草柳大蔵氏著 実録「満鉄調査部」上 (昭和54年刊 朝日新聞社)を、読み終えた。たった249頁の本なのに、遅々として進まず、2週間以上かかった。中身の詰まらなさに悩まされたためでなく、逆にどの頁にも自分の知らない事実が語られていたからだ。大げさに言えば、「これぞまさしく、求めていた本の一冊。」ということだった。
日本はなぜ、これほどまでに中国や韓国・北朝鮮から憎悪されるのか・・・・。私の読書の目的の一つが、ここにある。
自国を蔑んでやまない左翼反日の人間の言うことは脇に置いて、自分なりに納得できる原因を突き止めてみたい。受験のため、通り一遍の知識として得た日本史を、もう一度辿り直し、良いことであれ、悪いことであれ、飾られていない事実が知りたい。
その願いの核心を語ってくれる本の一つが、草柳氏の著作だったと、どうやらこれは間違いがなさそうだ。
大正13年に横浜で生まれた氏は、東大在学中に学徒動員となり、特攻隊を志願したという経歴の持ち主だ。敗戦後に復学し、昭和23年に法学部を卒業している。出版社や産経新聞の記者等を経て、大宅壮一氏に2年間師事し、その後「週刊新潮」と「女性自身」の創刊に参画した。日本を代表する評論家、ノンフィクション作家として活躍し、平成14年に78才で没している。
朝日新聞社の出版という部分に引っかかったが、読んでみれば、独断の主張も偏見もなく、事実が丁寧に書き込まれていた。氏の序言によると、満鉄調査部について書きたいと思ってから、仕事にかかるまで10年という歳月がかかったとのこと。
「なにしろこの満鉄調査部は、日本人が作り得る空前絶後の知識集団であって、ちっとやそっと " 現在の光 " をあてても、その全貌を捉えることは困難だと思われたのです。」
氏の言葉通り、本を読み終えた今でも、満鉄調査部の全体像が捉えられない私だ。昭和13年の4月に、松岡洋右が「大調査部」を創立した時は、全スタッフ2,125名で、年間予算は800万円を上回っていたという。800万円を、昭和54年当時の貨幣に換算すると38億円に相当するらしい。平成28年の現在ならもっと多額になるのだろうが、計算が苦手な私にはわからない。
調査部は満鉄本社の大連にあっただけでなく、奉天、ハルピン、天津、上海、南京、はてはニューヨークやパリにも事務所・出張所を出していた。部員たちは三井、三菱の幹部クラスを高給で引き抜き、大学の優秀な学生を入れ、高価な書物を好きなだけ買わせ、希望する土地へ出張させ、得意とする研究を許し、たっぷりと時間を与え、現在でも想像がつかないほどの贅沢な組織だ。
この調査部の母体である「満鉄」からして、私の理解を超える大きさと複雑さだ。数ページにわたり、氏が解説してくれるが、読むほどに不可解さが増す。その一部を引用してみよう。
「まさに満鉄は、国家そのものであった。」「事業のはじめは、鉄道と炭鉱の経営である。」「日露戦争後のポーツマス条約により、ロシアが建設した東清鉄道の路線を引き継ぎ、撫順、煙台などの炭鉱の経営権を持ったのである。」
「更に鉄道付属地として、線路沿線に一般行政権を認められた土地を持ち、10kmにつき15名の駐兵権も有していた。「それから40年の間、満鉄は70の関連会社、傍系機関を有し、満州に暮らす人々にとっては、不滅の殿堂であった。」「この満鉄の頭脳に相当するのが、調査部である。」
そもそも満鉄とは何なのか。四つの島からなる日本で生活してきた私には、国家を超えるような「南満州鉄道株式会社(満鉄)」の存在からして理解が難しい。
「満州の面積は、約150万平方キロ、つまり日本内地の2.6倍、あるいはドイツとフランスを合わせたほどの広さである。」「当時の人口は千二百万人くらいで、この広さでは " ゴマ粒をばら撒いたような " という表現が当たっていよう。 」「なにしろ、広漠たる原野が広がっているのみだ。」
私は満州で生まれ、敗戦とともに引き揚げてきた日本人の子供の一人だ。故郷と呼べる地はすでに中国領土となり、三才だった自分には何の記憶も残っていないが、歴史の彼方にある満州を文字で読むと、不思議な感慨が生じてくる。当時の満州について、満鉄の秘書課長上田氏が、次のように語っている。
「清朝は満州に起こって、北京に君臨し、300年の後には全く漢人化していたので、」「満州は単に祖先の発祥地として大事にしただけで、産業はほとんどゼロといっていいものだった。」「満州にいる者までが漢人化してしまい、かえって漢人の手先として使われ、」「小作人になるような憐れな有様だったので、全然産業はなかった。」「人口の9割を占める農民は、糊口をしのぐのが精一杯という程度で、貿易特産品などほとんどない。」
満鉄の初代総裁は、後藤新平だった。彼の就任には、政府と軍部と明治の元勲が深く関与し、まさに歴史そのものだ。児玉源太郎、山形有朋、原敬、西園寺公望等々綺羅星のような人物が登場する。
草柳氏は、沢山の資料の中から、後藤総裁の考えについて読み解いてくれる。
「後藤はまず、日露の衝突は今度の戦争だけでは終わらず、必ず第二戦があるだろうという予測から出発する。」「それが何時になるのかは分からないが、日本が満州に主体性を確認しておけば、たとえ戦いに敗れても善後策について余裕ができる。」
