記事・・・ながいでふ。
今回旅の目的は・・
➀とにかく沖縄の空気が吸いたい。
②コロナ下、那覇の街は?行きつけの店は?生き延びているだろうか?を確かめる。
➂一体沖縄は、本土からの客にどのような思いでいるか、取材してみたい・・
が、テーマだった・・・
そこに、➀行っていない史跡巡り・・・②昨年来温めていたマイ企画・・「普天間基地を可能な限りフェンス沿いを歩いて1周してみる・・を、重ねた。
本編は、⓵行っていない史蹟巡り(前半は、俺は何度も行っているが、ミネさんが行っていない場所)の記事だ。


史蹟・名勝は歩けば突き当たる沖縄だ。沖縄の地面に最初に降り立った場所は、旭橋駅。
埋め立てで出来た場所ながら、この海だった証の大石は、信仰の対象でもあったので、そのまま残されている。

昼飯に向かう途中。城岳・・県庁の壕が保存されてある。ここは、部隊が配置され、激戦の場所でもあった。

城岳公園の上には、学徒碑「二中健児の碑」・沖縄戦で犠牲となった沖縄県立第二中学校職員生徒(鉄血勤皇隊や通信隊に参加した学徒185名と職員9名)の慰霊碑だ。
男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成された。現在の那覇高校で、碑の建つ城岳公園の北・眼下に那覇高校がある。

那覇の中心、緑が丘公園に残る壕。ここは、警察職員やら那覇の役人たちが潜み、職務を行った壕だ。
ここまでは、食事や買い物途中などで立ち寄った史蹟・戦跡だ。
今回の旅では、歴史散策で、歴史上の有名な人物①勝連城主の阿麻和利の墓をめぐる。⓶第一尚氏3代の墓をめぐる③スパイにされた少年たち「第二護郷隊の碑」をめぐるを、2日目のメイン企画に据えた。いつものタクシーのSさんが頼めたので、ミネさんが初めての施設や観光地も回ることができた。

来てみたかった場所、読谷村古堅小学校の側だ。
琉球王朝成立の時代の武将「阿麻和利(あまわり)」の墓だ。
2説あるが、南山併合の1429年に尚巴志が「琉球王国」を形成する。出来たばかりの王国は、王位継承などで、内紛が続く。第5子尚泰久(しょうたいきゅう)が6代目の王位に就く。そして、地方の有力武将である、護佐丸・阿麻和利の乱がおこる。やがて、忠臣護佐丸は阿麻和利の策略で自害・阿麻和利は尚泰久に打ち取られる。
しかし、7代尚徳は徳がなく、暴君であったため、家来の内間金丸の下剋上で金丸は王位につき、尚円となのり、第二尚氏の時代となる(この王朝が明治まで続くのである)。
これが、第二尚氏時代の「正史」に書かれた物語だが、勝者の史書は勝者に都合がよく書かれている。
護佐丸も阿麻和利も「天下の野望」が有ったのだろう。まぁ・・豊臣統一前の、武田や上杉と考えれば良いと思う。




あの勝連城の城主、阿麻和利は、納めていた地域では徳政を敷いたらしく、今もこの地域では、彼は慕われ、物語は芝居として毎年公演されているという。
敗者の墓は暴かれる・・・家来たちが、山深く葬りなおした墓が、これだ。コンクリートでふさがれた墓の姿が、悲しいくもある。


わりわりは、次に読谷村の嘉手納弾薬庫・その中の「黙認耕作地」に入った。入り口には、物騒な脅しが掲げられている。
米軍の敷地に入ると、日本の法律で罰せられる可笑しさ!


農耕などで使用されている道路は、車が十分に通れる広さだ。フェンスの中にまたフェンス。

やがて、今もこんこんと湧き出す井戸。農耕の貴重な水源だ。

琉球を最初に統一する「第一尚王朝」の覇者「尚巴志」とその後3代の墓にやってきたのだ。「第一尚王朝は1406~1469まで7代続く・そこで家来の内間金丸(改名し、尚円)に下剋上で滅ぼされる」この尚円の起こす第二尚氏が明治の琉球処分まで続くのである。写真の小さな「尚巴志の墓」の目印を見つけられないと、嘉手納弾薬庫を彷徨うことになる・・・

急斜面を登る。Sさんがハブを追い払う棒でくさをかき分けて、案内してくれる。

20mほど登ると、ブロックでふさがれた墓に行き着く・・・

斜面を変えて登ると、尚巴志の墓をここに隠す(尚円たちが、墓をあばき破壊することは見えている)のに尽力した家来の墓も鎮座していた。
阿麻和利の墓もそうだが、敗れ去った者の、末路は隠れるように岩陰に葬られている、怪しげな気を今も発しているような雰囲気がった。


