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ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

追憶2015⑱ 5月24日、総連結成60周年祝賀公演に出演いたしました。

2015-12-23 22:25:31 | イベント
  2015年5月24日、心配していた雨は一滴も降らず、まるで大阪の同胞たちを祝賀するように、お日さまがニコニコ笑ってくれました。


  大阪在住の1世から5世までが出演する総合芸術公演が無事終了しました。


  私も4番目の映像と説話の場面に出演しましたので写真は撮れず、家族が撮ってくれたものをアップいたしますね、記念になるように・・・

  





(この写真はキム・チャンミョン先生のFbから転載させていただきました。)






















(この写真は、教え子の呉正恵さんが送ってくれました。)




















   (この若者たちの写真はキム・ヨンファさんのFbから転載させていただきました。)
















  

 
  公演終了後会場を運動場に移しのど自慢大会を始めいろんなイベントが行われました。


  公演を通じて60年の在日同胞が歩んだ道を色々思い出しながら感慨にふけられた方が大勢いらしたと思います。

  私もその一人です。

  
  50周年記念祝賀公演でも説話をさせていただきました。10年ぶりの舞台でした。10年後は客席で観覧していると思います。

  いえいえ、きっと顧問たちと一緒に合唱に出演していると思います。杖に支えられながらも(笑)


  孫5人と共演した生涯忘れられない舞台になりました。(78歳のクンハンメを筆頭に一家総動員の1日でした。)


  異国に住んでも民族愛、祖国愛を失わず、代代孫孫楽しく暮らして行きたいですね。


  「明日へつなごう、ありがとうの心」

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追憶2015⑰ 5月10日、東日本大震災復興支援 チャリティ―演奏会に行って参りました。

2015-12-23 22:16:41 | イベント



  5月10日、待ちに待ったチャリティコンサートの日が来ました。午前中、孫たちの学校の授業を参観したあと、京都に向かいました。

  同志社大学 寒梅館 ハーディホールに於いて 東日本大震災復興支援 チャリティ―演奏会が超満員の観客を迎え行われました。


  演奏会の写真撮影は禁止されていたので演奏中は写真を撮りませんでした。


  演奏会の写真4枚はFbの福山さんの投稿から頂きました。













  素晴しいコンサート!趣旨が素晴らしいだけではありません。演奏自体がとても素晴らしく「祖国のつつじ」や交響曲「アリラン」では知らぬ間に涙がこぼれました。自分の人生を思い起こしていました。





  又コマプレスさん達が撮ってくれた映像に徐香淑さん作の「夢」のBGMが民族楽器で奏でられ、これまた胸を熱くさせてくれました。


  又東北のウリハッキョが送ってくれたビデオレターは懐かしい子供たちの成長ぶりをしっかり見せてくれ大きな元気をくれました。


  震災から4年がたっても変わりなく4回目の復興支援コンサートを企画され実践された皆様に心から感謝いたします。





  司会をされたヒャンギの趙さん、ご苦労様でした。





  4回もの復興支援コンサートを企画し実現されるため頑張って下さった「民楽」代表の康さん、本当にご苦労様でした。






  「民楽」代表の康さんと、今回指揮を担当して下さった京都中高の李先生に花束の贈呈です。

   何事も継続することの大切さ、すばらしさを実感し改めて学んだ日でした。





  民俗器楽重奏団 「ヒャンギ」 、 民族楽器重奏団 「ミナク」 、ゲストとして京都朝鮮吹奏楽団、ソヘグム アンサンブル  「ケナリ」の呉さんに朴さん。

  友情出演のメンバーの中に教え子の康梨砂さんの名前を見たときはびっくりしました。だって1週間前の5月3日に結婚式を挙げたばかりでしたから、本当にご苦労様でした。


  コンサート終了後、朋友の河津さんに素敵な喫茶店に案内していただきました。












  そのあと、まるで森のような京都御所内の散歩道を歩き続けました。


  外から見ても森林の様ですが、中に入ってびっくり!


  今まで見たことも無いぐらい背が高く大きな松や紅葉や楠などが所狭しと植えられていました。


  時間のある方は写真を全部見て下さいね。凄い木!木!


  久しぶりの森林浴に身も心もスッキリです。

























































 名残惜しいけど河津さんと又会う約束をして京都を後にしました。





  大阪到着です。

  梅田駅近くで食事して家に帰りました。今日はとても素敵な日でした。





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追憶2015⑯ ゴールデンウイーク最後の日「女性グループ展」鑑賞

2015-12-23 11:57:36 | イベント
連休最終日、画廊「渡来」にて女性グループ展を見てきました。



 お昼頃、お出かけ日記をブログにアップした後、洗濯しながらのんきにFbを見ていたら、知り合いの方々のグループ展がコリアタウンの画廊「渡来」で開催されていることを知り、娘たちを誘って走って行ってきました。だって午後3時に終了と書いてあったのに知ったのは午後1時半頃でしたから、1時50分に今里ロータリーで待ち合わせをして自転車ではしったのです。








  この作品は金明和さんの作品です。土偶です。なぜ作り始めたのかを聴きましたが、プライベートな部分もあるので控えますね。作品を見て下さいね。何に見えますか?


