若松斉軍医はシンガポールのチャンギー刑務所で、戦犯として死刑判決を受けた。
いよいよ絞首台へという前々日に、終身刑に減刑されて日本へ送られ、昭和31年に巣鴨プリズンを出所した。その彼が、死刑判決を受けた夜は一睡もしなかったと、チャンギーでの記憶を語る。
「目を覚まし、コンクリートのベットで横になったまま、何気なく壁に目をやって、初めて落書きに気づきました。」「鉛筆書きのもあったし、釘らしいもので彫りつけたのもありました。」「一死報国、南無阿弥陀仏。」
「ああこれは、この独房にいた、死刑囚が書いたのものに違いないと、思った時の気持ちといったらね。」と言い、彼がさらに別の落書きについて語る。内藤貞男海軍軍属が残したものだった。
「わしが死ななきゃ誰か死ぬ。どうせ憂き世じゃ、ままならぬ。」「思い切ったよこの辺で。やってみましょか綱渡り。」「アリャサコリャサの命芸。どんと落つれば地獄ゆき。」
この兵は、江戸っ子のカラ元気を出したのか。悲しいまでの開き直りだ。刑場に臨み、カラ元気を出せるというのだから、脱帽する。私はこの時、十返舎一九の辞世の句を思い出した。
「この世をば、どりゃおいとまに線香の、煙とともにハイさようなら。」
チャンギー刑務所では、夜になると、看守の英兵が独房を襲い、囚人たちに激しいリンチを加えた。緒戦に負けた彼らの復讐だったから、日本兵は情け容赦なく痛めつけられた。
若松軍医によれば、戦犯裁判は戦勝国による報復であり、見せしめであるというのが、大方の見方だったとのことだ。松岡上等兵曹、野口大尉、豊田准尉、久川大尉と、氏は多くの囚人を見送り、22年の9月に、129名の処刑をしたところで、チャンギー刑務所が役目を終えた。
このあたり 君がむくろの土ならむ 手にかき寄せて袋にをさむ
チャンギーを去る時、若松氏が詠んだ歌だ。
尾家大佐が刑に赴く時の状況を、同房の渡辺氏からの聞き語りで、記者が次のように綴っている。尾家大佐は、固い表情のまま言ったとのこと。
「家内には、いさぎよく死んで行ったと、言うてくれ。」「余は戦闘間部下が戦死するとき、あるいは病死するとき、天皇陛下万歳を唱えることを、命じた。」「多くの部下は、新しい日本建設の礎石として、若くして死んだ。」
「余も遅ればせながら今日その仲間に入る。しかし、3人の我が子の心中を考えると、たまらない。」
大佐は千葉県習志野の練兵場跡で、銃殺された。55才だった。
教誨師の田中氏が、馬杉一雄中佐について語っている。
「馬杉さんは、屈託の無い顔で、いつも笑っていた。」「この人は、この世への未練を全て断ち切って、仏のような心境にあるに違いないと、私はそう思っていました。」
「ところが亡くなったあと、筆写した日記に、こういう歌を残されていたんです。先立たれた奥さんと、残された子供さんへの歌でした。」
便り来ぬ 愛しの妻はみまかりて 子供ら四人父待つといふ
笑ふなよ 焼野の雉子(きぎす)夜の鶴 わが子思えば落つる涙を
この歌を読み返すたび、込み上げてくるものがあり、私は頭を垂れる。先人たちのこうした犠牲の上にある、私たちの現在と、私の幸せを知る。
亡くなられた方々に、どうして感謝せずにおれよう。靖国に祭られた彼らが、「英霊」と呼ばれることに何の疑問があるのだろう。