「そのために必要なのは、第一に鉄道の経営、第二に炭鉱開発、第三に移民、第四は牧畜である。」「ことに移民は大切で、鉄道を経営しながら、10年の間に日本から50万人を移住すれば、ロシアはやたらに戦争を仕掛けるわけにいかないだろう。」「韓国の宗主権がしばしば問題になるが、列国が強いことを言えないのは、日本からの移民が最大多数を占め、" 口舌をもって争う能わざる事実 " を作ったからである。 」
「後藤はこの " 移民による既成事実 " の造成を、ドイツ留学中に、普仏戦争後のアルサス・ロレーヌ地方の実情から得ている。」
当時の列強はこうしたことをやっていたのだと分かったが、同じことを朝鮮や満州で真似るとしたら、中国や朝鮮が黙っていないはずだと、今日の目からすると理解できる。「正しい歴史認識を」と、中国や韓国の政府が日本を責めるのは、もしかすると南京問題や慰安婦のことでなく、こうした過去を指しているのかも知れない。チベットやモンゴル、あるいはシベリアの僻地に、多数の漢人を移民させている中国は、昔の列強を真似ているのかもしれず、時代錯誤の施策とはいえ、いささか私の攻撃の矛先が鈍ってくる。
「もし満州において、50万の移民と数百万の畜産を有せんか、戦機もし我に利ならば、進みて敵国を侵略するの準備と為すべく。」後藤が述べたこの考えは、日露戦争を戦った将校の中にある思想でもあったという。
こうして巨大な満鉄は、現地の関東軍のトップとも深い関係を有し、本国の政府や各種団体とも関連し、私のような単細胞には理解しがたい複雑な活動を展開する。組織というものは、一般的には同じ思想や意見で内部を固めつつ、発展や拡大を目指すものだが、満鉄の調査部は、まさに混沌の集合体だ。
もっとも驚かされた、顕著な例を氏の本から引用してみよう。
「中西功という、戦後の日本共産党のスターが、満鉄調査部で活躍したことに奇異の感を抱かれるであろう。」「しかし中西ばかりでなく、満鉄調査部に、左翼からの転向組がズラリと机を並べていたのは事実である。」「現在でも耳新しい人名を挙げてみると、堀江邑一、石堂青倫、伊藤好道、山口正吾、藤原定、細川嘉六、伊藤律、尾崎秀実・・・・」「ご覧のように、戦後の社会党もしくは共産党に何らかの形で参加した人ばかりであると言っていい。」
「中江兆民の息子だった中江丑吉は、満鉄から毎月300円の給料を受け取り、学問一途に日を送っていたが、彼は北京にあって、コミンテルンに出席する佐野学や鍋山貞親の面倒を見たそうだ。」「ある人がそのことに触れると、" 使える人間に右も左もあるものか、キミ、左手だってステッキを持つだろう " と平然としていたという。 」
今日の考えで行くと、自民党の政策調査部会の中に、共産党や社会党の党員が机を並べているようなものだし、ある時は松岡洋祐などが副総裁をしていたのだから、当時の日本人は太っ腹だったのか、スボラだったのか、あるいは豪気な楽天家だっのか。即座に理解ができない。
こうした混沌の中から、やがて満州国が生まれ、中国との戦争が拡大することになるのだが、丹念に本を読んでいくと、どうしてそうなって行くのかが理解できる。
「鎌倉、室町、戦国時代、江戸から明治へと日本史の中には流れがある。しかしこの昭和の軍国主義の時代だけは、理解できない。日本史の中に突然生じた、異質の時代だ。」
かって司馬遼太郎がそのようなことを言い、私もまた昭和の前半をそのように異常で、理解不能な軍人支配の時代と思わされてきた。しかし草柳氏の本を読むことにより、司馬氏のごまかしを発見した。
事実を調べていけば、昭和の前半も立派に日本の歴史とつながっている。幕末から明治にかけての日本を理解しながら、昭和の時代が異常だという意見は出てくるはずがない。明治時代の日露戦争を、「坂の上の雲」の中で見事に描いた氏が、昭和を否定し罪悪視するのは、私が嫌悪する「へ理屈」でしかない。
要するに司馬氏は、敗戦となった日本の歴史を直視せず、何もかも軍人が悪かった、軍国主義が国を誤らせたと、そう言いたいだけだった。つまり敗戦後に主流となった左翼平和主義や、盛り上がった人道主義に迎合し、自己保身に回っていた。
たしかに満鉄や調査部について、私は十分な理解をしていないが、それでも司馬氏のように、昭和の前半を異常な、狂気の時代と切り捨てたりはしない。軍人や軍国主義や戦争には同調しないと、彼は自分を別の場所に置きたかったらしいが、私には昭和の日本人が理解できるし、許容もする。
だからと言って、突き進んだ戦争が正かったとも言わない。
大東亜戦争は、正しいとか間違っているとか、そんな物差しで計ってはならないものだし、まだ終わっていない。敗戦国にだけ罪を負わせ、敗戦国だけが極悪非道とされるような裁判が、どうして正しいものであろうか。戦勝国が言うのならまだしものこと、日本人までがそれを是とする愚をどうして受容するのか。
この本についての感想は、まだまだ終われないから、明日も続けよう。
知識の空白を沢山埋めてくれた草柳氏に、深い感謝の気持ちを捧げたい。氏の座右の銘は、「生涯・書生」だったと聞く。私もまた、生涯を書生として、明日からの本を読み続けたい。