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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

鍋の限界

2014年02月06日 00時17分06秒 | 日記

母親が入院して食事の手配をするのにシチューを先ず作ったのだが、次には?またトマト鍋?となると嫌になった。

私の中の海原雄山が雄叫びを上げる。

「料理人としての創造性がかけている!お前たちは今の料理を既存のものとしてよいと思い込んでいるのか?そこには伝統にしがみつく古い馬鹿の権威主義が残っているだけだ!料理人は腕自慢、素材自慢ではない!食材をほれ込み、その味の本質を引き出す事こそ料理の妙味である。」

とは言われても、私は鍋の塩・シチュー的なベシャメル・豆乳・味噌・唐辛子・酢・白湯・トマト・単なる茹で・カレー・醤油ぐらいしかない。

何よりも嫌なのは色みである。トマト・唐辛子の赤に対して白の強さが無い。カレーは強さがあるが、白は、時雨鍋とか、豆乳とか、オカラとかの弱いものだ。

色みのある、鍋を探していると、海苔鍋と言うものがあった。これは望む栄養と色みのあるものであるといえるのでは?と思う。

赤・白に対して黄色=カレーとなれば、後は青=海苔、緑=葉物野菜となるだろう。緑は「ずんだ」の可能性もあるが、それは味噌や豆乳と同じレベルとなる。

画期的で目新しい色と味と栄養があるのだろうか?と思う。

私の望むものはパンチのある緑の鍋である。

パンチと言うと辛い鍋となるその意味で緑は辛い青唐辛子でありえる。だが辛いだけで終わらない。辛みそか?いや辛い唐辛子を受け止める大豆の何か?そうなるとずんだだ。そして、若干、豆乳を入れる。それはちょっと禁じ手か?

何かコクが足りないな?緑のコクとは何なのか?

こうやって思っていると、料理は味の複合か?それとも色みの複合性か?と思う。

とりあえず私は緑の鍋を追い求める。今甘い・酸っぱいと言うイメージも出ている。カレーも甘い・酸っぱいがない。

こうやって味を香りを探すのも「古臭い人類の轍」を踏んでいるようで、まぁ死にぞこないに向いているなと思う。人類のためと言うより姪の為にやりたいな。

でも姪は偏食です。

神様、ちょっち勘弁!


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