プロローグ
「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」 創世記 第十九章 十七節
昭和20年、敗戦の年。
夏、8月。
成尾勝平、北国民学校6年生。
栃木県神沼町の郊外。
日光例弊使街道(杉並木)をそれた森の奥。
玉藻の前の従者、九尾の落ち武者が住みついたという伝承のある尾形。
「森に逃げて」
声が聞こえてきた。
勝平の耳の奥に声が直接ひびいた。
おどろいた。
勝平の動悸がはやまる。
声の主をさがした。
どこから声はしているのだろう。
勝平はひそかに視線を草むらの周囲にめぐらす。
草むらには――。
明らかに、暴力によってひきちぎられた――。
野良着の切れ端が散乱していた。
そして女たちの死体。
憤怒の形相で死んでいた。
だからこそ、勝平は森深くわけいってしまったのだ。
羊歯におおわれた森の斜面を下った。
杉の倒木を避け、森の奥まできてしまったのだ。
なにか、異様なことが起きている。
残虐なことがおきたのだ。
人間の内臓が、肉片がいたるところに散らばっていた。
異臭が鼻をついた。
まるで……獣にくいあらされたような死体。
息をしているものは、だれもいない。
勝平はむせかえるような夏草のなかにはらばいになっていた。
けっして、幻聴などでない。
たしかに声はしている。
「なにぐずぐずしているの。はやく逃げて」
声が急きたてた。
声だけが頭にひびいている。
あまい、濃密な夏草の匂いがしている。
ひとの肉片、はらわたからも異臭がたちのぼっている。
声は母の貞子に似ている。
母であるわけがない。
母は家にいる。
この時刻だと、夕餉の支度をしている。
勝平は遠くまで遊びにきた。
遠すぎるくらいだ。
勝平は母の生まれたという尾形を見ておきたかった。
なにものかに誘われるようにふいに思い立った。
衝動といってもいい。
それでこの想像を絶する惨劇を目撃してしまったのだ。
いまからでは家につくころには暗くなっている。
声はさらに急きたてている。
危険なことが自分の身にも起ころうとしているのだ。
生命をおびやかすようなことが起ころうとしている。
危険をかんじた。
勝平はいわれたとおりの行動にうつる。
腹ばいになったまま後退りした。
伏せていた場所からだいぶ退いてからパッと立ち上がる。
この距離だったら兵隊にみつからないだろう。
すばやく、走りだした。
それにしても、目の前に展開していた虐殺の光景はあまりに異様だ。
兵隊が暴徒と化してを襲っていた。
母のうまれただ。
母の一族がひっそり住んでいるだ。
このことをはやく母にしらせなければ。
なぜ、いままでそれに気づかなかったのだろう。
ヒグラシのカナカナカナという哀しい鳴き声が聞こえてきた。
いままでだって鳴いていたはずだ。
目撃した情景の異常さが音を消していたのだ。
無音の世界。
風景は薄れて兵隊の獣の行為だけが目に焼きついた。
危なかった。
好奇心に負けて、体が前へ這いだしていた。
ブナやナラ、クヌギの雑木林の濃い緑がさわさわと揺れていた。
夏の暑かった一日が終わった。
終わったのは夏の日だけではなかった。
戦争が終わっていた。
紺碧の空に盛り上がっていた白い積乱雲もくずれかけていた。
濃紫色を帯びた雨雲になっていた。
北関東名物の雷雨になる。
稲妻が空のはてで光りだした。
周囲に岩壁の聳える岩山がある。
共鳴板で囲まれているようなものだ。
低地の町。
神沼。
雷鳴はこの世の終焉を告げるように凄まじくひびく。
空が暗い。
鬱蒼たる森に入った。
なにものかに追いかけられている。
そのものの形は見えない。
姿は見えない。
だが勝平は警告してくれた声にしたがった。
必死で逃げた。
戦争は終わった。
それなのに、まだここには死がある。
死の恐怖を秘めた妖風が下生えの草をゆらして迫ってくる。
逃げなければ。
逃げなければ、殺される。
男は上半身には軍服をきていた。
女はもう悲鳴をあげていなかった。
男にかかえあげられた足がひくひく動いていた。
まだ生きている。
男たちは怒声をあげて女を犯していた。
銃剣を女の体に突き立てた。
兵隊の歓喜の表情が見えるほどと勝平は近づきすぎていた。
勝平がさきほどまでいた場所に銃弾がうちこまれた。
「たしかにひとの気配がした」
ずんぐりとした男がいっているのが聞こえた。
「副谷軍曹。もう女はいいかげんにしろ。トラックでひきあげるぞ」
あれは聞き覚えのある井波少尉の声だった。
学校に駐屯している小隊長だ。
間一髪だった。
頭の中に直接はなしかけてくる声の命ずるままに。
森に逃げ込まなければ死んでいた。
銃弾にあたっていた。
だがいったいだれの声だったのか?
