つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

お腹に明かりが灯るような

2013-07-01 01:50:23 | 日記
怒涛の休日おでかけオンパレードが幕を明けた。
半ば強制的なものもあるけれど、ほとんどが自分で選んでいることだ。
無論文句などひとつもないし、というかそのどれもが楽しいことなのだけれども、引っ越しもあり仕事もありでちょっと圧迫されそうな気がしている。

第一弾はクロマニヨンズ、in 名古屋。

午前中にせっせと掃除をして、人の汗でびちょ濡れになるのを想定した着替えをバッグに詰める。
1泊でも泊まりで出かける前は掃除をしていく、というのは私の生活の決まりごとのひとつ。

けいこが最近、孫ができて娘の私にもどことなく愛情表現をするようになってきて、私もそういうものに応えたいし与えたいと思っているので、ほんの束の間一緒に出掛ける。
カフェでコーヒーを飲んでいるときに、「今会期になっているよ」と「情熱の薔薇」を見せる。

けいこはこれまでにも何度か私の作品を見たことがあるし、いわゆる美術芸術だのは結構好きな方だ。
それでもやはり書の世界は、何がなんだかわからない、というのが一般的な感想であると思うから、別に特段感想は求めていない。

それでもけいこは私の携帯の写真を見て「あら、これいいじゃん。捨てちゃうんなら私がもらってあげる」と言う。
幼い頃からけいこに褒められた経験がない私はびっくりしてしまって「本当に?大きいよ?」と念を押して聞く。
それでも「あんたが捨てるっていうなら私がもらってあげる」と言う。
ついでに「行けるんだったら、これは生で見たかった」と言う。

一方で、同じタイミングでわざわざ美術館まで足を運んでくれた友人は私の「情熱の薔薇」を見てひとしきり泣いたよと連絡をもらう。
え、なんで泣くの?!と私は一瞬面食らったが、私がこういうふうに表現をできるようになってくれて嬉しい、もう大丈夫ね、とそういうことだったようだ。
この友人は私のそういう部分、心のずっと奥の方にずっと前から訴えかけてくれていて、頑なな私を叱咤し鼓舞してくれていた。
「私、ちゃんと自分の足で歩けているかなあ?」と、それは来週会って聞くことにして、「見に行ってくれてありがとう」とだけ伝える。

私の変化は、甲本ヒロトと真島昌利によってぶち抜かれたけれど、周りの人たちにもいっぱいいろんなことを手伝ってもらっている。
時に跳ね返したり、時に動けなくなってしまったりするけれど、それに、結局のところ全ては自分なのだけれども、それに、結局求められたように何かをし続けることはたぶん私にはできないけれども、それでもやっぱり時を共にすることには意味がある。
それにはいつも、感謝しきれなく、私には有り余る優しさばかりなのである。


いつもの友人と別々の新幹線に乗って地元に帰って、彼女の弟を連れて一緒にZEPP名古屋に向かう。
彼女に輪郭がよく似た弟は、本物の21歳にしか出せない青々しさがあってなんだかとてもかわいらしかった。
たぶん、かわいらしい、なんて本人は受け付ける形容ではないと思うけれど。
私の青さとはやはり質が違って、本物の21歳の青さなんだと思った。
だとすると14歳の本物の青さとはどんなものだのだろうか。
青いものは何歳になっても青いけれど、その年齢(というか経験)でしか出せない青さというものもある。

「どやべーじゃん」
「ばーばー殴られただけど」

とか言うものだから、お姉さんたちは顔を見合わせて微笑んでしまう。
「大人になるってことは、自由になることなんだよ」と、私は言う。

友人の弟は私のことを見て、自分の姉と似ていると言った。
見た目ではなく、行動とか熱とかのところ。
私は嬉しいなあと思った。


インテリアショップで自分の欲しい机のサイズと質感を確認し、山盛りのアジサイを見て、ドライブして緑をいっぱい吸い込んで、怒涛のおでかけ休日第一週目は楽しさの余韻を東京に持ち帰ってきた。
やっぱり東京に着いてほっとして、お茶を淹れて一服。

引っ越しまでに荷造りの時間が十分取れなさそうなので、ここから日にひと箱ずつ荷詰めをしていこうかと思っている。
ピアスと壁のポストカードなどを外して、NUMEROを抜粋してひと箱詰めた。

ギターが弾きたくなって、そうする。
コードが弾ければいいや、と今日は思う。

はっと、フジロックの苗場行きのチケットがないことに気づく。
たぶんあそこだと思いついたのは実家のゴミ箱。

慌てふためいてけいこに連絡する。
「あるよ、よかったね、明日ゴミの日だよ」と言われる。
胸をなでおろして、最近の頓珍漢ぶりをまた上塗りしてしまったことを反省する。

今週末、第2弾は父の七回忌。
そして、京都へ。