ゲーム世界の住人
私は洗面台の前で眠い目をこすりながら歯を磨いている。歯ブラシを深く差し込みすぎてえずく。再び歯を磨く。鼻毛の具合を確かめてトリミング用の小さなハサミを取り出した。二、三度刃を動かす。
現実の私は歯を磨いてはいない。私はゴーグルを装着して、モニターの前に座っている。身体には無数の線がつながっている。リアルタイムでの身体の動きがモニター上に反映される。私は首筋をボリボリかいた。その演技がゲーム世界のキャラクターに反映される。いかにリアルに日常生活を電子世界で営むか。リアルであればあるほど観客からおひねりとして電子マネーが動く。新しい職業として認知されつつあった。
うがいをすませて、歯磨きの演技を終えた私はクローゼットの前へ移動した。扉を開けるとそこに見知らぬ女が立っていた。私は悲鳴を上げた。
何が起こっているのか、私は瞬時に理解した。運営サイドの演出が発動したのだ。他の演技者を強制的に不思議な状況に放り込む。その状況を不自然なく演じきる即興劇をこの女と共に成立させる必要があった。
「ここは私の部屋のクローゼットですが、どうかされましたか」私は棒立ちの女に声をかける。
「………」
女は何の反応も示さず無視する。
「大丈夫ですか」
(演技してくれないと困る)私は観客には聞こえないダイレクトメールで直接相手の演技者に問いかけた。それでも女は動かない。私は焦った。反応の無い女に見切りをつけた私は、出張用のキャリアーに女を乗せて室外に運び出した。
「念のため今から警察を呼びます。あなたはそこにいればいい」
私は玄関ドアを閉めて施錠した。ドアスコープで廊下の様子をうかがう。女はあいかわらず直立のまま廊下に立っていた。
(あの女どういうつもりだ。何が正解だったんだ。どうすればよかったのだ)私は自問自答した。
その頃、動かないキャラクターの女を演じている現実背世界の女は机につっぷしていた。ぴくりとも動かない。
女の背中には包丁がつきささっている。女は動かない。身体は冷たくなっている。血が足下に広がっている。動かなくなってどれくらいの時間がたっているのか。それは誰にも分からなかった。そのことは包丁を突き立てた人物だけが知っているだろう。