歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

プロファイラー「諸葛亮孔明」を見て思う。岡田!お前は何も知らない。

2014年10月29日 21時50分00秒 | 日記

白帝城で死んだ劉備玄徳の死因はなんでしょうか?

岡田君!答えられるかな?

回答:「下痢」正確に言うと老人性下痢に因る電解質バランスの破壊による衰弱

と言うのが本当だろう。ワッキーも知らなかっただろう。

この劉備玄徳の死んだ「夷稜の戦い」は何故起きたのか?

それは劉備が領主となった「赤壁の戦い」に端を発する。

これが「魯粛」による「劉備勢力の育成」となる「旧劉表勢力糾合」と「蜀占領」、その後蜀呉両面戦略と言う「内諾」の成立だった。

実は三国鼎立は孔明よりも魯粛の方が考えており、それを実現できる立場だったのは魯宿の方だった。

岡田君とは、その点で話したいね。

三国志演戯の延長線上の横山三国志では、そのレベルを超えていない。植村氏の「諸葛亮孔明」を先ず読むことをお勧めする。また「三国志の迷宮」ともに文庫だが、この三国志が一番正鵠を射ている。

三国志の本は大体同じイメージを持たせるが、植村氏の「諸葛亮孔明」や「三国志の迷宮」は異なる形を見せる。

植村氏は「古代国家としての蜀」を、「迷宮」は文治独裁の孔明治世とをである。

私は、その中で、散見される「郷土主義」を主張する。

「夷稜の戦い」は諸葛亮と魯粛の蜜月関係が維持したが魯粛が死亡した後、呂蒙の登場で方針が変更してすぐ関羽が討たれた。

関羽の武勇は否定しないが、当時の老いた関羽は、呂蒙による秘密部隊による襲撃に簡単にやられたのである。

元々、劉備に荊州を与える事も孫権にとって嫌な事だったが、その後蜀を取ってから…返却するという約束も、内部事情で半ば反古にされた。

何故か?先ず劉備戦力の多くは蜀討伐では主戦力は「荊州兵」だったのだ。そして、彼らは劉備に信服している。だから劉備に蜀が取られたから、皆さん蜀に行きましょう!とは行かなかったのだ。

また、荊州という、蜀との独立国家が色々意味を持った。

先ず、蜀討伐の司令官;法正の乱行。

法正、は張松や孟達の友人で、劉備派だった。劉備を呼び込んでクーデターを起こす計画を立てたのだ。

この後、張松は謀反が漏れて斬首、そして、孟達は劉備にしたがって戦ったが、法正は劉備玄徳の副官だった。いやの龐統の副官だった。

法正は、龐統の漂浪趣味を使って暗殺に成功。その後軍師の重役を手にした。その後、諸葛亮孔明の文治政治は、法正の軍事成果に弱含みとなるのだが、その後法正の劉鴛時代の怨みつらみで、蜀の高官を恐喝した。その問題で、蜀の高官の逃げ出す場所として荊州は不可欠だった。また、その後荊州から法正を殺す動きが出て、三国志には出てこない暗殺劇があったのだ。

だが、そのタイミングで魯粛が死亡した、その後、関羽が荊州返却に応じなかった事、そして、呂蒙が荊州を奪い、劉備の主導戦力の荊州兵の望郷の思い、それが夷稜の戦いとなった。

最初、領土確保が出来たら、、先ず最初に魏を狙うのが申し合わせだった。だが呂蒙が出てきて、計画が根底から変わり、そして、呉と蜀が戦う事となり、三国志はほぼ終了しだのだ。

色々あるが、テレビの程度の知能なら分かるのには、暫くかかる!???


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