読谷村を北上し、恩納村、安冨祖にやってきた。車でも40分はかかったかな?国道から直角に逸れ、人気のない細い坂道に入る。やがて、徒歩で坂道を登った。
広場から東方を見ると、深い谷・・そして、恩納岳の山並みが見える。


ここでなくなった少年隊・大人たちを慰霊する「第二護郷隊の碑」が建っている。
護郷隊(ごきょうたい)は、沖縄戦当時、諜報や防諜など秘密戦を専門とする陸軍中野学校の出身将校によって作られた2つの秘密部隊であり、いずれも10代半ばの少年を防衛召集して構成した少年兵による遊撃隊(ゲリラ部隊)である。恩納岳を主戦場にしたここが、第二護郷隊の場所である。
護郷隊は、いずれも14歳から17歳の少年を防衛召集していたが、その法的根拠は、鉄血勤皇隊や通信隊とおなじく、法令ではなく、軍令としての陸軍省令第59号「陸軍召集規則」第58号「防衛召集規則」で、「前縁地帯」と規定された沖縄県と奄美諸島などに限り14歳以上17歳未満で志願の防衛召集をさせたものだが、法的な問題があっただけではなく、護郷隊では学徒動員よりもさらに強制的であり、役場から呼び出しの連絡が来て小学校に集められ、そのまま召集された。少年たちには、「護郷」、自分の故郷は自分で守れ、という護郷隊の大義が強調された。しかしその実態は、重火器に竹やりで突っ込む、そのような形容がぴったりのものであった。
第一、第二護郷隊の戦死者は、約160人にものぼり、集合に遅れたというだけで制裁のために仲間うちで銃殺させたり、軍医に殺されたりした少年兵もいた。


戦跡を終え、時間があったので、ミネさんの来ていない「万座毛」へ・・
びっくりするほど施設は様変わりして、今年開館したようだ・・・俺も驚いた。しっかり検温され、立派な土産店を通って万座毛へ・・



万人が座せる、広場(毛)は、やはり良い景色だった。

那覇に戻りながら、道の駅「おんなの駅」で昼飯。
隣の博物館、ミネさんを行ってらっしゃいと送る。


庭にはこのような史蹟。


傍の「仲泊遺跡」に案内。岩陰を利用した住居跡と貝塚が残り、沖縄先史時代前期(紀元前約1500年前)頃利用されていたものとされる。沖縄県に残る同様の遺跡としては、最大級の規模で保存されている。 同じ場所に、近世に利用されていた「比屋根坂石畳道」もある。近年整備され、この石畳道は、古道「国頭方西街道」として、数キロ復元保存されている。わしゃ、2回に分けて、歩ききった・・・なんせ、アップダウンきつい山道なのだ・・・

その道・・・・行ってみる?と、彼に問うと、首を横に(大きく)振っていた。この遺跡、沖縄海洋博で、道路として破壊されるところだったが、反対運動で、道路が迂回して難を逃れたのだ。**博なんぞは、ろくなものではない!大阪万博だと?オリンピックだと?この「ご時世に」あきれるばかりだ・・・


ここは、僕も行っていないので、Sさんにリクエストしてやってきた。
真栄田岬・・・もぐりのメッカ?いや・・ダイビングのね。結構期待しなかった分、素敵だった。

タクシーにお願いした行程・時間にゆとりがあって、僕は最後に絶対来てみたかったここにやってきた。
土曜日なので、蔵は休みだが・・観たいものは、その庭にある。

「君知るや 名酒あわもり」!


1970年(昭和45年)、雑誌「世界」4月号で、坂口謹一郎(東大名誉教授 醗酵学)が発表した名文。
彼の文はこう続く・・
「黒麹菌という不思議な力を育て、泡盛という名酒を作りだした、沖縄県民の素質や伝統に対して限りない魅力を感ずるものである。」
この発表は沖縄返還の2年前なのだ。
この碑の建つ、沖縄酒造協同組合は、沖縄のすべての蔵が加わり、古酒熟成、良質の泡盛を守り育てながら、県外・国外への泡盛の発信基地になっている。
この組合の名酒「海の邦」などは、僕の愛飲酒である。
こうして、史蹟・戦跡・名勝をめぐる1日は終わったのだった。
20日の2m圏内接触者。
濃厚接触・・女房・息子・新道・・3名。
立ち話・ユッコ・ミホ・・・・・・2名。
今回旅の目的は・・
➀とにかく沖縄の空気が吸いたい。
②コロナ下、那覇の街は?行きつけの店は?生き延びているだろうか?を確かめる。
➂一体沖縄は、本土からの客にどのような思いでいるか、取材してみたい・・
が、テーマだった・・・
そこに、➀行っていない史跡巡り・・・②昨年来温めていたマイ企画・・「普天間基地を可能な限りフェンス沿いを歩いて1周してみる・・を、重ねた。
本編は、⓵行っていない史蹟巡り(前半は、俺は何度も行っているが、ミネさんが行っていない場所)の記事だ。


