ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

連載 君たちへのラブレター7(学童指導員としての再出発と河津聖恵詩人との出会い)

2020-05-16 21:26:17 | 詩・コラム
連載 君たちへのラブレター7 (学童指導員としての再出発と河津聖恵詩人との出会い)

 ◆大阪朝鮮第4初級学校 学童指導員になって



 ユニ、ユナ、リファ、ユファ、ヒジョン、スファ…私の大切な孫たち、定年退職を迎えてからのお話も聞いてくれるかな? 

 2010年4月1日、この日は特別な日になったんだ。ハンメは28年間通った故郷の家のような東大阪朝鮮中級学校での教員生活を《卒業》し、この日大阪朝鮮第4初級学校の学童指導員として、新たな出発をすることになったの。胸いっぱいに希望を抱きウリハッキョの門をくぐった愛らしい新入生たちと園児たちを見ながら知らぬ間に笑みがこぼれた。

 私が第4初級学校で働くことになったのは偶然だけど必然だったのかも知れない。それは、40余年前、ハンメが歌舞団員だった若かりし頃,カヤグム(伽耶琴)の指導員として初めて配属されたところが此処、第4初級学校だったからなの。

 2年足らずの短い間だったけれど学生たちと過ごしたその日々を、今もはっきり覚えている。生まれて初めてカヤグムの練習をしていて指先に水ぶくれができたと大騒ぎをしていた幼い子供たちの指に絆創膏を貼ってあげながら、今は痛いけれどこの水ぶくれが乾いて固くなる頃には、必ず上手になっているよと、なだめながら練習を続けた日々。

何ヶ月間も練習して遂にカヤグム併唱曲を舞台にあげ、拍手喝采を浴びた学芸会、カヤグム独奏コンクールに出演する学生を連れ、たった二人で東京まで行った日のこと、時には少年団のキャンプにもついて行き子供たちと一緒にカレーを作ったり、先生たちが釣ってきたタコを調理して食べたり、笑い声が絶えることのなかったキャンプの思い出……

その頃カヤグム部に属していた一人の教え子(カンヘンジャさん)がその後、3人の娘さんの母になり、東大阪中級で夢のように再会をした日のこと、その娘さんたちに国語(朝鮮語)を教え高級部に送ったのも、すでに20年も前のことなんだよ。

 学童保育を受け持った理由はそれだけではないの。14年前まで末の息子チャンフンが通っていた「じゃがいも学童保育所」が第4初級から5分とかからない場所にあったのよ。障がいのある子もない子も、朝鮮の子も日本の子も共に過ごす学童保育所があったお蔭で重度の重複障害を抱えていたチャンフンにも放課後に行く場所ができたし、そのおかげで私も先生を続けることができたんだよ。

 8年前から、現在も「火曜日行動」を共にしている長崎由美子さんご夫妻と初めて出会ったのも、実は38年も前にじゃがいも学童保育所でだったんだ。長崎さんご夫妻は健常児の息子さんお二人をこの学童保育所に通わせ、幼い頃から健常児も障がい児も共に助け合って生きる人間に育てたいと、この学童保育所に通わせておられたの。だから保護者同士のお付き合いだったの。



(大阪第4の生徒たちと共にいる長崎由美子さん)

 養護学校に通っていたチャンフニは、下校後10年間をこの学童保育所ですごしたの。3時過ぎには通学バスの停留所まで迎えに行き、学童保育所に預けた後、また学校に戻り、放送口演部の指導を続けた日々。私が仕事でやむなく迎えに行けなかったときは学童の指導員たちがバス停まで迎えにいってくれたし、彼らが忙しいときは、地域の朝鮮青年同盟(生野西支部)の人たちが交代で迎えに行ってくれたわ。学童指導員たちと青年同盟の人たちが助けてくれなかったとしたら教員生活を続けることはできなかったと思うわ。本当、ハンメはいつもいろんな方々の助けを受けながら生きてきたと感謝している。

 定年退職を迎えた日、家族や周りの人たちは、「これからはゆっくり休めば良い」と言ってくれたけど、私はやるべきことをやりきれなかったという想いを拭いきれないでいたの。まさにそんな時、学童指導員を募集しているという話を聞いたのだから、この偶然にどれほど感謝をしたか知れない。

 これはまさしくお星さまになったチャンフニが「感謝の気持ちを忘れず、僕の分まで恩返しをしてください」と願っているように思え、喜んで引き受けたんだよ。

 初級部低学年の学童保育参加生33名!

