中坊公平・佐高信氏共著「中坊公平の人間力」(平成10年刊 (株)徳間書店)、を読み終えた。
二人の対談をまとめたもので、普通の本とは違っていた。聞き手が佐高氏で、中坊氏が答え、メインは中坊氏の談話ということになる。
中坊氏は、昭和4年生まれ、京大卒業後に弁護士となり、平成25年に83才で逝去している。戦後の日本を代表する弁護士として名高く、日弁連の会長も務めていた。
氏を有名にしたのは、森永ヒ素ミルク事件での、被災者救済の弁護団長としての活動だ。次は、住専(住宅専門金融会社)7社の不良債権を回収する国策会社の、「債権管理機構」での、社長としての活躍である。森永ヒ素ミルク事件で、人権派弁護士としてマスコミにもてはやされ、債権管理機構の社長としては、平成の鬼平などと呼ばれるくらい幅を利かせた。
対談は、氏が社長在任中に行われたもので、やる気満々得意の絶頂にいた時のものだ。この5年後の平成15年に、債権回収に辣腕を振るいすぎ、回収相手の会社から訴えられ、裁判では不起訴となるが、責任をとる形で、氏は弁護士廃業宣言をする破目になる。
華やかな舞台から突然姿を消し、不遇な晩年を送った氏もまた、波乱万丈の人生だったと言える。だが最近の私は、左翼とか、共産党とか、社会党とか、そんな党名を聞くだけで虫唾が走るようになっている。
長男から、お父さんは偏っていると注意されるくらい、極端な左翼嫌いになり果てている。それもこれも、きっかけは、韓国の慰安婦問題と、中国による尖閣への領海侵犯や南京問題だった。
朝日新聞を止めたのも、反日野党を憎むようになったのも、ここ二、三年の話だ。右でも左でも良いではないか。多様な意見があってこそ、社会が成り立つ。人間の歴史は昨日より今日、今日より明日と前進している・・。などと、こんな楽天思考に支えられ、日々を送っていた自分である。これを「お花畑」というのなら、まさしく私はそうだった。
けれども今は違う。隣国からの、理不尽な攻撃にさらされる日本を知り、国際社会の非情さを知り、国内に生息する「獅子身中の虫」を知った今は、何でもかんでも許容はしない。
前置きが長くなったが、中坊・佐高両氏は、私の嫌悪する左翼思想の持ち主なので、最初からこの本に、フランクな気持ちで接していないということが、言いたかった。
日弁連といえば、反日弁護士の巣窟みたいな組織だ。そこの会長経験者と思えば、どうしても素直に話が聞けなくなる。まして佐高氏は、かっての社会党の熱烈な支持者だ。社民党と名を変え、細々と存在しているとしても、売国・左翼の見本みたいな、福島瑞穂氏が息巻いている。そんな政党を支持しているのだから、顔も見たくない佐高氏である。
自分がいかにグズで劣等生だったか、中坊氏が思い出を語るが、それだって逆説の自慢話だ。だいたいそんな劣等生が、京大へ入学したり、弁護士になったりできるわけがない。片や慶大卒の佐高氏は、法学部だったが法律が嫌いで、畑違いの哲学をやったと、これもまた劣等生自慢だ。
悪名の方が高いとしても、マスコミで騒がれる評論家に、どうして劣等生がなれるのか。
互いに誉め合い、会話を楽しんでいるとしか思えない本でもある。殊に違和感を覚えたのは、中坊氏が使う「上げ底」という言葉だった。どういう意味で使っているのか、本物の劣等生だった私には、最後まで不明だった。記念のために、この部分を、本から抜き書きしておこう。
「世の中では、違法行為があれば早く糺す、ということが、」「人間としても、人類としても当たり前のことですね。」「ところがある会社の責任者は、" 上げ底 " の 社長たる地位としての、立場からしか判断していません。 」
「当たり前のことをしないで、" 上げ底 " の上で、表ざたにしないのは会社のためだ、そのうちなんとかなるだろうと、判断したところに、問題があるんでしょうね。 」
「つまり、私に背いてこそ 、公である、ということなのですが、」「私は "無私" とは、反対の " 私" の意味で、"上げ底" という言葉を使っています。」
無私の反対の意味なら、エゴイズムのエゴとか、利己主義の利己とか言えば済むものを、上げ底などというから、分かりにくくなってしまう。ひねくれ者の左巻きめと、私の印象は、どこまでも偏見が先行する。これに対する佐高氏の相槌が、これまた気に入らない。毒舌評論家の面影は、微塵もない。
「私は、中坊さんのやっていらっしゃる困難さは、日本の会社の、困難さに挑戦しているように感ずるのです。」「特に私は、日本の銀行は、民間企業だとは思っていません。」「大蔵省統制経済下の、お役所企業であって、銀行経営者の上に、大蔵省があるわけですね。」
「前にも言いましたが、これだけの住専問題を起こしながら、ボーナスを堂々と取っている、銀行経営者の感覚が分からない。」
バブル経済が崩壊した時、膨大な借金の山が築かれ、その穴埋めのため、国民の税金がつぎ込まれた話は、あまりにも有名で思い出すさえ忌々しい。あのとき以来、日本経済は冬の時代に突入した。