史蹟・名勝は歩けば突き当たる沖縄だ。沖縄の地面に最初に降り立った場所は、旭橋駅。
埋め立てで出来た場所ながら、この海だった証の大石は、信仰の対象でもあったので、そのまま残されている。

昼飯に向かう途中。城岳・・県庁の壕が保存されてある。ここは、部隊が配置され、激戦の場所でもあった。

城岳公園の上には、学徒碑「二中健児の碑」・沖縄戦で犠牲となった沖縄県立第二中学校職員生徒(鉄血勤皇隊や通信隊に参加した学徒185名と職員9名)の慰霊碑だ。
男子学徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成された。現在の那覇高校で、碑の建つ城岳公園の北・眼下に那覇高校がある。

那覇の中心、緑が丘公園に残る壕。ここは、警察職員やら那覇の役人たちが潜み、職務を行った壕だ。
ここまでは、食事や買い物途中などで立ち寄った史蹟・戦跡だ。
今回の旅では、歴史散策で、歴史上の有名な人物①勝連城主の阿麻和利の墓をめぐる。⓶第一尚氏3代の墓をめぐる③スパイにされた少年たち「第二護郷隊の碑」をめぐるを、2日目のメイン企画に据えた。いつものタクシーのSさんが頼めたので、ミネさんが初めての施設や観光地も回ることができた。

来てみたかった場所、読谷村古堅小学校の側だ。
琉球王朝成立の時代の武将「阿麻和利(あまわり)」の墓だ。
2説あるが、南山併合の1429年に尚巴志が「琉球王国」を形成する。出来たばかりの王国は、王位継承などで、内紛が続く。第5子尚泰久(しょうたいきゅう)が6代目の王位に就く。そして、地方の有力武将である、護佐丸・阿麻和利の乱がおこる。やがて、忠臣護佐丸は阿麻和利の策略で自害・阿麻和利は尚泰久に打ち取られる。
しかし、7代尚徳は徳がなく、暴君であったため、家来の内間金丸の下剋上で金丸は王位につき、尚円となのり、第二尚氏の時代となる(この王朝が明治まで続くのである)。
これが、第二尚氏時代の「正史」に書かれた物語だが、勝者の史書は勝者に都合がよく書かれている。
護佐丸も阿麻和利も「天下の野望」が有ったのだろう。まぁ・・豊臣統一前の、武田や上杉と考えれば良いと思う。




あの勝連城の城主、阿麻和利は、納めていた地域では徳政を敷いたらしく、今もこの地域では、彼は慕われ、物語は芝居として毎年公演されているという。
敗者の墓は暴かれる・・・家来たちが、山深く葬りなおした墓が、これだ。コンクリートでふさがれた墓の姿が、悲しいくもある。


わりわりは、次に読谷村の嘉手納弾薬庫・その中の「黙認耕作地」に入った。入り口には、物騒な脅しが掲げられている。
米軍の敷地に入ると、日本の法律で罰せられる可笑しさ!


農耕などで使用されている道路は、車が十分に通れる広さだ。フェンスの中にまたフェンス。

やがて、今もこんこんと湧き出す井戸。農耕の貴重な水源だ。

琉球を最初に統一する「第一尚王朝」の覇者「尚巴志」とその後3代の墓にやってきたのだ。「第一尚王朝は1406~1469まで7代続く・そこで家来の内間金丸(改名し、尚円)に下剋上で滅ぼされる」この尚円の起こす第二尚氏が明治の琉球処分まで続くのである。写真の小さな「尚巴志の墓」の目印を見つけられないと、嘉手納弾薬庫を彷徨うことになる・・・

急斜面を登る。Sさんがハブを追い払う棒でくさをかき分けて、案内してくれる。

20mほど登ると、ブロックでふさがれた墓に行き着く・・・

斜面を変えて登ると、尚巴志の墓をここに隠す(尚円たちが、墓をあばき破壊することは見えている)のに尽力した家来の墓も鎮座していた。
阿麻和利の墓もそうだが、敗れ去った者の、末路は隠れるように岩陰に葬られている、怪しげな気を今も発しているような雰囲気がった。


