ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

沖縄 修学旅行

2016-04-29 20:17:00 | 徒然の記

 新崎盛暉・目崎茂和・国吉和夫・仲地哲夫・村上有慶・梅田正己氏共著「沖縄 修学旅行」(平成4年刊 高文研)を、読み終えた。

 母の具合が良くないと聞き、急遽九州へ帰省することを決め、往復の待ち時間に読もうとバッグに入れた。題名が「修学旅行」なので、名所旧跡を紹介する本だろうと、軽い気持ちで手に取った。

 「観光・沖縄のキャッチフレーズは、青い海です。」「きらめく太陽の下、無数のガラスの玉を海中に敷き詰めたように、虹色に輝く海を見ただけで、」「沖縄へきた甲斐があったと言えます。」

 空港の待合室で、ベージをめくった。基地問題で荒れる沖縄とは言え、私には、まだ見ぬ憧れの島でもある。前書きの言葉に、心踊りさえ覚えた。

 「沖縄で体験すべきことは、まだ他にたくさんあります。」「人生観が変わると言えばオーバーかもしれないけれど、」「しかし沖縄が、私たちの歴史と現実を見る目を、」「変えることだけは確かです。」

 文章のトーンが変わり、軽かった気持ちが、重いものへと変じて行った。「この本は、そうした沖縄体験のための、基礎的な入門書です。」「本で学んだことを、沖縄の地で確かめたとき、」「青い海 の輝きもまた、違って目に映ることでしょう。」

 目次を眺めると、「沖縄が知っている戦争」、「基地の島・沖縄」と、気楽に読めないタイトルが続いていた。「羊頭狗肉」とは、看板と実物が違っていると、騙された客が苦情を述べるとき使う言葉だが、この本の印象もそうだった。

 私はこれまで沖縄について、保守の側の情報で知識を得、反日・左翼に振り回される人間が多数いる島、という理解をしてきた。読み終えた今は、著者たちの偏見が混っているとしても、別の姿の沖縄をつかんだ気がする。

 今日まで、反日左翼への怒りばかりを述べてきたが、今少し、沖縄の側に立ち、眺める要があると感じさせられた。私が言う「羊頭狗肉」は、本に騙されたという怒りだけでなく、「期待していない知識を貰った」という変な驚きだ。

 日本の各地から沖縄へ移住し、騒ぎを起こすプロ市民には、依然として好感が持てないが、反日とならざるを得ない沖縄の実態を知った。たかだか240ページの本を読み、沖縄を理解したと言うのは早計かもしれず、別の書物を読めば、また違った思いが生じるのだろうが、現時点での気持を足跡として残しておきたい。

 まず自分が、沖縄について、知らないことばかりだという事実を、認めなくてならない。国内で唯一の戦場となった沖縄で、どれだけの戦没者が生じたか。覚えやすくするため、概算でメモをした。沖縄戦の戦没者総数は、20万人だとのこと。このうち沖縄出身の軍人と、沖縄住民の戦没者が12万人で、内訳は軍人が3万人、民間人が9万人だ。沖縄出身以外の軍人が、7万人で、米軍が1万人。これで合計が20万人となる。

 本でに書かれている言葉を、そのまま引用しよう。
「沖縄ではたしかに、6万6000人もの、本土から来た兵士が、」「かけがえのない命を落としたが、」「しかし、それをはるかに上回る、沖縄県民が命を奪われた。」「沖縄県掩護課の資料でも、沖縄県出身の戦没者は、12万2000人を超える。」「この事実を見落とすと、沖縄戦の本質を見失うことになる。」

 「いま、摩文仁の丘には、各県の慰霊碑が建ち並んでいる。」「沖縄には、沖縄県を除く、全都道府県の慰霊碑がある。」「沖縄戦が、それほど大きな戦いだったということだ。」

 挿入されていいる一覧表に、県名、塔名、建設年月、合祀者数が記載されている。これほど多くの慰霊碑が、摩文仁の丘にあることや、戦死者の数の内訳も、本を読むまで知らなかった。

 本の著者は、修学旅行の学生に向かって語りかける。
「日本政府と軍部は、ジュネーブ条約を批准せず、」「兵士には、条約の存在すら知らせず、」「ただ、" 生きて虜囚の辱めを受けず " の」「戦陣訓を叩き込んでいた。 」「捕虜の口から、軍の機密が敵に漏れると考えたからだ。」「負傷して、戦えなくなった傷病兵は、みずから死ななければならなかったのだ。」「これが、日本を支配していた 、 死の論理 だった。」

