心臓外科手術の中でも大動脈剥離、破裂の手術は難易度を極め、胸部外科手術の中でも大変な高いレベルのものであり、救命率もかなり厳しいデータしかない、と言うものだそうです。
ここ最近、時々この話を書いてきましたが、実は父がこの病気に倒れ、緊急手術を受けたのです。
その経験、感動させられたことを書いていたのです。
8月の27日、父は自分の病院の研究室で胸が苦しい、心筋梗塞なのではないか、と言うことで職員に連れられて緊急で川崎の宮川病院へ急行したそうです。
宮川病院は、父の長い友人の先生がやられている、個人開業医とは言えない大きな病院で、父自身もアルバイトさせていただいていた所縁のある病院です。
因みに、私がB型の劇症肝炎で緊急入院して、命を取り留めていただいたのもこの病院です。
この病院には、チャンとCTとかMRIも設置しており、それで父の検査をしたところ、心筋梗塞ではなく大動脈の膨張による剥離、破裂寸前と言う症状であることが判明したのです。
それで、父は母校である順天堂に入院することを希望したのですが、宮川先生の見立てで、そんな悠長なことを言っている場合ではない、そこまで搬送しているうちに破裂して落命してしまいますよ、と言うことで、直ぐ近くにとても良い先生がいる、山本晋先生と言う方で若いが凄く優秀なので、と言う説得で緊急に川崎幸病院で手術となったのです。
私の所にも、当然緊急でと言うことで連絡が来ていましたが、何しろ私は毎日の手術で明け暮れている歯科専門医です。
心配をしながらも、目の前の患者さんの手術を雑念を振り払って、一生懸命に終わらせました。
実はこの日も、とても難しい抜歯即時植立即時荷重、同時GBR骨造成、歯茎再生術でした。
左下顎の臼歯部です。
心配がないように自分のしなければならない手術を終わらせた後、私は申し訳ないのですが、と訳を話して、スタッフに後を任せて川崎幸病院へ駆け付けました。
母が、診察室の廊下の長椅子で腰掛けていました。
いつもは大物然としている母ですが、さすがにこの時は白い顔をしていました。
父の手術はまだ始まっていなくて、準備をしている状態でした。
母の聞いた説明では、大変に危ない状態である、術中に落命する危険性もある、手術は10時間以上掛かるであろう、と言うことでした。
そうして待っていると、山本先生が現れてご挨拶をして下さいました。
私は山本先生を見た瞬間に、この先生は違う、凄く優秀な先生に違いない、この先生に全て任せて駄目ならそれが父の運命、定めなんだ、と確信しました。
恥ずかしい話、私は不勉強ながら山本先生のことを存じ上げていませんでした。
後から、色々勉強して若手の凄い先生なんだ、と知った次第です。
準備室にいる意識のある父にその後面会しました。
頑張ってね、と声を掛け、先生に頭を下げて待合室に移動しました。
最初の2時間位は、母と二人きりでしたが、暫くして次女とご主人、姪っ子が駆け付けて来ました。
それから、三女のご主人、三女、姪っ子が来て、待合室が賑やかになり、母も少し気を取り直せたようでした。
こう言う時に息子は余りや役に立ちませんね、残念ながら・・・
そうして、時間が経過して行き、長丁場なので、お弁当とかを買いに行って食べたり、話したりしながら待っていました。
手術は2時に始まりましたので、終了予定は12時頃です。
途中経過で緊急で連絡が来ないかどうか、気が気でなかったです。
それでも、9時を回る頃になると、私はもう終了の方へ手術の段階は進んでいるだろう、ここまでで何も連絡がなかったのだから、まず安心していて間違いない、と考えました。
そして、そのことを母に伝えて、安心して良いと思うよ、と話しました。
12時近くに成って、漸く手術が無事終わった、と言う連絡が来ました。
直ぐに山本先生が来て下さって、説明をして下さいました。
