阿部次郎氏著「合本 三太郎の日記」(昭和24年刊 岩波書店)を、再読しました。学生時代に、古本屋で買った本です。老眼鏡無しでは読めない、小さな活字で印刷された、まさに古本です。表紙はもちろん、中のページも黄色く変色しています。642ページあり、読み終えるのに、ほとんど三週間かかりました。
氏は明治16年山形県に生まれ、東京大学哲学科を卒業し、昭和34年に76才で没しています。氏についてはこの著作以外には何も知りませんでしたが、ネットの情報によると哲学者、美学者、作家ということになっています。この書は、大正から昭和の初期にかけ、青春のバイブルとして有名になり、学生たちの必読書だったと言われています。
ですから、探究心に燃えた大学一年生だった私は、疑うこともなく購入いたしました。今では忘れられた古典となっていますが、私が学生の頃はまだ権威があり、俺はこんな本を読んでいるぞという、本棚の飾りにもなりました。大正7年に初版が出て以来、昭和18年までに30版が出され、昭和23年24年と改訂版が出版されていますから、確かに多くの青年たちに読まれていたのだと分かります。
内容そのものは面白くも何ともなく、よくこんな本を読み通したものと、若かった日の自分を懐かしみました。大学生一年生なので、私は18才でした。実生活は貧しくとも、精神の貴族でありたいとか、自主独立の人格を確立したいとか、今にして思えば、私の青春時代を形成した思考は、ほとんどが「三太郎の日記」によってもたらされていたのだと再発見しました。
氏が30代の時の著作だと聞きますので、18才の私にすれば、人生の大先輩の言葉になりますから、一つ一つの意見を、大事な教えとして受け止めていったのでしょう。自分が73才となり、76才で没した氏に近い年令になってみますと、違う感慨がありました。中身は、氏の思索と精神的苦悩を基調とした自己省察の記録ですから、今の私には別の捉え方がありますし、自我についても国家についても、違った見方をしております。
現在では世間から忘れられているとしても、氏はひとかどの学者であり、東北大学、慶応大学、日本女子大学の教授でもあったわけですから、対抗心などありませんが、同じ人間として、日本人として、自分が意見を述べても良いのではないかと、そんな気になっているのは事実です。率直な感想を、飾らずに言わせて貰えば、氏もまた、日本の文化や文明を低く見ている西洋崇拝者の一人だったということです。
学生時代の自分がそうでしたし、昔の日本人は漱石であれ、鴎外であれ、あるいは西周であれ内村鑑三であれ、日本国中、心のどこかで、西洋崇拝者でなかった者はいませんでしたから、これは決して阿部氏を軽蔑する物言いではありません。現在の私がした、再発見の一つとでもいうのでしょうか。
書き出しの50ページくらいのところで、氏が日本の住宅について不満を述べています。
「驟雨や強雨は障子を開けて眺めている間こそ豪爽であるが、読書思索労作のいずれに対しても、随分落ち着かぬ気分を誘いがちである。」「ことに灰色の雪の押しかぶさる日と、風のざわざわ騒ぐ日はたまらない。」「雨の強い日、風の激しい日は、雨戸を締めなければじっとしておれないのは、吾人の住む明治の住宅である。」
自分たちはまるで野に佇む乞食のように、自然の支配に身を任せなくてはならないと、氏は日本建築を酷評します。「外界の侵入、特に音響の侵入を防ぐために、理想の家は石造りでなければならぬ。」と断定し、さらに注文が並びます。「日本建築にあっては、外界からの独立が曖昧であったと同時に、各室の独立も甚だ不安であった。」「襖と障子とは、極めて信頼すべからざる障壁である。」
互いの部屋の音や話し声が遠慮なく行き交い、読書も思索も安眠も恋愛も、専念と集注と沈潜を奪われてしまう。だから思索者としての自分が理想とするのは、部屋には必ず次ぎの間があり、次ぎの間と廊下の間には重い扉があり、鍵がかかるようになっている建築である等々。室内の調度品から壁の色からカーテンの模様まで、うんざりするほどの叙述が続きます。要するに、氏が理想としているのは、西欧諸国の建築であり、室内装飾であるに他なりません。
