ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『実録・満鉄調査部』 上 - 2

2016-02-12 23:24:49 | 徒然の記
 今朝も冷え込んだ朝だった。
バードバスが凍り、水浴びに来たヒヨが戸惑っていた。寒い朝だというのに、シジュウカラ、ヤマガラ、めじろといつもの鳥たちが代わる代わるやってきた。可哀想だったので、無精な心を奮い立たせ、氷を割り、タワシで洗い、水を入れ替えてやった。
 
 小鳥たちは寒さ知らずなのか、水に浸かりながら、顔を洗い、次に体を水中に浸し、木の枝で羽をふるわせ、水を飛ばしている。仕草の愛らしさは、見飽きないばかりでなく、満鉄調査部のことも忘れさせる。
 
 心を鬼にして小鳥の観察を振り切り、さて、昨日の続きだ。
満鉄調査部というのか、満鉄と言うべきか、捉えどころのないこの組織の、巨大さと複雑さが次の叙述で推し量られる。
 
 「昭和4年に満鉄から独立して財団法人になった " 東亜経済調査局 " は、昭和13年に南方調査専管を義務づけられた。 」「翌14年に、松岡洋右が大調査部を発足させるとともに、満鉄に還元され、」「18年には東京支社調査室に一元化されている。」「ただこの間にも、" 満鉄の外務省 " という性格は維持されたまま、 " 次第に " 戦略研究所 " のような性格も加わった。 」
 
 「満鉄調査部が、" 日・満・支 " を対象としたのに対し、東亜経済調査局は、対象の範囲に制限がなかった。」「例えば、調査部の研究は " 満・蒙・支 "を対象にし、関東軍のロシア志向と平仄が有っていたが、 」「調査局の方は、仏領インドシナ、インド、中近東、インドネシアの研究で、国内に台頭しつつあった " 南進論 " と歩調を合わせている感があった。」
 
 こうして政友会や関東軍と密接な関係を持ちながら、一方では自由奔放な社風があった。
 
 「満鉄ほど、平社員に進言させ、反抗を許し、時には下からの声によって、社是を変更した会社も珍しいであろう。」「特徴の一つは自由な空気であるが、これは満鉄全体にも言えることである。」「この空気は指導者たちが許容したというより、社員の方が醸成し、継承してきたと言うべきである。」
 
 「それは多分に会社の性格、あるいはその歴史的位置からきていると思われる。」
その歴史的位置について、氏が次のように説明する。
「当時の青年社員にとって、満州は、" 永遠の白図 " であったのでは ないかと思う。」「ある者は、その白図の上に国家を置き、ある者は搾取なき経済社会を描こうとした。」「またある者は、民族協和の姿を描こうとした。」「この白図の精神は、調査部たると、地方部たると、はたまた鉄道部たると興業部たるとを問わなかった。」
 
 政治家や軍人ばかりでなく、意気軒昂な青年社員たちも、そして勿論朝日・毎日等国内の新聞各社も挙って満州の夢を描いた。このような事実を知ると、「満州国の推進をしたのは、軍部の独走だ。」と、敗戦後に先頭に立ったマスコミ各社に、果たしてそうだったのかと疑問が生まれてくる。氏の語る当時の国際情勢を読むと、ひとり日本が侵略に走ったという戦後の言論にも疑問符が付く。
 
 「揚子江の流域に、最初に国旗を立てたのはイギリスだった。」「1842年、イギリスはアヘン戦争を起こして南京条約を結ばせ、上海他4港にユニオンジャックをはためかせた。」「1890年に、英支通商条約を結んで重慶の門戸を開かせ、同時に四川省の調査権を獲得している。」
 
 「ここまでがイギリスの最盛期で、それから次第に列強の追い上げに会い、1914年に第一次世界大戦が勃発するや、海軍力の不足と資金力の枯渇により、シナ貿易から著しく後退する。」「代わってアメリカと日本が、一位二位を争うデッド・ヒートを演ずるに至る。」「大正5年の貿易統計では、日米が伯仲し、香港を除いたイギリスは第3位に転落している。」
 
 米英および日本が、何故目の色を変えて争うかといえば、貿易取引額の一番大きな国が、税関の最高位である総税務士の選任権を手にし、シナ海における関税事務の統括権が、手中に収められたためだ。海上のことはこのくらいにして、次は陸上の話だ。
 
 「鉄道を抑えるものは、その国を抑えるという力の原則が明白だったから、」「アメリカ、日本についで、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、ベルギーが、」「中国の鉄道利権をめぐって、火花を散らしていた。」「大正6年当時、列強が中国から奪った鉄道敷設権は、約二万キロに及んでいる。」
 
