ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

連載 君たちへのラブレター6 (教員時代③)

2020-05-08 15:09:48 | 詩・コラム
連載 君たちへのラブレター6 (教員時代③)



(学生たちの前で弁論大会の講評をする私)



(学生たちの発表会)



(生まれて初めて演劇の舞台に立った私ー꿈판을 여는 사람들(2000年文芸同演劇公演)



(教え子の韓先生と才談をしたのも今は楽しかった思い出)



(教員をしながら、1985年から1994年まで10年間続けた文芸同大阪文学部と音楽部の「歌と詩朗読の夕べ」

 ユニ、ユナ、リファ、ユファ、ヒジョン、スファ 私の大切な孫たち…
今日はいよいよ教員時代の最後のおはなしだよ。

 1998年9月12日から教員と文芸同委員長の二足の草鞋を履くことになったけど、担任生活最後の2学期間、私も肩の力を抜いて学生たちに接し、あまり細かく干渉しないようにしたの。

1年生と2年生とでは学生たちの感性がまったく違うことを私なりに理解できるようになっていた。私の接し方が変わったせいか学生たちも少しずつ心を開き、運動会や遠足なども共に楽しく過ごすことができたわ。

 3学期に入った1999年1月23日、またまた新しい課題が提起された。東京中高において行われる中央教研大会の中高国語分科共同の研究会で「행랑자식(行廊子息)」という教材で研究授業をすることになったの。祖国での国語講習会で学んだことを一般化する為だった。凄いプレッシャーだったわ。

 自分の学校の生徒ならともかく,まったく顔も知らず話したこともない関東地方の生徒の前で授業をするなんてできるだろうかと不安もあったけど、祖国での講習会の生活力を実証せねばならなかったの。45分授業の中で内容を正確に把握し、話し方、読み方までも向上させるというのが課題だった。



 幸い東京中高には初級部5年生の時から妹のようにかわいがってくれた呉順姫先生がおられたし、千葉の鄭桂順先生、学友書房の柳秀玉先生も色々アドバイスをしてくださった。



(いつも暖かく見守ってくださった千葉のチョンゲスン先生 左側)

 私は呉順姫先生を通じて、2年1組の学生たちの写真に各々の名前、クラスでの役割、特技、所属するクラブ名などを明記し送っていただいた。



(東京中高2年1組の皆さん)

 授業準備の傍ら学生たちの名前などを必死に覚えたわ。ところが教研の10日ほど前に人生初のインフルエンザにかかり生まれて初めて学校を休まなければならなくなったのよ。どうしょうどうしょう。

 悩む暇はなかった。生まれて初めてめまいという物を体験した。39度3分も熱が出ると元々低温な私は目が回りトイレに行くのもおぼつかなかったわ。

 やっと熱が下がり病院の許可を得て登校するも、すぐに教研の日がやってきた。金栄玉先生始め国語分科の先生方が掲示物などを一緒に作って下さり気持ちよく私を送り出して下さったの。私は自分のクラスのことを他の先生方にお願いして東京に出発したわ。

 教研の前日に東京に行き、その足で東京中高の中級部2年1組を訪ね、写真だけで会っていた学生たちと対面したの。何か月も前から毎日写真を見ていたから生徒たちの名前がすっすと出てきたおかげで生徒たちとすぐに仲良くなれたわ。おとなしい感じのクラスだったけど、私が生徒たちの名前や所属クラブ名、クラスの役割などを知っていたものだからとても驚いていた。

 その日の夜は呉順姫先生のお宅で宿泊させていただいたの。呉順姫先生から至り尽くせりのもてなしを受け、まだ咳が完全に止まらない私のために呉順姫先生は煎じ薬を焚いてくれ、9時には布団の中に入れるようにしてくださった。

こんな歓待を受けて明日失敗したらどうしょうと少し心配だったけど、お言葉に甘えてゆっくり寝かせていただいたわ。

 次の日、東京朝鮮文化会館では教研の全体会議が開かれ、どの教室だったかは忘れたけど、二つの教室をぶち抜いて臨時に作った教室で全国から集まってきた国語担当先生方の前で研究授業をすることになった。

 みんなが全体会議に参加している間、一人で模擬授業をしようとしたのだけど、緊張のためか教壇に立った途端、急に頭の中が真っ白になり言葉が出なくなってしまったの。おまけに焦れば焦るほど、咳まで止まらなくなり最悪の状態で授業時間を迎えることになった。

 ついに授業が始まった。胸はドキドキ、周りが全く見えない。なのに昨日初めて会った2年1組の生徒たちがまるで私のクラスの生徒のように一斉に温かい目で私を見てくれた瞬間、肩の荷がすっかり下りた私は、しょっぱなからおやじ(おばさん?)ギャグをぶっ放した。それが良かったのかどうかは知らないけれど笑いが溢れ、とても和やかな雰囲気のなかで授業を始めることができたの。笑えるだろう?