CTで見たら、父の大動脈は何倍にも膨れ上がっていて、直径5㎝以上には腫れ上がっている、と言う状態でした。
先生のお話では、胸を開けたら、既に破裂し始めていて、血が出て来ていたそうです。
正しく、父は九死に一生を得て助けていただけたのです。
病気の部分は切り取り、人工血管に置き換えたそうで、何と驚いたことに2週間程度で退院出来るでしょう、と聞かされました。
私はビックリしました。
あれだけの大きな手術をして救命をしただけでなく、家に2週間で戻れる、と言う凄腕ぶり、自信の有る姿に、やはりこの先生は凄い方だった、と感銘を受けたのです。
そして、父の治り方を見たら、3日後にはベットに起き上がっていて、喋ったり書いたり出来ていたのです。
更に1週間もしないうちに歩き出せるところまで回復したのです。
何より驚いたのは、治り方の良さです。
浮腫とか血腫とか見られないし、何より父が苦しそうな素振りを見せないのですから。
凄い低侵襲外科手術だ、と心の底から感銘を受けました。
胸を大きく開く、と言う侵襲が物凄く大きそうに思える、胸の骨を断ち切るし広げ、その中で心臓とか大動脈とかとても難しい部位の手術を成し遂げて、これだけの早さで綺麗に楽になるように治せているんですから。
胸部外科と言う、最も侵襲が大きな手術でこれなのだから、歯科の分野、自分が関わっている手術では、もっともっと凄い成果を挙げなければ、と強く思いました。
インプラント手術にしろ、歯周再生手術にしろ、下顎の水平骨内埋伏智歯抜歯術にしろ、患者さんが日常に1週間もしないで戻れる、そう言う治療をしなければならない、と思ったのです。
私自身は2003年にサンフランスコのDR.ラムに出会い、衝撃的な低侵襲インプラント手術、歯周外科手術に出会いました。
正に、歯科の世界での低侵襲の黎明期だった、と後で知りました。
当時は、大きな外科手術、侵襲の大きな治し方が当たり前、と言う時代だったからです。
忘れもしません。
2003年AAPサンフランシスコ。
そこで繰り広げられている内容は、大きな見栄えのする手術のオンパレードでした。
直前に薫陶を受けた内容と余りにも違うので、私は不安になってラム先生に質問したのです。
こう言う手術ばかりなのだけど(貴方の教えは本当?)?と言う気持ちでです。
その時にラム先生は、ニッコリと笑ってノリお前は真実を知っている、私を信じるかい?と。
それを聞いて、私は迷いが消えました。
それから、私は低侵襲外科手術一辺倒に邁進して来ました。
正直に書けば、ラム先生直伝が日本人にはそのまま使えない、日本人では歯茎は薄いし、骨も薄い、と言う大問題にぶち当たり続けました。
そう言う時は、もう少し足りないかなと言う頭をフル回転させて解決策を編み出して来ました。
幸運なことに、その当時私の元には凄腕の元勤務医とチーフDH、副チーフDHと助けてくれる、知恵を貸してくれるメンバーが揃っていました。
三人寄れば文殊の知恵、と言うのは本当です。
こうして私は、何処にもない手術方法を苦心惨憺の末創り出したのです。
山本先生に比するほどのレベルではないかと思いますが、低侵襲外科は私の目指す究極の境地です。
その最高の到達点を、私は今回の父の件で山本先生を知るに到り、心新たに更なる向上を、と決意出来るようになったのです。
これも何かのご縁、えにしだと思います。
他と比較するのではなく、自分が何処まで行けるのか、どれだけの高みに到れるのか、そしてそれを後世に残せるのか、と誓い直して、再出発、リスタートです。
偶然にも山本先生は同世代でした。
この業界で、山本晋先生に匹敵出来る凄腕DRとなるよう頑張ります!
PS:父が無事回復し、退院する日も決まって、安心できる状態になったので、全てを明かして書きました。