 過ぎ去りし日、じゃがいも学童の指導員たちが私の息子を本当の弟のように見守ってくれたように、私もこの子供たちを実の孫のように見守っていこう。おやつは何にしようかなぁ?朝鮮の昔話は何から聞かせようかなぁ、宿題もちゃんと点検してやらねば、私が大好きなドッチボールも一緒にしなきゃあね。

 新たな出発をした私の胸は、青春時代に戻ったように、ひたすらときめいていたの。

 その日から2016年3月末日までの6年間、ハンメは大阪第4初級の学童指導員をしながら自分では予想もしていなかった新たな道を歩くことになったの。

◆河津聖恵詩人との出会いと朝鮮学校無償化除外反対アンソロジーの刊行

 2010年4月、奇しくもハンメが東大阪中級学校を定年退職したその年に、この国では高校無償化制度が導入されたのに、朝鮮高校だけが無償化から除外されるというひどいことが起きたんだよ。

 その年の5月の末ごろの朝鮮新報第4面に私の随筆「新たな出発」が掲載されたのだけど、5面に偶然、河津聖恵さんの詩「ハッキョへの坂」が掲載されていたの。そして19人の詩人たちによる無償化除外反対のリーフレットが刊行されたことも紹介されていたわ。

 河津さんの詩に深く感動した私は、他の方々の作品もしたためられたリーフレットを購入したくて新報社に連絡をし、河津さんと繋げていただいたの。河津さんは河津さんで4・24教育闘争のこととかいろいろ知りたかったそうで、意気投合した二人はお互いのスケジュールを調節して6月10日に鶴橋駅で会う約束をしたんだよ。

 お互い顔も知らなかったので彼女は黄色、私はピンク色、各々の携帯電話を手に持ち、それを目印に会う約束をしたわ。まるで恋人に会いに行くようにハンメは いそいそとJR鶴橋駅の掲示板前に向かったの。

 どんな人だろう、ちゃんと日本語でしゃべれるかな私、ドキドキだった初対面。
 さわやかな笑顔と共に彼女は普通にやって来た。春風のようにやって来たの。フワフワとしゃべる彼女はまるでつかみ所のない風船のようだったけど、メガネの奥のキラキラした瞳はじっと何かを見つめていた。しっかりしっかりと見つめていたの。私は初対面から彼女に惹かれたわ。

 何時間語り合ったかしれない。今まで日本の人とほとんど長い時間しゃべったことがなかった私だったけど、彼女の誠実な人柄が私の心のバリケードを取り除いてくれたのか、時間を忘れて語り合ったの。


      
      
その日から二人の共同の作業は始まった。
河津さんから「朝鮮学校無償化除外を反対して日本の詩人と在日の詩人の力を合わせて詩集を作らないか」という提案を受け私は躊躇なく応じた。ただ私自身が日本語でほとんど文章を書いたことがなかったし、ましてや日本語の詩を書けるだろうかという不安がなくはなかったの。

でも河津さんはきっぱりこう言ったわ。「大丈夫、あなたなら書けます。アンソロジーを出版するのは私たちなのに、あなたが日本語で書かなくてどうするの?」
その言葉に促され、私が勇気を出して初めて日本語で書いた詩が「ふるさと」だったの。

 79名の日本の詩人とコリアの詩人を網羅し、2週間ほぼ徹夜しながら彼女と共に編集した『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』!




