第一章 イジメの対象 翔太(成尾勝平の孫)。平成12年春。
この役にたたない僕(しもべ)を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。 マタイ伝第25章 30節
1
「パパ」
誠がいつもの調子で「どうした」と採点中の答案から顔を上げた。
息子の翔太が勢いづいた。
「なにか用か」
塾生の未採点答案はまだ分厚く机の上につまれていた。
答案の山を机の端におしやる。
誠は息子のほうをふりかえった。
「おねがいがあるの」
「わかっている。パパにできることか」
「猫、飼っていいかな?」
一気に咳き込むようにいう。
「猫……?」
「もう、ひろってきて、家にいるの。ねえ、パパ、飼っていいでしょう」
猫。ねこ。ネコ。cat……。
誠の母の並子は決して猫を飼うことをゆるしてくれなかった。
猫がきらいなわけではなかった。
むしろ猫を愛しすぎていた。
だから、死の別れがくる。
いきものは必ず死ぬ。
それが……いやなのだといわれた。
たとえペットであっても、悲しすぎる別れを母はおそれていたのだ。
「ああ、猫か……」
猫、なつかしいひびきだった。
誠は母に内緒で近所の原っぱに小さな小屋をつくった。
そこで、野良猫を飼った経験がにわかによみがえった。
遠い昔に経験した猫へのやさしい感情が、
体のすみずみにひろがっていった。
反対する理由はない。
父が許してくれそうなので、翔太はうれしそうな笑顔になった。
うれしさを「ワァー」というはしゃぎ声で表現した。
誠の書斎の扉を閉めるのもわすれた。
翔太は玄関を飛び出した。
母屋の東側の物置の土間で誠を呼んでいる。
土の湿った匂いがしている。
いまはもう不要となり、積み重ねられた古い家具類。
それらの存在を曖昧なものとしている宵闇の片隅で……
白い靄のようにみえる箇所があった。
なにか蠢いていた。
翔太の動きに呼応するかのように白い靄がゆらめく。
猫の鳴き声がした。
クリネックス・テッシュの箱が置いてあった。
白いテッシュが辺りいちめんに散らばっていた。
さわやかな春の夜風がテッシュをゆらしていた。
辺りいちめんに白い牡丹の花が咲き乱れている。
子猫の鳴き声はその奥でした。
箱の中から翔太が子猫を抱き上げた。
子猫はおがくずだらけだった。
ブルッと猫が体をゆすった。
おがくずが散らばった。
白いテッシュの牡丹の上でかすかな音をたてた。
テッシュを翔太が箱からとりだしておいたのだろう。
それに子猫がジャレル。
あたりいちめんに白い花を咲かせたのだ。
「だって、オガクズを敷くのがいいんでしょう……パパ」
クワガタと混同している。
クワガタは、オガクズの寝床にもぐってやすむのがすきなのだよ。
と教えたのは誠だった。
「飼っていい、パパ、ね、いいでしょう」
褐色の虎ぶち、メス猫だ。
誠の手の中でふるえている。
「どうしてメス猫だってわかるの」
生物学的な説明を真面目にしてやる。
翔太にはわからない。
「つまり、チンボコとなるべきものが、ついていないのだ。
ここになにもないだろう」
翔太の目線まで手を下ろした。
子猫のまたの間をひろげてみせる。
具体的な父の指摘に息子はおどろいている。
チンボコ。
などという言葉が父の口からでたのが信じられないのだ。
子猫は手を広げても落ちないほど小さい。
おびえて、誠の顔を見上げたまま失禁してしまった。
父の手をぬらした尿を嗅いで、
「チョウ臭いね」と翔太はおどろきの声をあげた。
桜の花が満開になるころには翔太は小学校に入学する。
翔太が生徒として北小学校でのびのびと勉強できることを期待していた。
家族がみんないっしょに住んでいた。
春。
希望に満ちた春。
シュートが伸び薔薇のトゲは淡い紅色。
まだやわらかい。
やがて庭は新緑。
薔薇、インパチエンス、椿がまず咲き乱れる。
平成12年弥生の夕暮れどきだった。
春の夜風がほほにここちよかった。
翔太。
7歳の春のことだった。