勝平はから逃げてきた幼い並子にあった。
そのとき理解した。
あの声はぼくにかけられものではなかった。
『逃げて』というあの声は、並子の母のものであった。
並子に呼びかける母の声だったのだ。
そして、あとになってしった。
その声のぬしは、ぼくの母の姉だった。
だからぼくにもきこえたのだ。
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「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」 創世記 第十九章 十七節
昭和20年、敗戦の年。
夏、8月。
成尾勝平、北国民学校6年生。
栃木県神沼町の郊外。
日光例弊使街道(杉並木)をそれた森の奥。
玉藻の前の従者、九尾の落ち武者が住みついたという伝承のある尾形。
「森に逃げて」
声が聞こえてきた。
勝平の耳の奥に声が直接ひびいた。
おどろいた。
勝平の動悸がはやまる。
声の主をさがした。
どこから声はしているのだろう。
勝平はひそかに視線を草むらの周囲にめぐらす。
草むらには――。
明らかに、暴力によってひきちぎられた――。
野良着の切れ端が散乱していた。
そして女たちの死体。
憤怒の形相で死んでいた。
だからこそ、勝平は森深くわけいってしまったのだ。
羊歯におおわれた森の斜面を下った。
杉の倒木を避け、森の奥まできてしまったのだ。
なにか、異様なことが起きている。
残虐なことがおきたのだ。
人間の内臓が、肉片がいたるところに散らばっていた。
異臭が鼻をついた。
まるで……獣にくいあらされたような死体。
息をしているものは、だれもいない。
勝平はむせかえるような夏草のなかにはらばいになっていた。
けっして、幻聴などでない。
たしかに声はしている。
「なにぐずぐずしているの。はやく逃げて」
声が急きたてた。
声だけが頭にひびいている。
あまい、濃密な夏草の匂いがしている。
ひとの肉片、はらわたからも異臭がたちのぼっている。
声は母の貞子に似ている。
母であるわけがない。
母は家にいる。
この時刻だと、夕餉の支度をしている。
勝平は遠くまで遊びにきた。
遠すぎるくらいだ。
勝平は母の生まれたという尾形を見ておきたかった。
なにものかに誘われるようにふいに思い立った。
衝動といってもいい。
それでこの想像を絶する惨劇を目撃してしまったのだ。
いまからでは家につくころには暗くなっている。
声はさらに急きたてている。
危険なことが自分の身にも起ころうとしているのだ。
生命をおびやかすようなことが起ころうとしている。
危険をかんじた。
勝平はいわれたとおりの行動にうつる。
腹ばいになったまま後退りした。
伏せていた場所からだいぶ退いてからパッと立ち上がる。
この距離だったら兵隊にみつからないだろう。
すばやく、走りだした。
それにしても、目の前に展開していた虐殺の光景はあまりに異様だ。
兵隊が暴徒と化してを襲っていた。
母のうまれただ。
母の一族がひっそり住んでいるだ。
このことをはやく母にしらせなければ。
なぜ、いままでそれに気づかなかったのだろう。
ヒグラシのカナカナカナという哀しい鳴き声が聞こえてきた。
いままでだって鳴いていたはずだ。
目撃した情景の異常さが音を消していたのだ。
無音の世界。
風景は薄れて兵隊の獣の行為だけが目に焼きついた。
危なかった。
好奇心に負けて、体が前へ這いだしていた。
ブナやナラ、クヌギの雑木林の濃い緑がさわさわと揺れていた。
夏の暑かった一日が終わった。
終わったのは夏の日だけではなかった。
戦争が終わっていた。
紺碧の空に盛り上がっていた白い積乱雲もくずれかけていた。
濃紫色を帯びた雨雲になっていた。
北関東名物の雷雨になる。
稲妻が空のはてで光りだした。
周囲に岩壁の聳える岩山がある。
共鳴板で囲まれているようなものだ。
低地の町。
神沼。
雷鳴はこの世の終焉を告げるように凄まじくひびく。
空が暗い。
鬱蒼たる森に入った。
なにものかに追いかけられている。
そのものの形は見えない。
姿は見えない。
だが勝平は警告してくれた声にしたがった。
必死で逃げた。
戦争は終わった。
それなのに、まだここには死がある。
死の恐怖を秘めた妖風が下生えの草をゆらして迫ってくる。
逃げなければ。
逃げなければ、殺される。
男は上半身には軍服をきていた。
女はもう悲鳴をあげていなかった。
男にかかえあげられた足がひくひく動いていた。
まだ生きている。
男たちは怒声をあげて女を犯していた。
銃剣を女の体に突き立てた。
兵隊の歓喜の表情が見えるほどと勝平は近づきすぎていた。
勝平がさきほどまでいた場所に銃弾がうちこまれた。
「たしかにひとの気配がした」
ずんぐりとした男がいっているのが聞こえた。
「副谷軍曹。もう女はいいかげんにしろ。トラックでひきあげるぞ」
あれは聞き覚えのある井波少尉の声だった。
学校に駐屯している小隊長だ。
間一髪だった。
頭の中に直接はなしかけてくる声の命ずるままに。
森に逃げ込まなければ死んでいた。
銃弾にあたっていた。
だがいったいだれの声だったのか?
勝平はから逃げてきた幼い並子にあった。
そのとき理解した。
あの声はぼくにかけられものではなかった。
『逃げて』というあの声は、並子の母のものであった。
並子に呼びかける母の声だったのだ。
そして、あとになってしった。
その声のぬしは、ぼくの母の姉だった。
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