宮本輝氏著「月光の東」(平成10年刊 中央公論社)を読んだ。
昭和22年生まれの氏は、今年69才だ。兵庫県に生まれ、父親の仕事の関係であちこちを転居している。芥川賞になった「蛍川」を随分昔に読んだが、中身はすっかり忘れ、とても長編だったという印象だけが残っている。
今回の作品も、430頁の分厚い本だった。36年前、中学一年生だった頃に出会った、薄幸の美少女を探し当てるという物語だ。
丁寧な読みやすい文章に引き込まれ、60頁くらいは無心になって読んだ。本当の主人公は塔屋米花(とうや よねか)という美少女だが、彼女は物語の最後になってからしか登場しない。
同級生だった杉井純造と、同じく彼女の同級生だった加古眞一郎の妻と、合田孝典の妹による、回想形式で物語が進む。
語り手の杉井純造が48才という設定なので、眞一郎の妻も孝典も妹も、同じような年代だ。眞一郎は妻に隠れてよねかと深い仲になり、出張先のカラチで自殺し、孝典も家族に隠してよねかと深い関係を持つようになり、突然の交通事故で命を失う。
淡い恋ごころを抱いていた杉井は別とし、眞一郎の妻も孝典の妹も決してよねかを快く思っていない。
夫の浮気相手だと知った眞一郎の妻は、敵意すら覚えている。どんな女性なのか、一目見たいという執念がある。北海道の牧場主の娘だった孝典の妹は、アルバイトに来ていた学生のよねかを知っており、兄と親しかったと聞かされ傷ついている。
眞一郎も孝典も彼女と接点を持ったことで不幸になり、命を失っている。
話の進め方はミステリー小説の謎解きみたいな趣があり、事件性はないが、よねかという不幸な女性の持つ、美しさと怪しさが全編に漂っている。話の進行とともに、よねかを巡る男たちが更に増える。
彼女のパトロンとなり、面倒を見続けている画商の津田富之、その友人である骨董屋の主人古彩斎、あるいは事故死した孝典の親友だった柏木邦光など、次第に話が込み入ってくる。これらの人物たちが、彼女を探そうとする杉井と眞一郎の妻に対し、快い協力をせず、持って回ったような断片を語り、途中で口をつぐんだりする。
それで一層よねかの姿が神秘性を帯びてくるのだが、半分ほど読んだところで、本への興味を失いそうになった。
文章は巧みで、丁寧な叙述が読者を飽きさせないのだが、こんな込み入った筋立てにしたら、収束が難しくなるのでないかと心配になった。なんでも器用に書ける作家だし、才能の豊かさも十分知ったが、「書き過ぎる」という印象をこの時点で抱いた。
登場人物が個性豊かで、みな生き生きとし、一人に絞っても十分小説になる素材だ。一人ずつ丁寧に描かれているため、話が横道へ入り、肝心のよねかに行き着かない。バルザックを読んだとき、ごった煮の料理みたいな小説とため息がもれたが、作風は違うのに同じ印象を受けた。オーケストラのように全部の楽器(人物)を掻き鳴らし、全体の効果を狙っているのかもしれないが、散漫な小説としか受け取れなくなってきた。
彼女に夢中になった男たちは、同じような言葉で熱く語る。
「彼女は自分の中に架空の世界をいっぱい作り、それを寄る辺に生きている。」「一人ぼっちで生きている健気な彼女を、見守ってやりたい。」表題に使われている " 月光の東 " という言葉は、よねかが抱く架空の世界を表す言葉だ。騙されても、冷淡にされても、あるいは悪態をつかれても、男たちは彼女を許し、返って自分の不明を恥じる。
そしておそらく、氏が小説の結論として言いたかったのは、「罪悪感ほど、心身を痛めるものはありません。」「大切なことは、自分を肯定すること。好きになることです。」、という言葉なのだろう。
杉井は幼かった自分が、彼女に何もしてやれなかったことに罪の意識を持ち、その悔いから自己嫌悪に陥る。淡く悲しい恋が絡まっているだけに、いっそう切ないものがある。眞一郎の妻は、恨むべきはよねかでなく、夫の心を思いやれなかった自分だったという罪悪感から精神を病んでいる。
最後に彼も彼女も、「自分を肯定し、好きになることで」、心の病を乗り越える。同時によねかの生涯も理解し、許す気持ちになる。ハッキリ書かれていないが、結論はそんなものと推察した。
でも、この小説の印象は、「大山鳴動して、ネズミ一匹」だった・・・・、ような気がしてならない。上手な作家の力作なのは間違いないが、北方謙三氏の通俗小説に及ばなかった。通俗とは言っても、「たかが通俗、されど通俗」だ。作者の人格そのものが読者へ迫るのだから、小説は、正直といえば正直でないか。
何が何でも宮本氏と、心酔する読者もいるので、私の意見なんて、そういう人にとっては、それこそ「みみずの戯言」だ。十人十色なんだし、もともと感想とはそんなものだろう。