時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

鵜島再訪

2015年11月05日 | フィールドワークから
11/1の日曜日、昨年おとずれた鵜島へ。確認したいことがあって前回の話者にお願いして教えていただきました(結果、さらに謎が増しましたが)。朝、出発して、福山まで新幹線、そこから「しまなみライナー」で伯方島へ。タクシーに来てもらって、渡船の出る尾浦港へ… との算段でしたが、タクシー会社に電話してみると、「今日は用事ができたからダメ」。そんなのありか… でもそういえば、夏に学生と調査に行った長島町(三重県桑名市)でも、「2台の回すのは無理」と言われたっけ。ここはまして、きっと個人なんだろうし、ふだんはめったに客もこないのだろうし。

島内循環バスも2時間後にしか来ないので遅すぎ。万策尽きたので、話者の方に電話して、すこし待っていただくお願いをして、港まで歩くことを決心。地図上では近そうに見えたのですが、実際には4km強のアップダウン。録音装備の入った重いスーツケースを引きずって汗だく。途中の有津(あろうづ)は眺めがすばらしいのですが、楽しむ余裕なし。なんとか一時間後の、ひとつあとの便にまにあいました。

鵜島へのフェリーは今年3月に新しくなってキレイで快適、日に7便もあってとても便利…だけど行き、帰りとも、お客はわたし一人。鵜島に商店もないし、この船が島の飲料水も運んでいるので、なくすわけにはいかないそうです。(笑福亭)鶴瓶さんが来て以降、島に訪れる人が多くなって、今年はKAT-TUN(?)とやらも来たそうですが、この日の来訪者は私と、猪退治のスタッフ(とつれられてきた猟犬)だけ。

今回、日曜日に調査をおねがいした理由のひとつが、「うしまカフェ」。島の港にある、このかわいいカフェは、土日祝日のみ営業。この日のお客は、島民6名と、ふだんは(四国本土の)今治におすまいの、話者の方の娘さん。島の人が集まるところで調査ができれば、話者の方も気楽だろうし、他にも何かあるかも、とひそかに期待していましたが、じっさい、鵜島の歴史調査に携わっている島民の方と知り合え、たいへん意義のある再訪になりました。家族で来たかったのですが、また次回。

島には宿がないので、となりの伯方島にもどって旅館に一泊。風呂に降りてみると、その前の広間はカラオケで大盛り上がり。「♪親に捨てられ~女房に死なれ~♪」… おおお、そりゃたいへん(そんな唄あるんだ)。かなりの大音量でしたが、泊めてもらったへやにはほとんど聞こえてこないようで、気づかなかった。部屋の位置を配慮していただいたようです。

天草へ

2015年03月03日 | フィールドワークから

ここにもたまにコメントをくださる、M先生などのお世話で、はじめて九州二型アクセントの調査をさせていただけることになり、今日から天草へ。岐阜からは空港の便があまり良くないので、新幹線+ローカル線で6時間半かけて、宇土半島の先端、三角港へ。そこへむかう、鹿児島本線(~三角線)の中で、前に座ったおばさんの帽子に、最初のくまモン発見。

途中、宇土半島の北側の海沿いを走るのですが、「肥後長浜」駅周辺の広大な干潟に感激。以前は日本のあちらこちらにあったのでしょうが、個人的にはこれだけの干潟を見るのは初めて。

三角港からは「天草宝島ライン」というクルーズ船で天草・本渡港へ。天草観光は夏がシーズンとのことで、平日にも運行を始めたのは3月に入ってからとのこと。乗客は一人だけ。雨で煙って見通しが悪く、島の景観はあまり楽しめませんでしたが、そもそも天草周辺の海はたいてい穏やかなのだそうで、問題なく到着。一方、M先生から、飛行機は視界不良で欠航との情報。スローペースが幸いすることもあるらしい。

船中でガイドマップをみてやっと思い出しましたが、天草といえばイエズス会の神学校(コレジヨ)があったところ。昔、esopo no fabulas をよむ授業を担当したものとしては、ぜひ訪れたい気もしますが、調査の予定がみっちりで、今回は寄る余裕はなさそう。知らなかったけど、なにしろ、天草、でかいし(熊本県なことも知らなかった)。

