つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ねえねえ

2013-07-23 23:13:33 | 日記
関わりのある誰かの誕生日について、私は昔からその日を忘れるということがほとんどなかった。
友人の誕生日をうっかり忘れてしまうという人の話を聞いて、なぜ忘れるのだろう、今日は何日だろうと一日一回くらいふと考えるときがあってその日にちと誰かの誕生日は自ずと思い出されるものではないのだろうか、と思っていた。
と、そう思っていたし、実際にそうだったのだけれど、最近うっかりすっかり、それを忘れてしまうのだ。
それも1人や2人ではなく。

その日付が過ぎた翌日に思い出すのであればまだよくて、大抵はとうに過ぎ去った頃に本人と会って思い出したりする。
たぶん、自分のことについて考えている時間が圧倒的に増えたのだと思う。
大事な人の誕生日は、自分の誕生日よりも意味深い、と思ってはいるものの。

仕事がどんなに忙しくても、私は結構暇をしていることが多かった。
「忙しい、忙しい」と口癖のように言う人を見て、そんなに忙しくないでしょう、と半ば蔑視すらしていたかもしれない。
アフター6があった頃、映画を見に行ったりDVDを観たり、お酒を飲んだりと自由に過ごしていはいたけれど、見たくもないテレビ番組を見たりそのまま寝てしまったりという時間の使い方をしていた。
もっと昔、学生の頃など、そういう暇な時間に私はほとんど身になる思考もせず腐っていたことが多々あった。
本当に、多々、あった。

ある程度暇であることは良しと正当化していたし、物質的に合理的な生活をしていた。
今思い出して寒気がするくらい、私は砂を噛んでいた。
食べ物でもない砂を、力いっぱい噛むことに必死だった。

自分のための良いものをひとつ手に入れてしまってから、やりたいことが格段に増えてしまって、仕事が忙しいことでその時間が取れないというまさに「忙しい」という状態が私に起こることになった。
慢性的時間不足。
ただ、それは時間ができたところでその不足感が充足されるかと言うと、おそらく全然そんなことはなくて、結局のところ私の心を満たす何かに触れるということは単純な拘束時間だけで解決しなかったのだと、時間ができたらそう思い知ることだろう。

日々がやり過ごすためだけにあるとしたら、本当の意味で私は死んでしまう。
というようなことを言う人の話を聞いて、以前私は「実際はそんなものではないだろう、穏やかに日々を過ごしていければいいではないか、休日がのんびり楽しかったらそれでいいではないか」とまたも失礼にも蔑視すらしていたかもしれないのだけれど、今は私が本当にやり過ごすだけでは死んでしまうと思っている。
今はあの時欲しかった休日の楽しさなんて、全然欲しくもない。

過去を美化することは得意だし、過去があって今があると思っているけれど、私は過去の自分と友達になりたいと思えない。

人の誕生日を忘れてしまうことから随分と飛躍してしまった。


マスキングテープを6000円分買った。
新居の窓から中が丸見えなのでそれをマスキングするための幅の大きいテープ。
カモ井加工紙のマスキングテープの世界観が私は大好きである。

落とした財布が諸々の手続きを終えて手元に戻ってきた。
財布が入った鞄は、ずっしり重たい。