 戦陣訓の非情さを、こうした角度から解説されるのは、初めてなので、著者の言葉が正しいのか、偏った見方なのか、私は知らない。

 やがて著者の話は、次のような主張へつながっていく。
「摩文仁の丘の頂上には、自決した牛島司令官と、長参謀を祀った黎明の塔がある。」「ただ残念ながら、碑文の多くは、司令官の最後の命令にあった、」「 " 勇戦敢闘、悠久の大義に生きる " 式の、美文調だ。」「しかも、沖縄住民の犠牲については、触れていない。」

 「司令官が自決し、しかも生き残っているものは、」「生きている限り戦えと、言い残していったため、」「沖縄戦は、終わりのない戦いになってしまった。」

 著者は、当時の軍人が、いかに人命を軽んじ、住民の生きる権利さえ奪ったかと語る。
牛島司令官については知らないが、私は、大田中将については少し知っている。玉砕戦となる前に、大田中将は「沖縄県民かく戦えり」と、惜別の電文を大本営に送り、沖縄県民に対し、戦後の配慮を要望した。

 あるいは、硫黄島の栗林大将は、住民の安全を考え、玉砕戦の前に、彼らを疎開させている。学生に戦争を伝えるというのなら、牛島中将の非情さだけでなく、大田中将や栗林大将のことも語らなくて良いのだろうか。筆者は、何も知らない、未成年の生徒たちに向かって、自分に都合の良いことだけを伝えている・・。

 平成4年の出版だから、朝日新聞の慰安婦の捏造報道が、大手を振って闊歩していた時なので、著者が一方的な軍部批判を展開しても、無理ないと思いはするが、それにしても、次のような偏向は看過せない。

 「大事なことは、私たちの国が、このような悲惨な戦争を、」「二度と起こさぬという決意を、世界に明らかにすることだ。」「言葉によってでなく、具体的な行為によって、その決意を示すことが必要だ。」

 「つまり国が引き起こした戦争で、犠牲となり、被害を被った人に対しては、」「国の責任において、最大限の償い(補償)をするということだ。」「とても残念なことだが、私たちの国は、その償いをするのに、とても消極的だった。」「戦争中に、軍夫や慰安婦として、朝鮮半島から連行して来た人たちについては、」「およその数さえ分かっていない。」「あれほどひどい目にあわせながら、完全に無視、ないしは忘却してきたということだ。」

 米国の無差別爆撃による死者は33万人で、原爆による死者は広島で20万人、長崎で14万人だった。敗戦となった国に対し、遺族たちは国の補償を求めただろうか。

 同じ日本人と思ってきたが、沖縄はやはり別の国なのだろうか。本の著者の主張が、私にはまるで、韓国人の論調と重なって聞こえる。朝日新聞の慰安婦報道が、捏造と判明した今でも、著者たちは、こうした意見を持ち続けているのだろうか。

 沖縄の人々に、素朴な反感を持てなくなったのは、次の章を読んだからだ。
「本土と異なる沖縄の歴史」「薩摩・島津氏による琉球侵略」「薩摩・島津氏に支配された琉球」「琉球処分」。

 この部分には、沖縄の人々の怨念すら漂っている。日本から何をされても喜ばず、何もされなければ激怒し、そこはかとない郷愁を中国に寄せ、機会さえあれば、中国に庇護されたいと、そんな思いが伝わったきた。

 同じ国民と思えば腹立たしいが、日本の中にある異国だと知れば、沖縄の人々の思考が分からぬでもない。翁長知事だけでなく、政治家や実業家、教育者など、沖縄のリーダーたちの多くは、中国からの移住者を先祖に持っている。近年ますます国力をつけてきた中国に対し、彼らが親近感を持ち、その分だけ、日本から離反したがる様子も理解する。

 逆らう国民を弾圧し、異民族を虫けらのように蹴散らす、赤い中国への接近は、「自滅への選択」と言う者もいるが、沖縄県民の意思なら異を唱える立場にない私だ。政治家でない自分には、複雑な国際情勢の中で、今後沖縄がどうなっていくのか、さっぱり分からない。

 本は24年前の出版なので、現在は改訂版が出回っているのか、絶版となっているのか。調べる気はないが、調べる気になったことが一つだけある。この6人の執筆者たちは、どのような人たちなのだろうか、ということだ。

 仲地氏と国吉氏を除くと、他の四人は東京都、新潟県、佐賀県生まれの日本人だった。新崎氏は沖縄大学の学長で、目崎氏は琉球大学の助教授という経歴の持ち主だ。なんらかの形で沖縄の住民運動や平和活動にかかわっていると、分かった。こうした人たちは、日本人でありながら、国の悪口を言い、沖縄の住民と、政府の対立を煽っている。

