先日から聞き出した Freakonomics の Podcast、このあいだはEdward Glaeserというハーバード大学の教授のインタビュー。つい先月 Triumph of the city という本を上梓したばかりだそう。
本は読んではいませんが、インタビューによれば「都市はすばらしい、文化、文明を生み、住民をより健康にし、さらに都市住民のほうが環境負荷が低い」というような趣旨らしい。環境負荷については、「都市住民は、たとえば日々の移動距離が短い。収入の違い等の要因を取り除くと、一人当たりの環境負荷は田舎に住む人より低いのだ」だそうです。だからと言って、「郊外に住みたいという人々の選択に干渉したいわけではない。ただ、郊外への移住を奨励する政策はやめるべきだと提言したいのです」とのこと。
この話、私にはかなり胡散臭く感じられます。何より、「収入の違いの影響を取り除く」という補正が正しいと思えません。
環境問題にかかわるある研究者から直接聞いた話ですが、その人は個人の環境に対する負荷のいちばん明解かつ適切な指標は収入だと考えているそうです。なぜなら、高収入を上げる方法は、煎じ詰めれば、他の人に働かせて、その結果も自分の業績として吸い上げることであり、多くの人を動員すればするほど、その全体の活動の結果、たとえ本人の直接的な行動における環境意識が高くても、その人は総体としてそれだけ環境負荷が高くなる、と。
具体例をあげると、生産拠点を海外に置いても、そこでの環境汚染物質は、自国の経営者、株主、企画、広告、販売等社員の高い収入を支えるために排出される。もちろん現地の労働者も稼ぐわけですが、じゃあ一人当たりの環境負荷をどう計算するか、となると、収入がいちばん適切だと考えられると。エコカーにしても、その車の環境負荷は低くても、開発のためのさまざまな人の活動、開発者や会社が上げる高収入、新しい車の買い替えにまつわるさまざまな活動等を考えると、総体的にはむしろ環境負荷は高いだろうと。以上はだいぶ前に聞いたので、ここで述べたことはその方の説を敷衍して、だいぶん異なってしまっているかもしれません。
引っ越した知り合いに聞いたところでは、NYやらボストンやらの、東海岸の大都市やその周辺の住居にかかる金額は、Bloomingtonのおよそ2倍、という印象。食費もずっとかさむらしい。そんなところに住むためには、どれほどの収入をあげなくちゃいけないか。だから、都市に住む人(都市郊外も含め)は、概して収入が高く、そのことそのもののために環境負荷が高い、と言えるんじゃないか。収入要因を取り除いてはいけないと思うのです。
この教授の都市礼賛は、客観的事実に基づくというより、「夢を追求する自由の国」という米国人の原理的信条に完全に則った上での議論に思えます。収入要因を取り除くことで、環境負荷の高い、高収入の追及の当否が顧みられることはない。一方で、「郊外に住みたい人々の選択は尊重する」と人の自由意志も保証。私の議論にも無知による誤謬や破綻があるかもしれませんが、自分たちの生活原理から一歩でも外に出て、それ自体から検討を加えてくれるのでない限り、都市はエライ、という議論に与することは私にはできません。ただそれをやった場合、米国人には全く見向きもされない議論になってしまう可能性大でしょうけど。
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じつはこの話を記事にしたかった理由はこれではありません。Gleaser氏は、ドイツの(どこだったか)都市で生まれ育ち、シカゴで学位、現在仕事でボストンと人生ずっと都市生活者だったそうです。インタビューの最後にGleaser教授は「あなたの考える最もすばらしい都市」を教えてくれと言われました。最初は「都市生活を提言する立場なので、特定の都市の味方はしたくない」と渋りましたが、「じゃあベスト3を」と押し切られ、「アメリカなら、シカゴ、ボストン、ニューヨーク」。
「そして、世界では...」ときたので、「東京来るか!?」と耳をすませました。結果は...