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この役にたたない僕(しもべ)を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。 マタイ伝第25章 30節
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「パパ」
誠がいつもの調子で「どうした」と採点中の答案から顔を上げた。
息子の翔太が勢いづいた。
「なにか用か」
塾生の未採点答案はまだ分厚く机の上につまれていた。
答案の山を机の端におしやる。
誠は息子のほうをふりかえった。
「おねがいがあるの」
「わかっている。パパにできることか」
「猫、飼っていいかな?」
一気に咳き込むようにいう。
「猫……?」
「もう、ひろってきて、家にいるの。ねえ、パパ、飼っていいでしょう」
猫。ねこ。ネコ。cat……。
誠の母の並子は決して猫を飼うことをゆるしてくれなかった。
猫がきらいなわけではなかった。
むしろ猫を愛しすぎていた。
だから、死の別れがくる。
いきものは必ず死ぬ。
それが……いやなのだといわれた。
たとえペットであっても、悲しすぎる別れを母はおそれていたのだ。
「ああ、猫か……」
猫、なつかしいひびきだった。
誠は母に内緒で近所の原っぱに小さな小屋をつくった。
そこで、野良猫を飼った経験がにわかによみがえった。
遠い昔に経験した猫へのやさしい感情が、
体のすみずみにひろがっていった。
反対する理由はない。
父が許してくれそうなので、翔太はうれしそうな笑顔になった。
うれしさを「ワァー」というはしゃぎ声で表現した。
誠の書斎の扉を閉めるのもわすれた。
翔太は玄関を飛び出した。
母屋の東側の物置の土間で誠を呼んでいる。
土の湿った匂いがしている。
いまはもう不要となり、積み重ねられた古い家具類。
それらの存在を曖昧なものとしている宵闇の片隅で……
白い靄のようにみえる箇所があった。
なにか蠢いていた。
翔太の動きに呼応するかのように白い靄がゆらめく。
猫の鳴き声がした。
クリネックス・テッシュの箱が置いてあった。
白いテッシュが辺りいちめんに散らばっていた。
さわやかな春の夜風がテッシュをゆらしていた。
辺りいちめんに白い牡丹の花が咲き乱れている。
子猫の鳴き声はその奥でした。
箱の中から翔太が子猫を抱き上げた。
子猫はおがくずだらけだった。
ブルッと猫が体をゆすった。
おがくずが散らばった。
白いテッシュの牡丹の上でかすかな音をたてた。
テッシュを翔太が箱からとりだしておいたのだろう。
それに子猫がジャレル。
あたりいちめんに白い花を咲かせたのだ。
「だって、オガクズを敷くのがいいんでしょう……パパ」
クワガタと混同している。
クワガタは、オガクズの寝床にもぐってやすむのがすきなのだよ。
と教えたのは誠だった。
「飼っていい、パパ、ね、いいでしょう」
褐色の虎ぶち、メス猫だ。
誠の手の中でふるえている。
「どうしてメス猫だってわかるの」
生物学的な説明を真面目にしてやる。
翔太にはわからない。
「つまり、チンボコとなるべきものが、ついていないのだ。
ここになにもないだろう」
翔太の目線まで手を下ろした。
子猫のまたの間をひろげてみせる。
具体的な父の指摘に息子はおどろいている。
チンボコ。
などという言葉が父の口からでたのが信じられないのだ。
子猫は手を広げても落ちないほど小さい。
おびえて、誠の顔を見上げたまま失禁してしまった。
父の手をぬらした尿を嗅いで、
「チョウ臭いね」と翔太はおどろきの声をあげた。
桜の花が満開になるころには翔太は小学校に入学する。
翔太が生徒として北小学校でのびのびと勉強できることを期待していた。
家族がみんないっしょに住んでいた。
春。
希望に満ちた春。
シュートが伸び薔薇のトゲは淡い紅色。
まだやわらかい。
やがて庭は新緑。
薔薇、インパチエンス、椿がまず咲き乱れる。
平成12年弥生の夕暮れどきだった。
春の夜風がほほにここちよかった。
翔太。
7歳の春のことだった。
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