(01)
① ゴジラ=濁音+濁音+ラ。
② コシラ=清音+清音+ラ。
然るに、
(02)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ゴジラ=濁音+濁音+ラ。
② コシラ=清音+清音+ラ。
に於いて、
① の方が、② よりも、「大きくて、力強い」。
従って、
(03)により、
(04)
① 私が=私+濁音。
② 私は=私+清音。
に於いて、
① は、② に対する、「心理的な音量差」による、「強調形」である。
然るに、
(05)
Ego te laudo,tu me non laudas.
ここで ego(私が)といい、tu(お前が)というのは、特に「自分だ、と誉めるのは自分だ」と強調したからであり、また、一方 ego 一方 tu と対象させたからである。
(村松正俊、ラテン語四週間、1951年、182頁)
cf.
laudo=I praise.
であるため、
Ego laudo. と言へば、「I(私)」を「2回」言ってゐることになり、そのため、
Ego laudo. と言へば、「I(私)」を「強調」してゐることになる。
従って、
(05)により、
(06)
① I praise(te laudo).
に於いて、
① I を「強調」すると、
① 私以外は褒めない。
といふ「命題」、すなはち、「排他的命題(Exclusive proposition)」になる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「強調形」は、「排他的命題(A以外はBでない。)」を、「主張」する。
然るに、
(04)により、
(08)
① 私が(濁音)大野です。
② 私は(清音)大野です。
に於いて、
① の「主語」 は、
② の「主語」 に対する、「心理的な音量差」による、「強調形」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② 私は(清音)大野です。
に対する、
① 私が(濁音)大野です。
といふ「日本語」は、
① 私以外は大野ではない。
といふ「意味(排他的命題)」になる。
然るに、
(10)
(a)
1 (1) 私→大野 A
2 (2) 私 A
3(3) ~大野 A
12 (4) 大野 12MPP
123(5)~大野&大野 34&I
1 3(6)~私 25RAA
1 (7)~大野→~私 37CP
1 (〃)大野でないならば、私ではない。
(b)
1 (1)~大野→~私 A
2 (2)~大野 A
3(3) 私 A
12 (4) ~私 12MPP
123(5) 私& ~私 34&I
1 3(6)~~大野 25RAA
1 3(7) 大野 6DN
1 (8) 私→大野 37CP
1 (〃)私ならば大野である。
従って、
(10)により、
(11)
① 私以外は大野ではない。
の「対偶」は、
① 大野は私である。
であって、
① 大野は私である。
の「対偶」は。
① 私以外は大野ではない。
である。
然るに、
(12)
デジタル大辞泉の解説
たい‐ぐう【対偶】
3 論理学で、「pならばqである」に対して、仮定および結論を否定し同時に両者を逆にした「qでなければpでない」という形の命題。原命題が真ならば、その対偶も必ず真となる。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 私以外は大野ではない。
の「対偶」は、
① 大野は私である。
であって、尚且つ、「対偶」は「等しい」。
従って、
(09)~(13)により、
(14)
① 私が大野です。 といふ「命題」 は、
① 私以外は大野ではない。といふ「排他的命題」に「等しく」、
① 私以外は大野ではない。といふ「排他的命題」は、
① 大野は私です。 といふ「逆命題」 に「等しい」。
従って、
(14)により、
(15)
① 私が大野です。
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではありません。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(16)
(3)
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
大野さんはどちらですか。
私が大野です。
それゆえ(未知と既知の故に)この形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる。
といふ、わけではない。
然るに、
(15)により、
(18)
① 象がゐる。
② ゐるのは象である。
③ 象以外はゐない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(19)
① 地球上には、象以外に、人間もゐるし、犬もゐるし、馬もゐるし、鳥もゐるし、魚もゐるし、・・・・・・。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① 象がゐる。
② ゐるのは象である。
③ 象以外はゐない。
といふのであれば、必然的に、
①(今、目の前に)象がゐる。
②(今、目の前に)ゐるのは象である。
③(今、目の前に)象以外はゐない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)により、
(21)
① 象が哺乳類である。
② 哺乳類は象である。
③ 象以外は哺乳類ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(22)
① 地球上には、哺乳類として、象以外に、人間もゐるし、犬もゐるし、馬もゐるし、・・・・・・。
従って、
(21)(22)により、
(23)
① ゾウ(象)は、哺乳綱ゾウ目(長鼻目)ゾウ科の総称である[2][3](ウィキペディア)。