こうした環境を得て、初めて魂の孤独と独立が保たれ、真の思索が可能になる。プラトン、ポーロ、オーガスチン、聖フランシス、スピノザ、カント、ゲーテ、ショーペンハワー、ニイチェ、ロダンたちとの真摯な対話も可能になると、氏の話が続きます。
「朝に行く雁の鳴く音は吾がごとく 物思へかも声の悲しき」。同じページで、氏は万葉集の歌を引用し、あっさりと切り捨てます。「この歌の思いは、明治の今日において、さらに歌い返すべき社会的必要のない歌であろう。」「万葉歌人の歌の内容をそのままに歌い返すことは、明治の歌人の恥辱であろう。」とまで言ってのけるのです。
氏の言に従えば、日本建築のみならず万葉の歌も、取るに足らない時代遅れの産物でしかありません。氏はこんな馬鹿な意見を述べていたのかと、今なら苦笑してしまいますが、当時の私はそのまま意見を受け止めるしかなかったようです。その証拠に、これ以後随分長く、氏に負けない西洋崇拝者の一人となっておりました。
プラトン、ポーロ、オーガスチン、聖フランシス、スピノザ、カント、ゲーテ、ショーペンハワー、ニイチェ、ロダンたちの著作が本棚に並び、どうしてこんな本を読んだのだろうと、昨年来の「断捨離」作業中に首を傾げましたが、氏に影響された結果だったのかと、これもまた50年ぶりの大発見でした。
ネットの情報ですが、氏は大正11年に、文部省の在外研究員としてヨーロッパへ留学し、同年に『人格主義』を発表しています。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く、いわゆる人格主義の主張です。
本を再読し、私が得た結論を、息子と孫たちには伝えたいと思います。
「この本は、642ページあるけれど、今日の日本人として読むべき意義のある部分は、480ページから526ページまでの、46ベージしかありません。」「 "思想上の民族主義" と "奉仕と服従" の二章だけです。」「達見としてでなく、こんな意見もあるのかと、その程度の内容です。」
青年時代の自分に、強い影響を与えてくれた本に、これほど冷厳な評をするにつきましては、心の痛みがあります。若き日の自分を否定することなのですから、平気であるわけではありません。
国際社会での力の支配、国益を振りかざす大国のエゴイズム等々、人類のある限り民族の争いは続きます。それなのに氏の認識は、人格の結合によって理想社会が生まれるというものです。いつになれば、世界の民族が、氏の言うような、対等な人格を持つ世界が到来するのでしょうか。日本人が真善美を追求する高潔さを有したからといって、中国の尖閣侵入や南京問題の捏造が改まるのでしょうか。虚偽報道の上に憎悪と敵対心を重ねた、韓国による慰安婦攻撃が鉾を収めるとでも言うのでしょうか。
熾烈な国際情勢を度外視した「人格主義」について、私は軽蔑すら覚えます。真善美を追求していけば、人は民族や国家には捉われなくなる。自分は「日本人」である以上に「世界人」であると、氏は述べております。真面目な思考が重ねられていますが、「日本人」や「国」についての主張が、このように軽薄なものだったと知った現在、私は阿部氏との決別を決めずにおれなくなりました。当時の学生にどれほど読まれ、人口に膾炙したとしましても、やはりたかだか三十代の青年の主張でしかありませんでした。
無分別にも、短慮にも、冷淡にも、万葉の歌を氏が切り捨てました。だから私も、同じ気持ちで氏の著作を切り捨てようと思います。氏の言葉が、そっくり使えます。
「この作者の思いは、平成の今日において、さらに読み返すべき社会的必要のないものであろう。」「大正時代の著作の内容を、そのままに思い返すことは、平成の若者の恥辱であろう。」