  金さんはうちの長女が親しくさせていただいています。それに孫のユニは美術関係が好きだからきっと興味を持ってくれると思い一緒に行きました。


  行って本当に良かったです。グループ展に出品されている方々,皆さん存じている方ばかりでしたから…


  入り口から見た順番に掲載していきますね。解説はいたしません。張グァンスンさん、康明善さん、金明淑さん、玄明淑さん、それから金さんの作品でグループ展です。民族色豊かな素敵な作品ばかりでした。親しみやすく、暖かで、女性グループならでわの作品群です。

































































  さぁ、皆さんも行かれてください、と、言いたいところですが、午後3時に終了いたしました。

  もっとじっくり見たかったなぁ、惜しいことをしてしまいました。





  
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追憶2015⑮ コラム 「4・24の歌」を聴くたびにが掲載されました。

2015-12-23 11:49:34 | 詩・コラム


「4・24の歌」を聴くたびに


 明日は「4・24」の日から67年目の日です。
 「4・24の歌」を聴くたび思い出すのは初級部時代です。初級部時代にこの歌を初めて習いました。

 「4・24」教育闘争が行われたその年に、青森の片田舎で生まれた私は、北海道、東京、京都、大阪と転々と引っ越しを繰り返したため、幼いころの楽しかった思い出がほとんどありません。

 大阪に引っ越した年に学齢期に達した私は、兄や姉と一緒に家から一番近かった尼崎市立園田小学校分校(のちの園田朝鮮初級学校)に1955年4月に入学いたしました。

 園田朝鮮初級学校は1945年9月小中島国語講習所から出発し、その翌年の2月8日に園田初等学院に改名、阪神教育闘争が行われた翌年の1949年10月には強制的に閉鎖させられましたが、1953年に復校いたしました。

 その2年後に私は園田のウリハッキョに足を踏み入れたのですが、名の通り日本の小学校の分校だったので、先生も日本の先生と朝鮮の先生が半々で、担任の先生もお二人でしたが、ウリハッキョでの思い出は楽しいものばかりです。

 園田のウリハッキョはとても穏やかな場所にありました。阪急園田の駅から15分ほど歩いて行くのですが、住宅の立ち並ぶ道を通り過ぎると土手が現れます。遠くには六甲山が見え、藻川が悠々と流れています。

鉄橋を渡り左に曲がると神崎川に向かう土手道に繋がりますが、私の学校は土手の下にありました。土手で寝転んだり、スイスイという雑草を口にしたり、ヨモギを採って家に持ち帰ったりもしました。学校の周りには朝鮮があり、いつもキムチの匂いが漂い、同胞たちの笑い声や喧嘩している声などが聞こえていました。

 運動場が狭くて、運動会は近くのお寺の大きなグランドをお借りして行っていました。学芸会は本校の講堂を借りて行っていました。
 雨が降れば教室のあちこちにバケツを置きます。でも学校が楽しくて楽しくて、嫌な思い出なんて一つもありません。先生方も優しくてウリマルがとても上手で、野生の猿のように天真爛漫な初級時代をこの地で過ごしました。

 3年生の時に祖国から初めて教育援助費が送られてきました。5年生の夏、キャンプが行われた阪神初級近くの香枦園の海で泳いでいるとき、祖国への帰国のための調印がジャカルタで行われたというニュースが入り、浜に上がって一晩中キャンプファイヤーを灯し歌い踊り明かしたことなど、感動したお話は数えきれません。

いつだったかは覚えていませんが「4・24」のお話を初めて聞いたのも「4・24の歌」を習ったのも園田でした。その日の衝撃はこの歳になってもしっかりと胸に刻まれています。金太一という少年の名と共に!

 私の母校―園田は、1966年、私が高級部2年生になった年に自主学校にやっとなりましたが、それから20年後、立花初級と統合され尼崎東初級になり、2008年にはその学校も尼崎朝鮮初中級学校に統合され園田という名前は消えてしまいましたが、園田のウリハッキョで培った民族愛は心の柱となり今日まで私を支えてくれました。ウリハッキョはまさに心のふるさとになりました。

 「4・24」を迎えながらいろんなことを考えています。今の時代がなんと67年前のあの頃と似ているだろうかと。

 毎週,大阪府庁前で「民族教育の権利」を守り、無償化実現のため、助成金の交付再開のため要請行動を行っていますが、なんら進展されたものはありません、

しかしこの運動の中で日朝の連帯は深まり、ウリハッキョを守るため命を懸けた先達たちの魂が自分の心にも乗り移っていることをひしひしと感じています。諦めは敗北です。民族教育は生命のように大事な宝物です。



 
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