といふことを、言ひたいのであれば、
① 象が哺乳類である。
とは言はずに、
① 象は哺乳類である。
といふ風に、言はなければ、ならない。
然るに、
(24)
その一方で、
①(今、目の前に)象がゐる。象は鼻が長いなァ。
と言ふことも、可能である。
然るに、
(25)
①(今、目の前に)象がゐる。象は鼻が長いなァ。
と言ふ場合は、
①(今、目の前に)ゐる任意の象。
に関する「性質」を、
① すべての象。
に対して、「当て嵌めてゐる」と、すべきである。
然るに、
(26)
「UI(普遍量記号導入の規則)」に対する根拠でづけは、ある制限をふして、任意に選ばれた対象がある性質をもつことが示されうるならば、すべてのものはその性質をもたねばならないということである。
E.J.レモン、 竹尾治一郎・ 浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、136頁)
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
①(今、目の前に)ゐる象。
に関する「性質」を、
① すべての象。
に対して、「当て嵌めてゐる」と、するならば、
①(今、目の前に)象がゐる。象は鼻が長いなァ。
といふ「言ひ方」は、
①「UI(普遍量記号導入の規則)」の具体例。
である。
従って、
(23)(27)により、
(28)
① 象は哺乳類である。
② 象は鼻が長い。
に於ける、
① 象は は、「百科事典的な意味」での、「象は」であって、
② 象は も、「百科事典的な意味」での、「象は」である。はずである。
然るに、
(15)により、
(29)
① 鼻が長い。
② 長いのは鼻である。
③ 鼻以外は長くない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(28)(29)により、
(30)
① 象は鼻が長い。
② 象で、長いのは鼻である。
③ 象は、鼻以外は長くない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(31)
① 象は鼻が長い。
といふのであれば、
① 象の鼻は長い。
従って、
(30)(31)により、
(32)
① 象は鼻が長い。
② 象は鼻は長く、長いのは鼻である。
③ 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(32)により、
(33)
② と ③ を、「述語論理」で書くならば、
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z( 長z →鼻zx)}
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(34)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z( 長z →鼻zx)}
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
に於ける、
② ∀z( 長z →鼻zx)}
③ ∀z(~鼻zx→~長z)}
に関しては、「対偶」である。
従って、
(12)(34)により、
(35)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z( 長z →鼻zx)}
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
すなはち、
② すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であり、yは長く、すべてのzについて、zが長い ならば、zはxの鼻である。
③ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であり、yは長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
に於いて、たしかに、
②=③ である。
従って、
(32)~(35)により、
(36)
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z( 長z →鼻zx)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(32)(35)により、
(37)
③ 鼻以外は長くない = ∀z(~鼻zx→~長z)
であるため、
④ 鼻以外は長くない。といふことはない=~∀z(~鼻zx→~長z)
然るに、
(38)
(ⅰ)
1 (1)~∀z(~鼻zx→ ~長z) A
1 (2)∃x~(~鼻zx→ ~長z) 1量化子の関係
3(3) ~(~鼻ax→ ~長a) A
3(4) ~( 鼻ax∨ ~長a) 3含意の定義
3(5) ~鼻ax&~~長a 4ド・モルガンの法則
3(6) ~鼻ax& 長a 5DN
3(7) ∃z(~鼻zx& 長z) 6EI
1 (8) ∃z(~鼻zx& 長z) 237EE
(ⅱ)
1 (1) ∃z(~鼻zx& 長z) A
2(2) ~鼻ax& 長a A
2(3) ~~(~鼻ax& 長a) 2DN
2(4) ~(~~鼻ax∨ ~長a) 3ド・モルガンの法則
2(5) ~(~鼻ax→ ~長a) 4含意の定義
2(6)∃x~(~鼻ax→ ~長a) 5EI
1 (7)∃x~(~鼻ax→ ~長a) 126EE
1 (8)~∀z(~鼻zx→ ~長z) 7量化子の関係
従って、
(38)により、
(39)
(ⅰ)~∀z(~鼻zx→~長z)
(ⅱ) ∃z(~鼻zx& 長z)
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
従って、
(39)により、
