ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

砂の器

2015-01-27 09:24:31 | 徒然の記

 松本清張の「砂の器」(昭和36年 光文社刊)を、読み終えた。

 息もつかず一気に読んだと、そういう表現が、誇張でなく使える、そんな小説だった。現在のJRが「国鉄」という名で語られ、場末のうらぶれた酒場が「トリスバー」だ。同時代を生きた私には、それだけでも懐かしくなる。トリスバーのメインメニューは、一杯50円のハイボールで、貧乏学生だった自分には、それでも高かった。

 今西栄太郎刑事が、好人物の元巡査の殺人事件を、捜査本部の解散後にも、律儀に追いつめ、最後に解決するという話だ。ヌーボーグループという、新鋭の芸術家集団をからませ、読者が次々とページを繰らずにおれないような、沢山の伏線がしかけてある。やはり彼は、第一級の小説家だったと改めて感心する。

 売れっ子作家になってからは、贅沢もしたのだろうが、私と同じ貧乏人の息子だった彼は、貧しい人間を描かせると、天下一だ。そのかわり金持ちを描写する時には、紋切り型の言葉を使うという、欠点を見せる。ヌーボーグループというのは、今風に言えばヌーベルバーグというのだろうが、若くして有名になった贅沢な若者の描写も、同じく精彩がない。

 こつこつと努力を積み上げ、苦労の中から作家の地位を築いた彼には、こんな放埒な若者の描写が、不得手なのだと理解した。

 それでもこんなものは、作品全体から見れば些細なことだ。
百田氏は、主人公と一体になって熱く語る作家だが、松本氏はどこまでも冷静で、事実の描写を重ねていく。一見乾いた文章に見えるが、どうしてどうして、熱い心が隠されている。

 安月給の刑事である今西が、予算の少ない警察をおもんばかり、自主捜査を休暇でこなし、手出しの旅行を重ねるところなど、日本人なら誰でもジンと来る。公務員が役人がと、日頃は私も一緒になり非難しているが、今西刑事のように、寡黙に自分の職責を遂行する公務員は、今でも変わらずにいるだろう。こういう人間たちが、社会を支えているのだと、そういうことも考えさせられた。

 観光地へ行っても名所見物をせず、妻のへそくりまで使い捜査に精を出す、彼の趣味は、下手な俳句と植木を買うことだ。

 温泉へ言ってものんびりするでなく、考えることと言えば「定年になったら、女房を連れてきてやりたい。」と、そんな話だ。出張の帰りに妻の土産に帯留めを買い求め、渡された妻が、娘のように喜ぶ様子など、ほろりと涙がこぼれてしまった。

 凄腕の刑事も、極悪人も登場せず、戦後の日本で、あちこちに見られた、平凡な人間ばかりがでてくる。憎むべき殺人犯も、彼の描写にかかると、別の姿を見せる。勧善懲悪というか、今はやりの人道主義というか、そんなものでなく、要するに彼特有の、乾いた文章が見せる、職人技としか言いようがない。

 図書館でもらってきた本だが、図書館の蔵書でなく、個人が持ち込んだ廃棄図書だ。
所有者も裕福でなかったのか、定価360円の本を230円で買っている。古本屋が付けた値段が、最後のページに鉛筆書きしてある。気に入った本なので、蔵書に加えたいのだが、何しろ汚れている。ページが黄色く変色しているだけでなく、ところどころに血が付着し、乾き切っているがいい気はしない。

 いくら推理小説好きで、物好きな私といっても、これでは本棚に飾る気になれない。

 誠に不本意であるが、有価物回収の日に、ゴミとして出すことにする。松本清張氏には、心の中で謝るしかない。

コメント
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