 ことさら沖縄を被害者として語り、本土の日本人と、沖縄の住民との離反を作ろうとしている。こういう人物は、日本のために有害だし、沖縄のためにもならない。

 やはり、「獅子身中の虫」「駆除すべき害虫」と呼んで良いのではなかろうか。

 

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花のもの言う ー 四季のうた

2016-04-29 17:01:12 | 徒然の記
 久保田淳氏著「花のもの言う ー 四季のうた」( 昭和59年刊 新潮社) を読み終えた。
内扉の写真では若々しい氏だが、昭和8年生まれだから、存命であれば83才だ。中世日本文学を専門とする、東大の教授で、「和歌研究における業績はめざましい」と解説に書かれている。

 実際には4月2日、北方謙三氏の著作を読む前に読了したのだが、あの頃は気分が滅入っていたため、パソコンに向かえなかった。明日は九州へ行くから、長い空白を置くと感想を忘れてしまいそうで、急遽ブログにすることとした。
 
 和歌について少しは知っているつもりだったが、学者先生の本に向かうと、無知な自分をこれでもかと知らされる。万葉集でも、百人一首でも、勅撰和歌集でも、氏は当然のものとし説明なしに語る。不明な部分を、慌ててパソコンで調べるところから出発した。

 まず、「万葉集」だ。西暦783年に大伴家持の手によって完成されたもので、現存する日本最古の和歌集である。天皇、貴族、下級官人、防人など、様々な身分のものが詠んだ歌およそ4,500首が集められている。朧げに知っていても、いざ他人に説明するとなると咄嗟には出てこない。万葉の " 葉 " には、言葉という意味だけでなく、" 世 " の意もある。つまり万葉集は、万代の世に伝えるべき歌ということになるらしい。

 これだけで随分賢くなった気になるのに、次は「百人一首」だった。
今からおよそ730年前の、鎌倉時代の歌人藤原定家がまとめたもので、西暦668年に即位された天智天皇の時代から、 1210年の順徳天皇までの約550年間に読まれた歌より、年代順に100人の和歌を取り上げている。京都嵯峨の小倉山にある別荘で、定家が屏風に書き写したものであるところから、「小倉百人一首」とも呼ばれるようになった。

 そういうことかと感心させられたのに、まだ先があった。歌は全て次の10の勅撰和歌集から集められ、古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、全葉集、詩歌集、千載集、新古今集、新勅撰集、後新勅撰集、という具合だ。ならば、どうして百人一首に万葉集の歌があるのかと、賢い人ならきっと疑問を抱く。

 勅撰でない万葉の歌が、どうして定家に選ばれたのか。疑問を抱いても解けなかったのだから、私はそんなに賢くなかった。さすがに氏は専門家だ、答えをさりげなく本に書いていた。「万葉集の歌は、勅撰和歌集に取り上げられているものがある。」、つまり定家はその中から選別したということ。聞けば呆気ないけれども、知識がなければ謎のままだ。

 氏の著作を読む前の事前学習だったが、これほど準備をして手にした本は、今までになかった。内容は四章で構成され、一章ごとに春夏秋冬と、順に季節が割り振られている。それぞれの季節の句や古文が紹介され、氏の解説が添えられるという形式だ。

 われが名は 花盗人と立てば立て ただ一枝は折りて帰らむ

 大納言公任の山荘に、敦道親王が愛人の和泉式部を伴ってやってくる。主人が留守だったため桜を無断で一枝失敬し、家守に託した歌だという。この時代の歌は、掛言葉や縁語あるいは著名な元歌の引用など、沢山の知識が無いと分からないものが多い。貴族たちの知恵と技巧の競争みたいになっており、無知な者は参加すらできない。

 全てではないのだろうが、行ったこともない場所の季節を詠んだり、当意即妙の言葉遊びを楽しんだり、私は平安時代の和歌にあまり親近感が抱けない。高度な技法がなくても、素朴な読み人の気持ちがこもっている万葉の歌に惹かされる。

 からごろも 着つつ慣れにし 妻しあれば 
   はるばる来ぬる 旅をしぞおもう

 都を離れ友人たちと旅をする在原業平が、傍らに咲くかきつばたに心を動かされ、都に残してきた妻を思う歌だという。歌の頭の言葉を拾って読むと、「かきつばた」の文字が歌いこまれている。瞬時にこのような歌を詠むのが、貴族たちの才として評価されたのだが、こうした観念の遊びを私は好まない。