(40)
(ⅰ)すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。といふわけではない。
(ⅱ)あるzは、xの鼻ではないが、zは長い。
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
然るに、
(41)
④ 鼻以外は長くない。といふことはない。
といふことは、
④ 鼻以外も長い=鼻も長い。
といふことに、他ならない。
従って、
(36)~(41)により、
(42)
④ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&~∀z(~鼻zx→~長z)}。
⑤ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∃z(~鼻zx& 長z)}。
に於いて、
④=⑤ である。
従って、
(36)(42)により、
(43)
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z( 長z →鼻zx)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}。
④ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&~∀z(~鼻zx→~長z)}。
⑤ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∃z(~鼻zx& 長z)}。
に於いて、
②=③ であって、
④=⑤ であるが、
②=④ ではなく、尚且つ、
②と④ は、
② ∀z(~鼻zx→~長z)}&
④ ~∀z(~鼻zx→~長z)} に於いて、「矛盾」する。
然るに、
(44)
① 私は、あなたは、好きです。
といふのであれば、
① あなた以外は好きではない。のか、
① あなた以外も好きである。 のかが、分からない。
従って、
(44)により、
(45)
① 象は鼻は長い。
といふのであれば、
① 象は、鼻以外は長くない。のか、
① 象は、鼻以外も長い。 のかが、分からない。
従って、
(43)(44)(45)により、
(46)
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z( 長z →鼻zx)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}。
④ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&~∀z(~鼻zx→~長z)}。
⑤ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∃z(~鼻zx& 長z)}。
に於いて、
① と「②と③」は、「矛盾」せず、
① と「④と⑤」も、「矛盾」しない。
従って、
(01)~(46)により、
(47)
① 鼻は=鼻+は(清音)。
② 鼻が=鼻+が(濁音)。
に於いて、
① に対する、② が、「心理的な音量差」による、「強調形」である。が故に、
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z( 長z →鼻zx)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}。
④ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&~∀z(~鼻zx→~長z)}。
⑤ 象は鼻も長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∃z(~鼻zx& 長z)}。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(48)
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z( 長z →鼻zx)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於ける、「右辺」を見れば分かる通り、
① 象は鼻は長い。 といふ「日本語」は、
② 象は鼻が長い。 といふ「日本語」よりも、「情報量」が「少ない」。
従って、
(48)により、
(49)
実際に、
② 象は、鼻以外は長くない=∀z( 長z →鼻zx)
③ 象は、鼻以外は長くない=∀z(~鼻zx→~長z)
といふのであれば、
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z( 長z →鼻zx)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ風に、言ふべきであって、
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ風に、言ふべきではない。
然るに、
(50)
「象は鼻が長い」という例文
三上章は『象は鼻が長い』という本を書いて、日本語には主語がないと主張しました。「象は鼻が長い」という文の「象は」というのは主語ではなく、主題なのだという主張でした。助詞「は」がつく語は主題になります。「は」は文の区切りになるようです。「象は鼻が長い」の「象は」という主題は、「象についていうと」という意味になります。「象は」のあとに主題についての解説が続くというのが、この文の構造のようです。解説ですから、「象は」と関係があるものならよくて、論理性は問題になりません。
(投稿日: 2017年2月8日 作成者: 丸山有彦)
然るに、
(51)
「論理性は問題になりません」といふ場合の、「論理性」といふ「意味」が、私には、分からない。
然るに、
(52)