東京はありませんでした。彼があげたのは、
バルセロナ、香港、ロンドン
でした。最初の2つには行ったことがありますが、たしかに、いいかも(前者の場合、理由は、個人的には写真のとおり)。でも、東京も負けてないと思います。
本は読んではいませんが、インタビューによれば「都市はすばらしい、文化、文明を生み、住民をより健康にし、さらに都市住民のほうが環境負荷が低い」というような趣旨らしい。環境負荷については、「都市住民は、たとえば日々の移動距離が短い。収入の違い等の要因を取り除くと、一人当たりの環境負荷は田舎に住む人より低いのだ」だそうです。だからと言って、「郊外に住みたいという人々の選択に干渉したいわけではない。ただ、郊外への移住を奨励する政策はやめるべきだと提言したいのです」とのこと。
この話、私にはかなり胡散臭く感じられます。何より、「収入の違いの影響を取り除く」という補正が正しいと思えません。
環境問題にかかわるある研究者から直接聞いた話ですが、その人は個人の環境に対する負荷のいちばん明解かつ適切な指標は収入だと考えているそうです。なぜなら、高収入を上げる方法は、煎じ詰めれば、他の人に働かせて、その結果も自分の業績として吸い上げることであり、多くの人を動員すればするほど、その全体の活動の結果、たとえ本人の直接的な行動における環境意識が高くても、その人は総体としてそれだけ環境負荷が高くなる、と。
具体例をあげると、生産拠点を海外に置いても、そこでの環境汚染物質は、自国の経営者、株主、企画、広告、販売等社員の高い収入を支えるために排出される。もちろん現地の労働者も稼ぐわけですが、じゃあ一人当たりの環境負荷をどう計算するか、となると、収入がいちばん適切だと考えられると。エコカーにしても、その車の環境負荷は低くても、開発のためのさまざまな人の活動、開発者や会社が上げる高収入、新しい車の買い替えにまつわるさまざまな活動等を考えると、総体的にはむしろ環境負荷は高いだろうと。以上はだいぶ前に聞いたので、ここで述べたことはその方の説を敷衍して、だいぶん異なってしまっているかもしれません。
引っ越した知り合いに聞いたところでは、NYやらボストンやらの、東海岸の大都市やその周辺の住居にかかる金額は、Bloomingtonのおよそ2倍、という印象。食費もずっとかさむらしい。そんなところに住むためには、どれほどの収入をあげなくちゃいけないか。だから、都市に住む人(都市郊外も含め)は、概して収入が高く、そのことそのもののために環境負荷が高い、と言えるんじゃないか。収入要因を取り除いてはいけないと思うのです。
この教授の都市礼賛は、客観的事実に基づくというより、「夢を追求する自由の国」という米国人の原理的信条に完全に則った上での議論に思えます。収入要因を取り除くことで、環境負荷の高い、高収入の追及の当否が顧みられることはない。一方で、「郊外に住みたい人々の選択は尊重する」と人の自由意志も保証。私の議論にも無知による誤謬や破綻があるかもしれませんが、自分たちの生活原理から一歩でも外に出て、それ自体から検討を加えてくれるのでない限り、都市はエライ、という議論に与することは私にはできません。ただそれをやった場合、米国人には全く見向きもされない議論になってしまう可能性大でしょうけど。
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じつはこの話を記事にしたかった理由はこれではありません。Gleaser氏は、ドイツの(どこだったか)都市で生まれ育ち、シカゴで学位、現在仕事でボストンと人生ずっと都市生活者だったそうです。インタビューの最後にGleaser教授は「あなたの考える最もすばらしい都市」を教えてくれと言われました。最初は「都市生活を提言する立場なので、特定の都市の味方はしたくない」と渋りましたが、「じゃあベスト3を」と押し切られ、「アメリカなら、シカゴ、ボストン、ニューヨーク」。
「そして、世界では...」ときたので、「東京来るか!?」と耳をすませました。結果は...
東京はありませんでした。彼があげたのは、
バルセロナ、香港、ロンドン
でした。最初の2つには行ったことがありますが、たしかに、いいかも(前者の場合、理由は、個人的には写真のとおり)。でも、東京も負けてないと思います。