2010年8月1日、その本を手に取った私は感動のあまり一編の詩を書き河津さんに送ったの。

「共に歩む人よ」
            
長い月日
私の胸には
大きな壁があった

不信と憎しみで
彼らの前に立つと
私の心は
氷のように凍てついた

祖父が
父、母がたどった苛酷な生涯が
骨身にしみて
私は貝になった

誰が想像しただろうか
このような日が 来ることを
誰が思っただろうか
心の壁が動く日が 来ようとは

張り裂けそうな胸をさらけだし
初めて日本語で詩を書いた
ウリハッキョを守りたい一心で
ためらわず筆を走らせた

<朝鮮学校無償化除外反対!>
唯この一つの思いで
あなたと共に幾度の夜を明かしただろうか
交わしたメールは何百通になっただろうか

朝鮮学校の問題は自分自身の問題だと
人間らしく生きたいのだと
世に誇れる <わが国>を
自分も持ちたいのだと云った あなた

諦める事にならされた私の心に
信じる心を呼び戻してくれ
最後まで闘いましょうと
手を差し伸べてくれた あなた

国の違いが何であろう
民族の違いがどうだというのか
あなたはまさに共に歩む人
私の大切な、大切な 心のともしび!

私たちの行く道は果てしなく遠く
険しい山々が立ちはだかろうとも
この手を決して離すまい
共に歩むひとよ

 「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」初版はまたたく間に完売され、9月1日には二刷を出版したわ。
 その本を持って河津さんはもちろん、詩人の石川逸子さん、望月苑己さん、葵生川玲さん、呉香淑さん、孫志遠さんらと共に、文科省に要請に出かけたことがまるで昨日のように思い出される。

無償化除外反対アンソロジーの朗読会を二人で企画し、11月22日に行われた広島朗読会では、今は亡き詩人―御庄博実さん、広島大の崔教授、歌人の野樹かずみさん, 呂剛明先生等をゲストに迎え、奈良在住の歌人浅川肇さんと共に私たちも出演したわ。広島朝鮮初中高級学校で行われた朗読会には原っぱさんコト原畑忠則さんも来てくださったそうだが、その時はまだご挨拶もできていなかった。(この方のことは次の機会にお話しするわね。)

東京朗読会ではアンソロジー参加者の西武の辻井喬さん、映画評論家の四方田犬彦さんに対談をしていただき、ピアニストの崔善愛さんにピアノ演奏で花を添えていただいたの。すべての企画は河津さんの構想だった。

アンソロジーを刊行するため200名もの文化人の名簿を作り一人一人に手紙を送り作品出品の依頼をし、朗読会の日本側参加者とはお一人お一人電話で何回も連絡を取り合い、最後の最後まで頑張りぬいた河津さん!心の底から尊敬できた。私はそばでただお手伝いをしただけだったけど、彼女はいつも謙虚に「オンニョさんが、オンニョさんが」と私を立ててくださった。初めての日本の詩人との出会いだったけど、この方となら生涯共に歩んでいけると心の底から思ったわ。




東京朗読会では相沢正一郎、金敬淑、石川逸子、呉順姫、柴田三吉、朴才暎、浅川肇、李芳世、河津聖恵、孫志遠、辻井喬、許玉汝、四方田犬彦さんの順にアンソロジー参加詩人が朗読をしたの。呉香淑さんのアピールを昔敬淑さんが代読し、学生の作品を東京中高生の洪裕花、李瑛夏さんが代読してくださり、奈良在住の朴才暎さんが総合司会を担当して朗読会をとても盛り上げてくださったの。





朗読会には東京中高の慎吉雄校長はじめ131名の方々が訪れ、懇親会にも41名が参席して感想を述べてくださった。その後、大阪での朗読会、京都朝高での朗読会、東京枝川での朗読会を経て、2011年2月13日には奈良で朗読会が行われたの。

歌人の浅川肇さん、エッセイストの朴才暎さんはじめ奈良在住の民族楽器奏者―李美香さんはじめ奈良初中級学校の卒業生たち、近畿一帯から音楽家や詩人が多数参加してくださった。その時司会をされた李純花さんと、10年後、同じ職場で働くことになるなんて夢にも思っていなかったわ。

奈良在住の詩人―寮美千子さんは朗読会はもちろん懇親会にも参加してくださり、これからも無償化実現のため共に前進しようと述べられた。本当に心強かった。

ところがところが、それから1か月も経たないうちに大変なことが起こったの。
2011年3月11日、天地を震撼する東日本大震災が起こり事態はますます深刻になってきたのよ。でもお話が長くなるから今日はここまでにしようね。(次号に続く)



(河津聖恵さんと歌人の野樹かずみさんをお迎えし行った、文芸同大阪の作品参加者との朗読会、右側は文芸同大阪のユン委員長)







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