腹立ち紛れに調べてみたら、そのバブルは、個人に向け住宅ローンを専門とするノンバンクが設立された時から出発していた。好景気に湧く日本では、巷に金があふれ、住宅貸付市場も活況を呈した。それを見た、住専の親会社だった銀行が、自ら続々と参入して、住専の市場を食い荒らした。
資金と信用力で親会社に太刀打ちできない住専は、融資先を変更し、貸しビル、ゴルフ場、リゾート開発、さらには地上げや土地転がしの資金まで貸し付けるようになり、怪しげな企業や個人へと範囲を広げていった。この間に銀行は、膨大なダーテイーマネーを住専経由で貸し付け、荒稼ぎをした。
土地が騰貴し、金まみれの土地に社会が浮かれ騒ぎ、ついには日銀がバブル潰しにかかった。不動産向けの銀行への貸付枠を絞ったのは、これもまた「平成の鬼平」と呼ばれた三重野総裁だった。利に聡い銀行は、住専へ貸し付けていた資金を一斉に引き上げ、赤字転落への対抗策を取った。
バブル崩壊の直前なのに、銀行からの資金引き上げ分を、肩代わりする形で、住専に食い込んできたのが、巨大農協マネーを運用している農林中金だった。バブルが崩壊した時、住専各社の不良債権の総額は、大蔵省の公表値で9兆5626億円だった。このうちの5兆5000億円が、農林中金の貸し込み額だったと言われている。
倒産寸前の銀行救済のために、「公的資金」が投入され、ほとんどの銀行が国の管理下に入った。しかし農林中金だけは、農民を救済するという名目で、「住専処理法」が国会で成立し、全額が税金で穴埋めされた。
住専についての記述は、別の資料を引用したのだが、中坊・佐高両氏が語っているのはこの話である。
湯水のように金が融資され、この金に群がった、怪しげな起業家や政治家やヤクザが、みんなで甘い汁を吸ったのだ。濡れ手に泡のあぶく銭から、銀行や住専の経営者たちは、高額な報酬を受け取り、贅沢三昧をした。二人は、あたかも全ての責任が、銀行の経営者にあるという口ぶりだが、私の調べた事実は異なっている。
もっと重い責任があるのは、住専と銀行の背後にいた、大蔵省と農林省の高級官僚と、その天下り役人たちだった。私が調べたところでは、そうなっている。
「特に私は、日本の銀行は、民間企業だとは思っていません。」「大蔵省統制経済下の、お役所企業であって、銀行経営者の上に、大蔵省があるわけですね。」
佐高氏は、そんなまともな指摘をしていながら、官僚への批判はほとんどしない。
大蔵省の役人から任命され、社長になった中坊氏もそうだが、私は左翼の限界をここに見た。彼らは企業とか、経営者とかには滅法強いが、官僚には歯が立たないらしい。知っていながら攻撃を控える狡さがあると、どうしても彼らには厳しくなる。
考えて見れば、バブル経済の出発点になった、国策ノンバンクを最初に作ったのは、大蔵省だった。その後に次々と誕生した、ノンバンク住専を認可したのも、銀行が住宅ローン市場へ参入するのを、黙認したのも、全て監督官庁の大蔵省だった。銀行経営者の上に大蔵省がいると、正論を言うのなら、なぜ佐高氏は、大蔵省の責任を追及しないのか。
バブル崩壊と囁かれるている時だったのに、無謀な住専貸付に走ったの張本人は、個人名まで判明している。
当時の農水省経済局長だった堤氏と、全中金理事長だった森本氏だ。銀行経営者たちは、乱脈融資の責任を問われ、辞任・退任、あるいは減俸、退職金の不払いなど、相応の責めを受けたが、農水省の高級官僚と天下り役人には、なんのお咎めもなしだった。
それどころか、彼らの乱脈経営と無駄遣いが、「税金の全面穴埋め」で救済されている。
だから私は、二人の対談を評価しない。本当に社会の闇を照らし、悪を究明し、歯に絹着せぬ意見を述べる二人だと言われるのなら、こんな素人の私が、調べた事実すら語らないでどうするのだろう。
「我が国の社会を、法的に眺めたときに、国民一人ひとりは、」「考えられないほど不利益な立場に置かれている、というのが現状なのです。」
具体的な話をせず、このように抽象論さえ語れば、中坊氏もなかなかいいことを言う。次の言葉などは額にでも入れて飾っておきたいくらいで、左サイドに立たせたままにしておくのは、勿体ない氏ではなかったろうか。
「我々は過酷な戦争を体験し、敗戦を迎えたことにより、」「国家というものに、大変な反発を抱くようになったと、感じています。」「個人が中心になって、物事を考えなくてはならないという気風が、生まれてきました。」「そのこと自体は正しかったと思いますが、それが行き過ぎて、」「日本は、各人のエゴを追及する集団となってしまったのでは、ないでしょうか。」
「民族というものは、決して外敵の侵略によって、滅びるのでなく、」「むしろ内部的な、倫理の崩壊によって滅びていくものだと、私は思います。」「その意味で、現在のわが国・我が民族は、滅びゆく過程を辿ってているのではないか、という危惧をもっています。」
日本が滅びゆく過程を、手助けしているのが、「獅子身中の虫」、「駆除すべき害虫」たちである。つまり、反日・左翼の人間たちだ。もっとわかりやすく言えば、この本で対談している、中坊公平・佐高信氏の二人が、間違いなくその仲間だ。