読谷村を北上し、恩納村、安冨祖にやってきた。車でも40分はかかったかな?国道から直角に逸れ、人気のない細い坂道に入る。やがて、徒歩で坂道を登った。
広場から東方を見ると、深い谷・・そして、恩納岳の山並みが見える。


ここでなくなった少年隊・大人たちを慰霊する「第二護郷隊の碑」が建っている。
護郷隊(ごきょうたい)は、沖縄戦当時、諜報や防諜など秘密戦を専門とする陸軍中野学校の出身将校によって作られた2つの秘密部隊であり、いずれも10代半ばの少年を防衛召集して構成した少年兵による遊撃隊(ゲリラ部隊)である。恩納岳を主戦場にしたここが、第二護郷隊の場所である。
護郷隊は、いずれも14歳から17歳の少年を防衛召集していたが、その法的根拠は、鉄血勤皇隊や通信隊とおなじく、法令ではなく、軍令としての陸軍省令第59号「陸軍召集規則」第58号「防衛召集規則」で、「前縁地帯」と規定された沖縄県と奄美諸島などに限り14歳以上17歳未満で志願の防衛召集をさせたものだが、法的な問題があっただけではなく、護郷隊では学徒動員よりもさらに強制的であり、役場から呼び出しの連絡が来て小学校に集められ、そのまま召集された。少年たちには、「護郷」、自分の故郷は自分で守れ、という護郷隊の大義が強調された。しかしその実態は、重火器に竹やりで突っ込む、そのような形容がぴったりのものであった。
第一、第二護郷隊の戦死者は、約160人にものぼり、集合に遅れたというだけで制裁のために仲間うちで銃殺させたり、軍医に殺されたりした少年兵もいた。


戦跡を終え、時間があったので、ミネさんの来ていない「万座毛」へ・・
びっくりするほど施設は様変わりして、今年開館したようだ・・・俺も驚いた。しっかり検温され、立派な土産店を通って万座毛へ・・



万人が座せる、広場(毛)は、やはり良い景色だった。

那覇に戻りながら、道の駅「おんなの駅」で昼飯。
隣の博物館、ミネさんを行ってらっしゃいと送る。


庭にはこのような史蹟。


傍の「仲泊遺跡」に案内。岩陰を利用した住居跡と貝塚が残り、沖縄先史時代前期(紀元前約1500年前)頃利用されていたものとされる。沖縄県に残る同様の遺跡としては、最大級の規模で保存されている。 同じ場所に、近世に利用されていた「比屋根坂石畳道」もある。近年整備され、この石畳道は、古道「国頭方西街道」として、数キロ復元保存されている。わしゃ、2回に分けて、歩ききった・・・なんせ、アップダウンきつい山道なのだ・・・

その道・・・・行ってみる?と、彼に問うと、首を横に(大きく)振っていた。この遺跡、沖縄海洋博で、道路として破壊されるところだったが、反対運動で、道路が迂回して難を逃れたのだ。**博なんぞは、ろくなものではない!大阪万博だと?オリンピックだと?この「ご時世に」あきれるばかりだ・・・


ここは、僕も行っていないので、Sさんにリクエストしてやってきた。
真栄田岬・・・もぐりのメッカ?いや・・ダイビングのね。結構期待しなかった分、素敵だった。

タクシーにお願いした行程・時間にゆとりがあって、僕は最後に絶対来てみたかったここにやってきた。
土曜日なので、蔵は休みだが・・観たいものは、その庭にある。

「君知るや 名酒あわもり」!


1970年(昭和45年)、雑誌「世界」4月号で、坂口謹一郎(東大名誉教授 醗酵学)が発表した名文。
彼の文はこう続く・・
「黒麹菌という不思議な力を育て、泡盛という名酒を作りだした、沖縄県民の素質や伝統に対して限りない魅力を感ずるものである。」
この発表は沖縄返還の2年前なのだ。
この碑の建つ、沖縄酒造協同組合は、沖縄のすべての蔵が加わり、古酒熟成、良質の泡盛を守り育てながら、県外・国外への泡盛の発信基地になっている。
この組合の名酒「海の邦」などは、僕の愛飲酒である。
こうして、史蹟・戦跡・名勝をめぐる1日は終わったのだった。
20日の2m圏内接触者。
濃厚接触・・女房・息子・新道・・3名。
立ち話・ユッコ・ミホ・・・・・・2名。
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