③ 象は鼻が長い ⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}⇔
③ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であり、yは長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
然るに、
(53)
③ すべてのxについて、xが象であるならば、
といふことは、
③ すべての象について、
といふ、ことである。
従って、
(52)(53)により、
(54)
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いても、
③ 象は は、「象についていうと」といふ「意味」である。
従って、
(50)(54)により、
(55)
「象についていうと」に於ける、「象」を「主題」と呼ぶならば、「象は」はたしかに、「主題」である。
然るに、
(56)
「象は」を、「主題」と呼ぶのであれば、
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「日本語」には、
① 象は
① 鼻は
といふ、「二つの主題」が有ることになるのであるが、普通は、「主題」は、「一つの文に、一つしか無い」と思はれる。
然るに、
(57)
「象は鼻が長い」という文が大正年間から専門家を悩ませていた。「象は」も主語、「鼻が」も主語。ひとつのセンテンスに二つも主語があってはならない。しかし、この表現は誤りではない。どう説明、合理化したらよいか、というのである。うまく解決する方法は見つからなかった。戦後になって三上章という人がおもしろい説を出した。「象は」は主語ではなくて主題である。「鼻が長い」は主語と述語だというので、これなら二重主語でなくなる。主題というのは、〝 についていえば〝 のように範囲を示す、いわば副詞のようなものだと考える。副詞なら主語になれない(外山滋比古、象は鼻が長い - TranNet New Column)。
従って、
(47)(56)(57)により、
(58)
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
③ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於ける、
①「二重主題」を「問題」にせずに、
②「二重主語」を「問題」にするのは、ヲカシイ。
然るに、
(59)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(60)
(ⅰ)論理式または命題関数において、量記号が現れる任意の箇所の作用範囲は、問題になっている変数が現れる少なくとも2つの箇所を含むであろう(その1つの箇所は量記号そのもののなかにある);
(ⅱ)論理式または命題関数において、量記号が現れる任意の箇所の作用範囲は、同じ変数を用いたいかなる他の量記号も含まないであろう。
(論理学初歩、E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、183頁)
従って、
(58)(59)(60)により、
(60)
要するに、
(ⅰ)∀xのxが、「すべての括弧の中」に在るため、
③ 象は鼻が長い ⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)& ∀z(~鼻zx→~長z)}⇔
③ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であり、yは長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
に於いて、
③ 象は
③ ∀x{象x→
③ すべてのxについて、xが象であるならば、
といふ「意味」は、「文末」にまで、「及んでゐる」。
従って、
(50)(61)により、
(62)
「象は」が「主語」であらうと、
「象は」が「主題」であらうと、
「象は」のあとに「象」についての解説が続くというのが、この文の構造のようです。
といふのは、「正しい」。
然るに、
(63)
主語や目的語や補語、これだけは自分で考えるクセを付けて下さい。学校の先生がこれまた、考えなくとも、どんどん入れて訳してくれるんです。古文はよく、省かれているんですね。誰が、誰を、誰に、みたいなものが、日本語はよく省略されているんですけど、先生がどんどん補って下さる。で皆さんは何でその主語になるのかよくわかんないまま、またノートに、訳のところに、一生懸命、書いて覚えて、テストを受けてる。さっきも言いました。自力です。「自力で補足するです。」入試のときそばで誰も助けてくれないからですね。で実は、これが皆さんを古文嫌いにさせている、つまり、せっかく、訳ができた。単語を覚えて、Aさんがしてることを、Bさんがしたと勘違いして、変え~んな、文章にしちゃったことないですかあ。ワタシは模擬試験の時にですねえ、よく、ストーリーは、ある程度わかったのに、「やったひととやられた人を勘違い」して、もう途中で「大混乱」してですね。七行目ぐらいまで頑張って読んだのに、もう「まんなか辺」で、プチッと切れて、もうええいいや、ワケわかんなくなっちゃたといって、「放り出す」ことがよくありますけども、これ(主語・目的語・補語)を自分で意識すると、「こうやって考えながらやるんだな」って意識すると、かなり読みやすくなるんです(東進ハイスクール 荻野文子先生 - YouTube)。
といふことは、「本当」である。
従って、
(50)(57)(63)により。
(64)
三上章先生が、「日本語には、主語は無い。」と言はれようと、言はれまいと、「古文・漢文」を読解するためには、「主語」といふ「用語」を、無くすわけには、いかないはずである。