白帝城で死んだ劉備玄徳の死因はなんでしょうか?
岡田君!答えられるかな?
回答:「下痢」正確に言うと老人性下痢に因る電解質バランスの破壊による衰弱
と言うのが本当だろう。ワッキーも知らなかっただろう。
この劉備玄徳の死んだ「夷稜の戦い」は何故起きたのか?
それは劉備が領主となった「赤壁の戦い」に端を発する。
これが「魯粛」による「劉備勢力の育成」となる「旧劉表勢力糾合」と「蜀占領」、その後蜀呉両面戦略と言う「内諾」の成立だった。
実は三国鼎立は孔明よりも魯粛の方が考えており、それを実現できる立場だったのは魯宿の方だった。
岡田君とは、その点で話したいね。
三国志演戯の延長線上の横山三国志では、そのレベルを超えていない。植村氏の「諸葛亮孔明」を先ず読むことをお勧めする。また「三国志の迷宮」ともに文庫だが、この三国志が一番正鵠を射ている。
三国志の本は大体同じイメージを持たせるが、植村氏の「諸葛亮孔明」や「三国志の迷宮」は異なる形を見せる。
植村氏は「古代国家としての蜀」を、「迷宮」は文治独裁の孔明治世とをである。
私は、その中で、散見される「郷土主義」を主張する。
「夷稜の戦い」は諸葛亮と魯粛の蜜月関係が維持したが魯粛が死亡した後、呂蒙の登場で方針が変更してすぐ関羽が討たれた。
関羽の武勇は否定しないが、当時の老いた関羽は、呂蒙による秘密部隊による襲撃に簡単にやられたのである。
元々、劉備に荊州を与える事も孫権にとって嫌な事だったが、その後蜀を取ってから…返却するという約束も、内部事情で半ば反古にされた。
何故か?先ず劉備戦力の多くは蜀討伐では主戦力は「荊州兵」だったのだ。そして、彼らは劉備に信服している。だから劉備に蜀が取られたから、皆さん蜀に行きましょう!とは行かなかったのだ。
また、荊州という、蜀との独立国家が色々意味を持った。
先ず、蜀討伐の司令官;法正の乱行。
法正、は張松や孟達の友人で、劉備派だった。劉備を呼び込んでクーデターを起こす計画を立てたのだ。
この後、張松は謀反が漏れて斬首、そして、孟達は劉備にしたがって戦ったが、法正は劉備玄徳の副官だった。いやの龐統の副官だった。
法正は、龐統の漂浪趣味を使って暗殺に成功。その後軍師の重役を手にした。その後、諸葛亮孔明の文治政治は、法正の軍事成果に弱含みとなるのだが、その後法正の劉鴛時代の怨みつらみで、蜀の高官を恐喝した。その問題で、蜀の高官の逃げ出す場所として荊州は不可欠だった。また、その後荊州から法正を殺す動きが出て、三国志には出てこない暗殺劇があったのだ。
だが、そのタイミングで魯粛が死亡した、その後、関羽が荊州返却に応じなかった事、そして、呂蒙が荊州を奪い、劉備の主導戦力の荊州兵の望郷の思い、それが夷稜の戦いとなった。
最初、領土確保が出来たら、、先ず最初に魏を狙うのが申し合わせだった。だが呂蒙が出てきて、計画が根底から変わり、そして、呉と蜀が戦う事となり、三国志はほぼ終了しだのだ。
色々あるが、テレビの程度の知能なら分かるのには、暫くかかる!???
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