせび泣く仕草は、失恋を嘆く若い娘のそれだった。そんな純情可憐な姿が西門豹の胸についた火種をいじりまわす。
「申しわけありません。今日はこれにてお暇させていただきます」
 彩は舞うようにして両手を床につき、お辞儀する。
 沈んだ後姿を見送った後、西門豹は座椅子へ深く腰かけた。
「坐り心地が悪い」
 座椅子を叱りつけ、せわしなく尻を浮かしては何度も坐り直した。だが、やはり落ち着かない。韋を揉み、それでも足りずに両手を組んで指の骨を続けざまに鳴らし、逞《たくま》しい体をよじって背骨を鳴らした。ちょうどよい坐りかたを見つけるまで、ずいぶん手間取った。
 
 

(続く)

『西門豹』 (第1章)

2011年04月01日 20時42分41秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 三月初めのまだ寒い時期だった。北風が強い。土手に立った西門豹《せいもんひょう》は、顔にかかる髪を払いのけ、手をかざした。河原にはひび割れた黄土が広がり、その先に太い泥水の帯が西から東へ緩やかに流れている。
 黄河。
 鈍く光る河は、拍子抜けするほどおとなしい。まるで、荒々しい情交の後、なにごともなかったかのように眠る女のようだ。乾期《かんき》の今は大河も息をひそめているが、やがてこの地にも雨期が到来して水かさが増し、ひとたび嵐の夜を迎えれば、だだっ広い河原も飲みこんで黄色い濁流がほとばしるのだろう。そうして、快楽の極みに達した女のように荒れ狂うのだろう。
「暴れ龍が棲んでいるらしいな」
 西門豹は言った。彼の顔貌《がんぼう》は、野人を思わせる異相《いそう》だった。額は力強くせり出し、濃い眉毛は逆立ち、眼窩《がんか》のくぼみは粘土の塑像《そぞう》に太い鏝《こて》を力任せに押しこんだかのようだ。黒曜石のように澄んだ瞳には、狩人のような鋭い眼光をたたえている。出くわした相手がたとえ龍であったとしても恐れずに狩ってしまいそうな、そんな闘志溢れたまなざしだった。
「河伯《かはく》(黄河の龍神)か。いるなら出してみろよ」
 傍らの李駿が吐き捨てる。李駿《りしゅん》は、均整の取れた優男だった。眉目秀麗《びもくしゅうれい》。清々しい竹のように涼しい香りを漂わせる。そのくせ、言葉に毒が多い。
「出てくるのかどうかは知らないが、いるのだろ」
 西門豹は、よくとおる低い声で言った。
 この魏国の鄴(ぎょう)県では、夏のたびに河が氾濫《はんらん》し、おびただしい数の人家と農地が水没する。民は、河に龍が棲《す》み、その荒ぶる龍が洪水を起こすと信じていた。西門豹は、この地に県令(首長)として赴任してきた。
「駿、信じれば、実在するのと同じだ。鄴(ぎょう)の者は、ちょっと考えられないような盛大な河伯祭を催して、祈祷を捧げる。おまけに人身御供《ひとみごくう》まで差し出すのだからな」
「人身御供?」
 李駿は、怪訝そうに聞き返した。
「年頃の美しい生娘《きむすめ》を探して、嫁として輿入《こしい》れさせるらしい」
「えらく文明的だね。豹、やめさせろよ」
「駿は鼻から迷信だと言って切り捨てるが、これは信仰だ。人身御供がいいとは思わないが、かといって心の拠り所を奪うわけにもいかない」
「そんなもん、どうだっていいだろ。龍を大切にしたって、褒美もでなけりゃ、出世もできないんだぜ。大事なのはお上のご意向だろ。忘れたのかよ」
「忘れてなどいない」
 西門豹は河を睨みつける。碇の先端のようにがっちり突き出たあごを心持ち上げて。
 戦国時代だった。
 諸国は外交上の駆け引きを繰り広げ、時には兵を出し、覇権を争っていた。陰謀で、戦闘で、戦禍で、人は呆気なく屍になる時代だった。
