どこにも本人の筆跡がなく、印刷されただけの年賀状は、貰っても嬉しくない。
だから私は、宛名も住所も、もちろん挨拶の言葉も、自分の手で書いた。下手な字でも、心がこもっていれば、受け取った相手に届くと信じ、ずっとそうしてきた。
親類縁者、会社関係の上司や同僚や、部下だった人々、同窓の仲間たち、それ以外の友人知人など、一人一人の顔を思い出しつつ書いた。時間と手間のかかる、年末の大事な行事だったが、70才になったのを機会に止める決心をした。
字を忘れるだけなら、辞書を引けば良いが、手が震え、文字が乱れるに至っては、諦めるしかなくなった。事情を説明し、「はなはだ勝手ながら、年賀状を卒業いたします。」と書き、昨年投函した。それなのに、まだ30枚ほどの賀状が、ポストに入っていた。
「止めますと書いてありましたが、出すことにしました。」
わざわざこんなことを書いてくる、人もいる。「今年まで出しますが、来年から止めます。長い友情に感謝。」、ホロリとさせる友もいる。
「ほんとに止めるんなら、薄情にならないと駄目よ。」
家内が助言してくれるが、そういう彼女も踏ん切りがつかず、毎年悩んでいる仲間である。
日頃は無沙汰をしていても、年に一度心のこもる挨拶をする・・。義理だけで書くものも混じるが、大半の賀状はそうした思いがこもっている。だから、自分の都合で、廃止を宣言する身勝手さが、痛みとなる。
けれども、やはり決断しよう。
ミミズがのたうつような字で、賀状が届いたら、受け取った相手はどう思うか。
「こんな字を書くようでは、あいつも先が長くないな。」
そんなことを考えられたら、たまったものではない。百才まで生きようと計画しているのだから、余計な想像はして欲しくない。
だから、今年届いた30枚には、心を鬼にして返事を書くまい。
こうしてまた、変わった奴と思われつつ、私は年を送ることとなるのでありましよう。歌の文句ではないけれど、「それもまた、人生。」