 私はいつものペースでどんどん生徒たちと掛け合いながら授業を進めていった。はじめは声が小さくおとなしかった生徒たちが授業が進むにつれどんどん声が大きくなり、授業締めくくりの段階ではびっくりするほどのスピードで素晴らしい表現読までできるようになったの。本当にありがたい生徒たちだった。

 私はその日、いろんな方々への感謝の気持ちで一杯になった。そっと後ろで学生たちに頑張れと諭して下さった東京中高の先生方、中央教研委員の先生方、教授指導と相談役の朝鮮大学の朴宰秀先生の配慮がありがたくてどれほど胸が熱くなったか知れない。



(教職同大阪の口演講習会)



(話術講習会に集まった全国の先生方。1段目真ん中が朴宰秀先生)

 特に朴宰秀先生は、大学に行けないまま教壇に立った私を気遣ってくださり、ことあるごとに「独学でも一生懸命勉強して頑張っている先生方を見習わねばならない」と励まし続けてくださった。特に放送口演部を作り日常的に口演や話術の指導をしていることを高く評価してくださり、論文賞へと導いて下さったの。

そればかりか2000年からは教科書編纂委員にも推薦して下さり、退職の日まで活動できる場を設けて下さったの。





 (祖国のピョンヤンにて)

 先生は今でも,近畿地方に出張に来るたびに、大阪在住の文学部卒業生の皆さんと共に私も呼んで下さり、楽しい再会の場をつくってくださっているの。



(志望会ーチマンヒェと名付けた5人会―いつも元気を頂ける)

 東京での研究授業が終わった後、3学期もあっという間に過ぎ去り、私は予想通り担任からは外されたけど、3年生の国語科目だけは担当させていただけるようになった。

3年生を担任し、卒業させるという私のささやかな夢は、はかなく消えたけど、私は生徒たちの成長をそおっと見守り続けたわ。

 ついに訪れた卒業式の日、担任の先生方と仲良く写真を撮る学生たちの姿を遠巻きに羨ましそうに見ていたら、突然30人近い生徒たちがやってきて私を取り囲んだの。なんとなんと1年2組の時、担任した生徒たちだった。

 円陣を組み生徒たちは声を合わせた。「ソンセンニム コマッスムニダ!」

 しばらくすると今度はあんなに自分の手で卒業させたかった2年4組の生徒たちが、また私を囲んでお礼の言葉を言ってくれた。決して泣くまいと思っていたのに胸が熱くなり涙が溢れ出てきた。孫大元先生始め3年担当の先生方の気遣いだったとは思うけど、おかげさまで卒業式は人生最良の日となったの。





 感動の卒業式の日から11年間、私は東大阪朝鮮中級学校に留まり、国語教員、放送口演部顧問として最後の日まで自分なりに頑張ったつもりだ。その時期の思い出を三つだけ話させてね。


 2000年6月15日、南北の首脳が手と手を携え発表した歴史的な「南北共同宣言」!そのおかげで南北の交流が始まり、在日同胞たちも堂々と故郷を訪ねることができた2003年6月、韓国の第21回全国演劇祭に東京の劇団「アランサムセ」と共に文芸同大阪演劇口演部が正式招待され、韓国の公州での演劇祭に出演することになったの。

 夢にまで見た祖国₋南での舞台!幼いころからウリマルを愛し、教員をしながらも文芸同演劇口演部の活動を続けてきて本当に良かったと思った。

 「ハナアリラン」という台本を書き、演出をし、指導を続けてくれた金智石演劇部長に対する感謝の気持ちは生涯忘れることがないと思う。

 共に公州での舞台に立ったソチョルチンさん、今も劇団タルオルムで頑張っているピョンリョンナさん、今は5人のお子さんのオンマになった文春美さん、統国寺の若ポサルニムになった田琴実さん、旅行社で働き、第4初級の保護者にもなった韓正樹さん…今も繋がっているあの時の仲間たち…。