 気の抜けない生存競争を勝ち抜くためには、治水事業によって耕地面積を拡大し、農業生産力を高め、国力の増強を図ることが重要だった。とりわけ、魏は中原のほぼ中央に位置し、趙《ちょう》、韓《かん》、斉《せい》、秦《しん》、楚《そ》といった列強に取り囲まれている。富国強兵は喫緊《きっきん》の課題だ。だが、。鄴(ぎょう)県は年々歳々ひどくなる洪水のせいで極度に疲弊し、糧を失った民が逃亡するのは日常の光景だった。
 魏の文侯《ぶんこう》は、鄴(ぎょう)県の治水問題を解決するため、周囲の反対を押し切って西門豹に白羽の矢を立てた。文侯は、西門豹の並外れた胆力と鋭利な知力に期待を寄せていた。
 出発前、西門豹は何度か文侯に呼び出され、文侯が孔子《こうし》の高弟の子夏《しか》から学んだという治世の要諦《ようてい》を伝授された。その鍵は、民を大切にして彼らの声に耳を傾けよ、というものだった。とりわけ、賢明な土地の古老と出会ったなら、辞を低くして教えを請うようにと繰り返し教えられた。西門豹は儒徒《じゅと》ではなかったが、あらためてその言説を聞いてみると頷ける点は多かった。枝葉末節にこだわるばかりの、葬儀屋のお説教にすぎないと思いこんでいた儒教《じゅきょう》もなかなかよいことを説くではないか、と見直した思いもした。
 ――なるほど。
 講義を聞きながら、西門豹は自分なりに儒学《じゅがく》の本質を掴んだ。
 ――これは偉大な常識だ。
 日常を生きる民の常識、価値観、ごく自然に湧きあがるありきたりな感情を肯定し、彼らの良識を信じろと諭された気がした。人々を統治する以上、そうしなければ民意を得られないのは、当然すぎるほど当然のことだと納得した。無論、常識を肯定するのは、国力を高めること、民の暮らしをよくすること、この二点のためだという根幹も忘れなかった。
 西門豹は、いよいよ熱を入れて講義に耳を傾けた。西門豹の熱意を感じ取った文侯は、ますます力をこめ、よどみなく語り続ける。文侯の口振りから、期待の高さがひしひしと伝わってきた。重責を感じずにはいられなかった。
「よくわかっている。お上の期待に背かないためにどうすればいいのか。ここの民を救うためにはどうすればいいのか。ずっと考えている」
 西門豹は、険しいまなざしのまま頷いた。
 治政の哲学は固まった。だが、もちろんそれだけでことが成就するほど、現実は単純ではない。目的を達成できなければ、高邁《こうまい》な理念も無用の長物にすぎない。
 郡県制を敷いた魏では、中央から派遣した官僚によって各地方を統治していた。しかし、必ずしも中央の統制が行き届いていたわけではない。むしろ、地方の自治勢力が強く、中央政府の意向に反発しがちだった。中央の命令というだけで嫌うのだ。西門豹が本腰を入れて問題を解決しようとすれば、相当な抵抗に遭うのは必至だった。
「豹、気持ちはわかるけどさ、深刻になってもしょうがないよ」
「それはそうだがな」
「いい方向へ考えろよ」
 李駿は傍らの石を拾い、力一杯投げた。これが俺たちの未来だとうそぶくように、あざやかな放物線を描く。
「豹はここで大儲けできるんだぜ。お前の前任者はすげえ羽振りだ。ここでかなりの財産を蓄えたようだな。家柄だけが取り柄のぼんくらがよくやったもんだよ。今じゃ、その金を使って夜毎高官たちを集めては宴会騒ぎ、お偉いさんがたのご機嫌取りに余念がないときている。出世街道まっしぐらさ。あやかりたいね」
 李駿は、いいよなと羨望まじりの溜息をついた。
 国への上納分さえ納めれば、県令は余った税を自分の懐へ入れてもよかった。もっとも、中央政府から県令へは十分な給料が支払われず、県令はこの「役得」が主な収入だった。言い換えれば、県の運営は任せるので後は自由にせよ、ということだ。近代国家の仕組みとは異なる。もちろん、民からいくら税を徴収するかは県令の裁量範囲だった。
「くだらない」