 " 眠れる獅子 " と呼ばれていた中国は、為されるがまま列強に切り刻まれ、蹂躙されていた。
そうなるとやっぱり、中国共産党政府に言いたくなる。「日本にばかり、歴史認識をと主張せず、アメリカにも、ドイツにも、フランスやロシアにも、」「まして先陣を切ったイギリスにも、恨みつらみを言ったらどうだ。」
 
 これが中国の狡いところで、強い者には黙して語らず、弱いと見れば手加減なく攻撃する。なにしろ戦後の日本は、世界中に向かって頭を下げ、腰を低くし、金をばら撒くだけの国になったので、彼らから見れば、「自動現金支払い機」でしかないのだろう。
 
 さて本題に戻って・・・・・、日露戦争後は、政府でも軍でも民間でも、「満州経営」という言葉がはやるようになっていた。しかしこの言葉を、最も忌み嫌ったのは伊藤博文公だったと、氏の本で初めて知った。明治39年に、西園寺内閣が満州に関する協議会を開いたとき、児玉源太郎参謀総長に、伊藤公が厳しく反論したという。
 
 「余の見る所によると、参謀総長等は、満州における日本の地位を、根本的に誤解しておられるようである。」「満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、」「すなわち遼東半島租借地と、鉄道の他は何もないのである。」「満州経営という言葉は、戦時中からわが国人の口にしていたところで、」「今日では官吏は勿論、商人などもしきりに説くけれども、」「満州は、決して我が国の属地ではない。」
 
 こうした正論を伊藤公が、堂々と述べたというのだから、驚きもし、感動もした。公は、元勲と呼ばれるにふさわしい見識の持ち主だったと思う。
 
 「満州は、純然たる清国領土の一部である。」「属地でもない場所に、わが主権の行わるる道理はないし、拓殖務省のようなものを新設して、事務をとらしむる必要もない。」「満州の行政責任は、よろしくこれを清国に負担せしめねばならぬ。」
 
 当時はこうした伊藤公の正論と、「十万の流血と二十億の国帑」という日露戦争の代価として、満州を考える意見が拮抗していた。公は、朝鮮併合についても反対論者であったのに、何も知らない安重根が暗殺してしまった。歴史の皮肉としか言いようがないが、朝鮮のためにも、中国のためにも、惜しい人物を失ったものだ。
 
 この後大正四年に結ばれた「対華二十一か条」について、もし伊藤公が生きていたら、何と言って反対したことだろう。破竹の勢いで国力を伸張した日本が、力で中国や列強をねじ伏せていく姿は、素晴らしいというより、むしろ傲慢で醜い。調印された五月九日を、中国が国辱の日と呼んでいるが、さもありなんと理解した。列強の仲間入りをし、得意になった日本の姿が残念でならない。
 
 日本正当化の材料探しで、読書をしているのでないから、都合の悪い意見でも、ちゃんとブログに残す。朝日新聞みたいに、具合の悪い事実を無視するような、卑しい真似はしたくない。
 
 残されたものが沢山あるが、上巻についてはこのくらいにしておこう。
昨日図書館へ行き、下巻があるのが分かり、借りてきた。上巻は別の図書館の廃棄図書だったのだが、念のため聞いてみた。「この本は、廃棄図書にしないのですか。」「うちの図書館には、一冊しかない本です。一冊しかない本は貴重なので、廃棄処分にはしません。」
 
 ということで、貴重な下巻を明日から読むこととする。
 
 大事なことを言い忘れていた。左翼の側に立つ、反日の人々はきっと反論するに違いないが、歴史の中の日本の無謀や傲慢な行為について、私は、中国や韓国等に謝罪すべきとは考えない。歴史は輪廻転生、あるいは諸行無常、盛者必衰である。列強と呼ばれたどこの国が、過去を謝罪しているか。そんなことは、誰もしない、ということだ。
 
 まして被害者だと言い募り、日本を攻撃する中国や韓国は、他の国に対しては加害者でもある。彼らはそれについて、一片の謝罪もしていないし、将来にわたってする気もない。これが国際社会であり、国際政治の非情さでもある。
 
 力は正義なりと言いながらも、それでも世界には最低限のルールがあり、踏み外せば手痛いしっぺ返しがくる。中国や韓国からの攻撃は、70年前の日本へのしっぺ返しに過ぎない。自国内での検討や反省はしても、外部に向かい、歴史の謝罪をするという非常識は、したくないものだ。
 
 今私が、司馬遼太郎氏に言えることは、
1.「昭和の前半が日本の歴史の中で断絶した、異常な時代だったのではありません。」
2.「異常だったのは、国民が国を大切にする心を失った敗戦後の70年なのです。」
 沢山の知識がなくても、これが庶民の常識であり、世界の常識だということ。
コメント (4)
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