つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

まっぷたつ

2013-07-13 00:18:55 | 日記
ONE OK ROCKもこれまた今さらなのだけれど借りてみる。
ボーカルのTAKAは森進一・昌子の息子で、元ジャニーズであるということ以外に特には何も知らない。
歌が上手いとか演奏が上手い、とかもこのバンドはよく聞くけれど、そもそも私は歌も演奏についても上手い下手はあまり判断できないし、上手いから下手だからという理由だけでそれを好きになることはない。

以前にもYouTubeなどでは聞いたことがあった。
そのときも少しシャウト感が強すぎるという印象を持っていたが、今聞いてもそれに変わりはなかった。
ただ、今回聞いて違ったのは、曲を作っている人はおそらくそれまでの自分や自分の周りについて「つまんねえ」「そういうことじゃねえ」と思っていたのだろうなあと私が感じることだった。
それで出てきたものが彼らの曲であり、作り手の心の放出なのだろうと。

私の心をぎゅうっとさせるのに何かしらの刺激を与えるものというのは、“自分の心の中にあったものが表出する、あるいは自分自身でそれを認識する瞬間”というような類の要素を含んでいると思われる。
作り手本人がそういう体験をして、それを中心に作られていそうな作品であること。
それはすでに本人の中では時間が経っていても、表出物としてはその初めの衝撃感を含んでいるような。
そしてまた、どんなに強そうに見えても、どんなに突っ張っているように見えても、それらには圧倒的な切なさがある。

私が極彩色やエキゾチックな柄に興奮するのはこれでは説明がつかないけれど、花が好きなのは単純に色に魅せられていることと、このような要素の欠片が含まれるような気がしている。

ヒロトとマーシーがずっとやり続けていることというのはまさにこれだと思っている。
ロックンロールへの入り口、ロックンロールへの切り口。
ロックはそれに触れたときが最大値であとは落ちるか現状維持、とヒロトは言っていたけれど、本人の絶頂というのは永遠にこのことの中にひとつとしてあるのだと思う。
というか、ひとつとして自分の中で規定したのかもしれない。

もちろん、全く同じ絶頂を得られているわけではないだろうし、変わりゆくそれの代替を求めるべく彷徨い、迷い、戦ってきているのではないかと思う。
絶頂みたいな域のことは世に出ている表現物とは別のところにあるのかもしれないし、あるのだろうと思う。
そしてまた、最初のそれは最大級に貴いのだろうとも想像できる。

この世に確立されたあらゆるアートのスタイルは、既に飽和状態であるのかもしれないし、そうでないかもしれない。
いずれにしても一旦は“出し尽くされた”状態ではあるのだとは思う。
だからこそ、まったくもってまだ見ぬ“新しい”スタイルというのは、非常に非常に価値のあることだと思うし、もしかするとある人たちはそのまだ見ぬ“新しい”スタイルのことしかアートと呼ばないのかもしれない。

しかし、何か表現物が、例えば結果的に誰かの二番煎じのようなものであったとしても、作り手本人の満足さえあればいいと思うのだ。
それをアートと呼ばないのであれば、アートと表されなくても良い。
もちろん、作り手本人の満足がなかなか満たされないから苦悩したりするのだろうし、その満足もし尽してしまうから不足感が募ってしまうものだと思うけれど、自分の中のそういった何かをでき得る限りそのままに形作ることができれば良いのではないだろうか。
といってもそれがそもそも簡単なものではないけれど。
技術の習得はそのためにすべきものだと思う。

ただ、本当に自分の中の全部をその通りに出すことができたとしたら、それは何かに似ているということはあり得ないことなのかもしれない。
それがそうなのかは、私には遠すぎて全然わからない。
今私がひとつ言えるとしたら、私は物事の揺るがない真理、それは絶対的な数式のような、が知りたいわけれはなくて、私自信の中にある心を震わす何かの入り口を見つけたいということだろうか。

足りない、足りない、と思う心はどうしようもないものだけれど、その根底にあるのは比べようもない孤独であり愛情不足であるような気がしてならない。
何の疑いもなく、その身まるごとを安心して委ねたことがことがないことによる基底の弱さ。
それゆえの反動的な類まれなすごさ。

と、今の私の現在地からの色々な想像。
そして、ややこしさに愛想が尽きて、もう何でもいいや、と空白となる。

まいっか、と、まあよくないよ、と。