 2003年6月、55歳にして初めて祖国₋南の地を踏み、演劇祭が行われた公州での三日間、ソウルでの二日間を生涯忘れることはないと思う。



(公州で行われた第21回韓国演劇祭に出演した時の写真、今は奈良で活躍するソチョルチンさんと共に)





 ソウルで行われた歓迎晩餐会では、「朝鮮学校の教員をしながらウリマルを守り、自らも舞台に立った人がいる」と紹介され思いがけない大きな拍手を受けた。

第21回韓国演劇祭に参加すると決まってからの2か月間、仕事が終ってから城北ハッキョの講堂をお借りし、夜中の12時、13時になるまで練習した怒涛のような日々が今も脳裏に鮮明に残っている。

 幼い頃、朝鮮語の教科書を読むのが大好きで、洋傘加工で昼も夜もない生活を送っていた両親の前で毎日大きな声で教科書を読み続けた日々。そのたび「オンニョは大きくなったら済州島の西帰浦放送局のアナウンサーになれば良い」とニコニコ笑っていたオモニの言葉を真に受け、「祖国が統一したら必ず故郷に帰り西帰浦放送局のアナウンサーになるんだ」と決めていた私!

 もしも両親が私をウリハッキョに送ってくれなかったとしたら、ウリマルを知らなかったとしたら、今日のような日が来ることがあっただろうか。もしも私がどんなに苦しい時も教員生活と文芸同活動を、同時に続けなかったとしたら、今日のような感激を味わうことができただろうか?! 考えれば考えるほど、走り続けてきた20数年の日々が走馬灯のようによみがえり、胸は高鳴り続けた…



(2000・6・15共同宣言後、東中を訪ねてくださった文益換牧師のご婦人-パクヨンギル女史との感動の対面)

 もう一つの思い出話を少し聞いてね。2007年3月31日と 2008年11月、ハルベとハンメの還暦を迎えた日のことを…。

 君たちのハルベとハンメは1つ違いだったけどハルベが早行きだったから活動経歴がまったく一緒だったの。ハルベは朝大の音楽科を出てすぐに大阪朝高の音楽教師になったし、私は同じ年に大阪朝高を卒業して大阪朝鮮歌舞団に入団したからね。

 ハルベが還暦を迎えるにあたりいろんなことを考えた私は、長い交流のある朋友たち(李芳世、趙正心、梁普淑)に相談を持ち掛け、還暦祝いを唯の飲み会ではなく仲間と共に舞台の上で迎えたいとお願いしたの。

 彼らは律義にも協議を重ね、私が想像するよりもはるか盛大に準備をしてくれたわ。



 布施駅前のイオンの5階、「夢広場」を貸り切って、二人が所属する文芸同の仲間たち、音楽部の仲間たち,特にハルベが指揮を担当していた男声合唱団「サナイ」のメンバー、コールアリランの皆さん、私の所属していた演劇口演部の仲間が一緒に舞台を作ってくれたわ。

舞台監督は歌舞団の趙正心、司会は文学部の李芳世、構成は親友の梁普淑さんが中心になって頑張ってくれたの。





 
一番感動したのはいつの間に準備したのか、君たちのアッパ、オンマ、コモが、その時生まれていたユニ、ユナ、リファと一緒にチョゴリを着て舞台に駆け上り,合唱をしてくれたことだった。



 教え子の姜未衣さんは朝大生だったけど駈け付けてくれ、私の詩「山つつじ」を朗読してくれたし、長年の文学仲間の高賛侑さんは写真を担当してくれ、夫人の李明玉さんは私の詩に梁順雅さんが曲をつけてくれた「オモニの手」という歌を情感込めて歌ってくれたわ。

私はハルベのフルートの演奏に合わせ孫のことをうたった自作詩「こんな日が良いなぁ」を朗読させていただいたの。



 150人を超えるお客様は全て昔から私たちを見守って下さった方々、京都から駈け付けてきてくださった金里博さんは姫リンゴの木をわざわざ持ってきてくださったの。その姫リンゴの木は12年が過ぎ去った今日も自宅のベランダに咲き続け、今年は実が10個も生って秋を待ち続けているの。

 ハルベの還暦を感動の中で迎えた私は「自分の還暦の時には何もしないで」と家族にお願いしていたの。ハルベの還暦と私の還暦を同時に祝っていただいたと思っていたから。

 ところが翌年の11月、学校で思いがけないことが起こったのよ。仕掛け人は高暢佑教務主任先生だった。

ある日、学校の会議室で教職同の活動総括の集いがあって、終了後みんなで鍋を囲みワイワイ談笑していたの。たまたま学校指導に来ていた梁玉出中央教育局長も参列されていたのだけれど、食事会の途中で高暢佑先生が「只今よりホオンニョ先生の還暦祝いの集いを始めます」と言われるではないか。

 びっくりしてあっけにとられている私に誌友李芳世さんからのお祝いの詩と手紙、お腹をかかえて笑わずにはいられなかった教え子の趙正心、金民樹さんからのお祝いの手紙が代読されたばかりか、梁玉出局長のお祝いの言葉に続き、同級生でもあり国語分科の同僚でもある金成哲先生が自作の祝詩まで朗読するではないか!

