三笠山からおりてきて碇ケ関の私が産まれた自炊旅館の跡地に向かいました。
白沢の水場です。江戸時代からそのままあるそうです。母がここでこの水を使って自炊し洗濯もし、私をお湯に浸からせてくれたところです。
前は夏だったけど今は冬に近い秋です。それでも恋しくて又口に含んでみました。
恩人の花岡チエさんが部屋から出てきてくださいました。チエさんが本当の姉のように思えました。
ここが自炊旅館の跡地です。4年前に来たときも売りに出されていたけど今も売地と書かれていました。なんか切ない。
今は側に他の家が建っています。側は小高い山です。
白沢の水場だけは100年変わらず流れているそうです。いつまでも残って欲しいとおもいました。
名残り惜しいけど次の予定があるのでお別れし、車で移動しました。
車の中からものすごい物を観ました。この光を「薄明光線」と呼び「天使のはしご」とも言うそうです動いている車の中から撮ったので鮮明ではありませんがもうびっくりするほど華麗でした。
驚きました。何か良いことが起こりそうなか予感がしました。
青森港に到着しました。ここで青森県女性同盟の林委員長に会うことになっていたのです。
「60万回のトライ」の青森上映会で朴さゆ監督と黒滝さんらと一緒に撮った写真は見ていたし、何回かお電話で会話はしましたが直に会うのは初めてです。
美味しそうな青森のリンゴクッキーのようなお土産までいただきました。
私はりんご園でもいだばかりのりんごをさしあげました。「寿」と記されたリンゴも二つ頂いたので一つは委員長に記念にと差し上げました。
私がもいだのをお土産に渡して夫がもいだのは家に持って帰りました。
一時間以上もいろんなお話をいたしました。前もって黒滝さんがわたしの前回の碇ケ関訪問詩などを渡してくださっていたので、わたしのことは全てご存知でした。青森の同胞たちの事や学校の事、娘さんのお話を聴いてびっくりしました。東北の学校を訪問したときお会いした先生だったのです。新報にエッセーも時々出されている権先生でした。来年の春にはお嫁に行かれるそうです。おめでとうございます。
「火曜行動」の日、朴サユさんに伝えてあげたら、11月14日の東北のウリハッキョの大きな行事に参加するので、その時に逢うと嬉しそうに仰っていました。
委員長を青森駅までお送りして、つぎにむかったのは八甲田丸の見学でした。
八甲田丸です。
中に入りました。
昭和20年代の連絡船です。どの船かは知らないけどこの港で母は生後6ヶ月の私をおぶって兄、姉の手を繋ぎ連絡船に乗って北海道に渡ったのです。
船内見学を企画してくださつた黒滝さんたちの思いやりがあまりにも細やかすぎて、あたたかすぎてウルっときてしまいました。
名残惜しけど下船しました。
青森空港まで花岡さんご夫婦と黒滝さんが送ってくださいました。
最後の写真を撮らせていただきました。
いつまでも手を振り続けてくださいました。
遂に離陸しました。飛行機の窓からいつまでも生まれ故郷をみていました。
飛行機の中でずっと考えていました。花岡さん、黒滝さんはじめ碇ヶ関の方々はなぜこんなに良くしてくださるのだろうかと…
ふるさとっていったいなんだろうかと…
今言えることはただ一つ、故郷は会いたい人、恋しい人のいるところ、待っていてくれる人がいるところ・・・
眼をつぶれば思い浮かぶ山であり谷であり、花であり木であり、水沢でありリンゴなのです。
バタバタしていてまだ記念詩もかけていません。ごめんなさい。必ず書いて送りますからね。故郷のみなさん!
東北は青森は碇ヶ関は人情溢れる素晴らしい我が故郷です。碇ヶ関に生まれて幸せでした…
白沢の水場です。江戸時代からそのままあるそうです。母がここでこの水を使って自炊し洗濯もし、私をお湯に浸からせてくれたところです。
前は夏だったけど今は冬に近い秋です。それでも恋しくて又口に含んでみました。
恩人の花岡チエさんが部屋から出てきてくださいました。チエさんが本当の姉のように思えました。
ここが自炊旅館の跡地です。4年前に来たときも売りに出されていたけど今も売地と書かれていました。なんか切ない。
今は側に他の家が建っています。側は小高い山です。
白沢の水場だけは100年変わらず流れているそうです。いつまでも残って欲しいとおもいました。
名残り惜しいけど次の予定があるのでお別れし、車で移動しました。
車の中からものすごい物を観ました。この光を「薄明光線」と呼び「天使のはしご」とも言うそうです動いている車の中から撮ったので鮮明ではありませんがもうびっくりするほど華麗でした。
驚きました。何か良いことが起こりそうなか予感がしました。
青森港に到着しました。ここで青森県女性同盟の林委員長に会うことになっていたのです。
「60万回のトライ」の青森上映会で朴さゆ監督と黒滝さんらと一緒に撮った写真は見ていたし、何回かお電話で会話はしましたが直に会うのは初めてです。
美味しそうな青森のリンゴクッキーのようなお土産までいただきました。
私はりんご園でもいだばかりのりんごをさしあげました。「寿」と記されたリンゴも二つ頂いたので一つは委員長に記念にと差し上げました。
私がもいだのをお土産に渡して夫がもいだのは家に持って帰りました。
一時間以上もいろんなお話をいたしました。前もって黒滝さんがわたしの前回の碇ケ関訪問詩などを渡してくださっていたので、わたしのことは全てご存知でした。青森の同胞たちの事や学校の事、娘さんのお話を聴いてびっくりしました。東北の学校を訪問したときお会いした先生だったのです。新報にエッセーも時々出されている権先生でした。来年の春にはお嫁に行かれるそうです。おめでとうございます。
「火曜行動」の日、朴サユさんに伝えてあげたら、11月14日の東北のウリハッキョの大きな行事に参加するので、その時に逢うと嬉しそうに仰っていました。
委員長を青森駅までお送りして、つぎにむかったのは八甲田丸の見学でした。
八甲田丸です。
中に入りました。
昭和20年代の連絡船です。どの船かは知らないけどこの港で母は生後6ヶ月の私をおぶって兄、姉の手を繋ぎ連絡船に乗って北海道に渡ったのです。
船内見学を企画してくださつた黒滝さんたちの思いやりがあまりにも細やかすぎて、あたたかすぎてウルっときてしまいました。
名残惜しけど下船しました。
青森空港まで花岡さんご夫婦と黒滝さんが送ってくださいました。
最後の写真を撮らせていただきました。
いつまでも手を振り続けてくださいました。
遂に離陸しました。飛行機の窓からいつまでも生まれ故郷をみていました。
飛行機の中でずっと考えていました。花岡さん、黒滝さんはじめ碇ヶ関の方々はなぜこんなに良くしてくださるのだろうかと…
ふるさとっていったいなんだろうかと…
今言えることはただ一つ、故郷は会いたい人、恋しい人のいるところ、待っていてくれる人がいるところ・・・
眼をつぶれば思い浮かぶ山であり谷であり、花であり木であり、水沢でありリンゴなのです。
バタバタしていてまだ記念詩もかけていません。ごめんなさい。必ず書いて送りますからね。故郷のみなさん!
東北は青森は碇ヶ関は人情溢れる素晴らしい我が故郷です。碇ヶ関に生まれて幸せでした…