ふたたび西条・小松へ

2015年02月28日 | フィールドワークから
きのうは、去年9月に訪れた、西条、小松地区へ。そのとき気になったことがあったので、もうお一方、旧石鎚村出身の人にあっていただけるよう、お願いしてありました。結果、その方にも問題の特徴がみられ、個人的なものではない可能性が高まりました。

旧石鎚村は、住みつづけてきたさいごのお一人が、この冬、山をおりたあと、もう戻らないことにしたそうで、ついに無人に。今回お会いできた方は、昭和48年に小松町に移住したときが37歳、すでにこちらでの生活の方が長くなりました。それでも地域固有の特徴(?)を残しているのは、アクセントとはそういうもんだ、という以外に、集団移住した「石鎚団地」で暮らしてきた、ということもあるのかもしれません(前回もリンクしたこちら参照)。今回も教えていただけた前回の方とも「以前のご近所さんとあって話すのがいちばん落ち着くなあ」と話し合ってらっしゃいました。この村の事情をさらに知りたくなったので、郷土史研究家である館長に相談すると、小松温芳図書館の学芸員の方を紹介してくださいました。活字化されていない郷土史書があるそうで、近いうちに再訪して見せていただくことにしました。



終了後、伊予小松駅前のMARUBUNへ。前回来たとき気になったのですが、松山を中心に8店舗を展開するレストランで、ここが本店。入ってみると、大繁盛。世話をしてくれたオネエサマが、大きな荷物をみて「電車大丈夫ですか?」。状況を話すと、早めにサーブするよう取りはからってくださいました。伝票には「1時の電車」(赤の下線で強調)とありました。ということで無事、13:01の予讃線で帰途に。愛媛はもうポカポカで、「春になったんだ~」と思っていましたが、名古屋に戻ってみるとぐっと寒く、春はまだもうちょっと先、というかんじ。


今回はここでおしまい。得られた知見そのものもさることながら、鵜島、小松(石鎚)と、また訪れるべきところができたのが、大きな財産でした。

大島・宮窪地区

2015年02月26日 | フィールドワークから

昨日に引き続き、やはり今治市所属の、大島・宮窪地区へ。大島は御影石の産地として有名だということを今回、知りましたが(そんなことばっかりですが)、今治市宮窪支所、元宮窪町役場の前の「閉町祈念碑」もそう?(見ても分からない)。町としての歴史を終えるにあたって作った記念碑を見たのは初めて(ググってみたところ珍しくないようですが)。複雑な想いがこめられている気がしました。昨日の鵜島から、海を隔てて1Kmあるかないか。だけどアクセント体系ははっきりと違う。下の写真は、鵜島への渡船が出る宮窪港から振り返って撮ったものですが、奥の山の一部がすっかり削り取られていて、映っているところから下もずっと穴状に掘られているそうです。



「一人ずつはちょっと...」と、お三方同時の面会だったので、コーパスに沿った調査を全員にやるのはあきらめ、お二人にマイクを装着していただいて、会話を録音。今回のために買い足したヘッドセットマイクを使って、LRチャンネルに分離して録音。いろいろな話を聞かせていただきました。採石は死亡事故も珍しくない危険な仕事で、ほぼ男性のみの仕事だったそうですが、最近は男性に混じって働く女性も若干いるそう。「しまなみ海道」のおかげで、今日は今治駅前からバス一本、32分での到着でしたが、話者のみなさんの若いころは、島を出る交通手段は宮窪港からの船で、主な行き先は今治(四国本土)、行き帰りは、早くても丸一日がかり。大島内で山を隔てた吉海町とのつながりは、深くなかったそうです(吉海でも同じ情報→こちら)。でも、アクセントはほぼ同じなもよう。。。

鵜島へ

2015年02月25日 | フィールドワークから
今日は、今治市の鵜島へ。大島と伯方島の間、現在16戸、27人、60代前半のお二人がもっとも若い、という小さな島。でも、私たちの調査にとってたいへん重要な島ということになりそう。島の生活や、その移り変わりも含めて、お三方に2時間じっくり教えていただき、感激でした。


小さな港にはあひるが5羽。調査のお世話をくださった区長さんたちがめんどうをみているそう。



大島~鵜島~伯方島を往復するフェリーの待合所が、土日と祭日だけオープンするカフェになっていて、お客はほぼ島民、値段も(島民は)半額にしているんだけれど、なんとか採算がとれているそうです。再訪の必要ありなので、こんどは週末に。