照れ屋でいつも感情表現をしない金先生が自作詩を朗読された時はさすがにうるっときてしまった。あの時の手紙や祝電は10年が過ぎた今も私の机の傍に大切に置かれている。







娘たちから送られてきたメッセージ





(ウイーン留学中の次女から)



(長女から)

 最後のお話…。
 人生で初めて担任を受け持たせていただいた中1、中2の55名の学生(その中の8名は2年間持ち上がりだった)たちが20歳になるまで私は、毎年全員に年賀状を送り続けたの。返事が来ても来なくても…。



(初めて担任をさせていただいた1年2組の生徒たち)



(生涯忘れることのない2年4組の生徒たち)


 特に中2の担任をしていた時、別れるその日まで目を合わすことのなかった分団副委員長に対しては心から責任を感じ、彼女が高校生になった後も舞踊の発表会があるたびにそっと見に行った。

歌劇団の舞踊手になるのが夢だった彼女が一回目の試験に落ちても諦めきれず朝大の短期家庭科に進み、卒業前に再度入団試験を受けついに合格した時は、自分のことのように嬉しくて涙が出たわ。彼女が歌劇団に入団し舞台に立つたび必ず見に行ったわ。

 それから何年が過ぎただろうか、私が退職した次の年の2011年、ついに彼女から結婚式の招待状が届いたの、まるで夢のように…。この日の感動は涙になり詩になり、今も私の日記帳に収められている。

 「招待状」          
               
思いがけない招待状がきた
結婚するという

15年前 中級学校で
まだ担任をしていた頃
2年連続受け持った子

勉強が良く出来て
負けず嫌いで
朝鮮舞踊が大好きだった子

小さな誤解から 傷ついたあなたは
心が離れてしまい
最後まで目を合わせてくれなかった

近寄れば近寄るほど そっぽを向かれ
担任には向いていないのかなぁと
下ばかり見ながら歩いた日を思い出す

その子が 招待状を送ってくれた
お嫁に行く晴れの姿を見て下さいと
まるで 夢をみているよう

行きますとも 行きますとも
ずっと気がかりでした あなたの事が

高校時代 あなたの舞台を
そっと 見にいきました
大学時代 新報に掲載された
あなたの写真 切り抜いて飾りました

20才になるまで
毎年年賀状を送りました
一度も返事はなかったけれど

大舞台で踊るあなたが 誇らしく
子供の頃の夢をかなえた あなたを
いつもいつも 応援していました

幸せになってください
大事に大事に育ててくださった
アボジ、オモニと同じ想いです

舞踊を続けてください
みんなに 夢は必ず叶うこと
見せてあげてください あなたの姿で

今日は嬉しくて
眠れそうにもありません
15年間の憂いが吹っ飛びましたよ

 結婚式に参列し、彼女にそっと言葉をかけた.「おめでとう」と…。

 卒業後初めてまっすぐ私を見つめた彼女の口からは「ソンセンニム。 コマッスムニダ(先生ありがとう」という小さな小さな声が漏れた。実に15年ぶりに耳にする声だった…。

 スファ、ヒジョン、ユファ、リファ、ユナ、ユニ、愛しい孫たち!
 君たちに伝えたいことは山ほどあるけど、今日はこれぐらいにするね。私の30年近い教員生活は感動の中、2010年3月31日、ついに終わりの日を迎えたの。(次号に続く)



(2019.12 文芸同結成50周年祝賀記念式典で挨拶する私)

*お知らせ
 2018年11月から2019年11月まで書いたものを一挙に掲載いたしましたが、これからの分は今から少しずつ整理しながら書くので一話に2か月はかかります。君たちへのラブレター7は7月、8は9月、9は11月の予定です。主に退職後の10年間を回想してまいります。それまでお元気で!



(原文を「朝鮮学校のある風景52,53,54,55,56号」まで掲載してくださった 故 金日宇さんです。)

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