 防人に行くはたが背と問う人の 見るが羨しさ(ともしさ) もの思いもせず

 防人となり、遠隔の地へ行く夫を思い、妻が詠う万葉歌の方に、技巧がなくとも惹かされる。氏は専門家なので、どの歌も正しく評価するから、俗人の私には面白くない本になる。高校生の頃、古文の時間に和歌を習った時、干からびた年寄りの先生が、無味乾燥な説明で眠気を誘ってくれたことを思い出した。(他人事みたいに述べているが、今はその自分が干からびた年寄りの仲間になっているのだから、吹き出したくなる。)

 だが読み進むにつれ面白くなり、氏の人柄に惹かされていった。飾らない氏の率直さを示すため、文章をそのまま引用しよう。

  春の野に すみれ摘みにと来し吾そ 野をなつかしみひと夜寝にけむ    山部赤人

 「そんなに解釈上問題のある歌だと思わなかったのに、実はなぜ摘んだのかが、国学者によって議論されているのである。」「契沖は食用、鑑賞を兼ねてだろうという。」「橘千蔭は染料として摘んだのだという。」「すみれは女の比喩だという、人間くさい見方もあるらしい。」

 「しかし、ほとんど全ての人は、スミレ科スミレ属の草をさすことを疑っていない。」「ところが一人勇敢な人がいて、昔のすみれは今のすみれではないと主張したことがある。」「香川景樹である。」「マメ科のゲンゲ、すなわちレンゲの花だというのである。」


  草深み 荒れたる宿に言問えば 古き垣ほにすみれ摘むなり   伏見天皇御製集

  昔見し 妹が垣根は荒れにけり つばな混じりの菫のみして   藤原公実

 「ともかくこれら一連の作から、すみれは荒廃感、失われた昔の恋への連想を呼ぶ草となったらしい。」「これを毛氈を敷いたように賑やかに咲いて、やがては緑肥となるれんげだと主張する景樹という人は、歌というものをどう考えていたのか、ちょっと首をひねってしまう。」「景樹は、ただ常識に異を唱えてみたかったのだろうか。」「それともレンゲびいきでスミレ嫌いだったのだろうか。」

 学問より雑学の好きな私は、こうなってくると面白くてたまらない。難しい顔をした学者たちが、こんな話を真顔で議論しているなんて、思いもしなかった。干からびた老人であるどころか、元気いっぱいの愉快な先生たちでないか。

 難波潟 みじかき蘆のふしの間も あはでこの世をすぐしてよとや    伊勢

 「古代語における " 逢う " とは、 現代語 "逢う" のように、単に会うことを意味するにとどまらない。」「 " 契り合う " ことをも含めた語である。」氏の説明をもっとくだけて言えば、古語に言う逢うとは、男女が一夜を共にする意味が含まれているというのだ。

 氏の説明を読んでいると、万葉に限らず古代の歌は男女の関係が、あからさまに歌われているものが多い。中学生や高校生だった頃、古文の時間に先生がこんなことを教えるはずもないから、無味乾燥な説明になった訳だ。こうした歌は氏の説明によると、次のようになる。

 「蘆にせよ竹にせよ、イネ科の植物は、" 節 (よ) " と " 世 " または " 夜 " 、」「 " 節 " と " 伏し" 、" 根 " と " 寝 "の連想を起こさせる、なまめかしい存在である。」「この世における短い生の間、ずっと好きな人に寄り伏していたいと訴える、可愛い女の歌と読みたい気がする。」「いかにも従順で女らしい。」「これに屈しない男は、おそらく男ではないだろう。」
こんな解説をする氏に、限りない親しみを感じ、いつしか平安時代の歌の世界に誘われていく。

  秋風は すごく吹けども葛の葉の うらみがおには見えじとぞおもふ   新古今集 

 「夫に忘れられたのち、和泉式部が詠んだ歌である。」「葛の花を歌った名歌は、近代化人釈迢空まで待たねばならない。」
こう言って、氏は釈迢空の歌を紹介する。自分の大好きな歌が、こんなに高い評価を受けていたとは知らなかった。色恋のなまめかしさはないが、静寂さの漂う、しみじみとした味わいのある歌だ。

  葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を行きし人あり

 こうして引用していると、いくら述べても切りがない。わずか240ページばかりの本だが、日本の歴史と、その時代を生きた人々の思いが詰まっている。傍らにおいて、何度でも読み返したい本だ。読みたくなった方は、図書館で探されてはいかがだろうか。廃棄図書として無料で手に入れたのに、こんな素敵な本は人に貸したくないという、エゴのかたまりとなった自分である。作者である久保田氏の素敵な人柄が、きっとそうさせたに違いないと、氏への感謝の念が湧いてきた。


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