 西門豹は、興味なさそうに李駿の言葉を打ち消した。俗っぽい下卑た話はごめんだった。目指すものがある。理想へ向かって走れるか、それしか興味がなかった。
「どこがいけないんだよ」
「金のことは言うな」
「おいおい、金持ちになれない県令なんて、ただのまぬけじゃないか」
「それなら、まぬけでいい」
「ばかにされるぜ」
「人にどう思われようと関係ない」
「大人になれよ」
「大人はもっと立派なものだ。貴様の言う大人は、ただの俗物だ。俗物は自分だけの幸せを考える。他人の幸せを考えるのが大人というものだろう」
「豹は子供の頃から変わらないよな。お前の言い方を借りれば、お前は子供の頃から大人だったわけだ。でもさ、金が入れば家族の暮らしがよくなるし、自分だってでかい顔ができるし、いいことじゃないか」
 李駿は、ほおずきのような赤い唇を尖らせる。西門豹は答える気にもなれず、肩をそびやかせただけで背後を振り返った。枯草と岩ばかりの荒地が続く。
「前任者はよほど民から搾り上げたのだな。こんな貧しいところで。――妙な噂を聞いた」
 西門豹は言った。
「どんな」
「この城市《まち》を取り仕切る地元の有力者たちが、河伯祭を盛大に催して龍神を鎮めさえすれば洪水は治まると言い、前任者にろくな治水工事をさせなかったそうだ」
「それで豹は河伯にこだわってたのか」
「この堤は杜撰だ。前任者は、決壊した箇所を完璧に造り直したと言っていたがな」
 西門豹は、いきり立った闘牛のように足元の土を勢いよく後ろへ跳ね上げた。着物の裾がめくれ、鍛え上げた筋肉で硬く盛り上がったふくらはぎがあらわになる。砂が飛び散り、土煙が低く舞う。西門豹は、責任感のかけらもない子供騙しの欺瞞《ぎまん》が腹立たしかった。
「そんなすぐばれる嘘をよくつけるもんだな。壊れてるじゃないか」
 李駿は西を指差す。ざっと見渡しただけでも、三箇所で土が崩れ始めている。詳しく点検すれば、もっと見つかるだろう。
「しっかり固めずに、ただ土を盛ってうわべだけを整えたのだろ。このぶんでは堤自体の水はけも考えていないな。暴風雨になれば、堤は雨水を含んで緩んでしまう。水を吸った綿と同じだ。そこへ激流がぶつかったら、ひとたまりもない。簡単に決潰する」
「豹の前任者は、工事なんかうっちゃって龍神の儀式にかまけてたわけか」
「なにかからくりがありそうだ。河伯祭が前任者の資金源だったのかもしれない」
 西門豹は、疑わしそうに両目を細める。そのまなざしは、密林の中で獲物の気配を嗅いだ獣のようだった。
「そうだとすると、迂闊《うかつ》に手を出そうもんならえらい目に遭うぜ。用心しろよ」
「わかっている。だが、時間があまりない。祭りは五月五日、端午《たんご》の節句だ」
「後ふた月ちょっとか」
 ほっそりした女の声が、風に乗って流れてきた。李駿を呼んでいる。貴族の身なりをした若い女が、両手で裳裾《もすそ》を吊り上げながら土手の傾斜をのぼってくる。
「父君とは、話をしたのか」
 西門豹は訊いた。李駿には親の決めた許嫁《いいなずけ》がいるのだが、彼女に惚《ほ》れていた。女のほうにも親の決めた婚約者がいるが、李駿を好いている。二人は、付き合い始めてもう四年になる。西門豹は前回の任地でも二人を呼び、こっそり逢引させていた。
「まだだよ。親父はえらくご機嫌斜めだ。切り出そうにも、切り出せない」
 李駿は、冴えない顔で首を振る。
 西門豹は李駿を見守り、ふっと頬を緩めた。拳骨みたいにごつごつとした剽悍《ひょうかん》な顔に、なんともいえない優しさが立ち現れる。それは、幾度も死線を乗り越えた戦士が見せるような、心の強さに裏打ちされた微笑みだった。
「うまくいくさ」
 西門豹は、気遣いながら李駿の肩を握った。


(続く)

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