ごめんね、と言いながら百合の花瓶に水を足していた。
もう遅いけど、ごめんね、と。
そうしたら、うなだれてしまった百合の花のうち、蕾だったものが息を吹き返した。
なんてことだろう。
ぐきんと首を折られたみたいに俯いてしまっていた蕾が、花となって開いた。
なんてことだろう。
根はとっくに絶たれているというのに。
一度カラカラに水は枯れてしまったというのに。
ごめんねとありがとうとよかったでいっぱいになりながらオフィスに着くと、2か月も3か月もぎゅっとたたまれていた大きな観葉植物の大きな葉っぱが開いていた。
伸びすぎてしまって天井についてしまい、葉っぱが開けずにいた。
まだ使う前の包装紙みたいに、その葉っぱはあまりにもぎゅうっと巻かれていたから、もう開くことはないかもしれないと思っていた。
それでも、天井についてしまって成長を阻害されているのはかわいそうなのでベランダに出してあげていた。
開かれたその葉っぱは羽化したての昆虫のような危うさがあって、まだ開き切っていない部分の葉っぱは黄色に近い黄緑色をしている。
ビニールみたいな質感で、柔らかくて瑞々しい。
空に透かして見ると、美しい葉脈。
花が好きだなあと思う。
植物が好きだなあと思う。
今の私には、無感動、というのはとても恐ろしいことである。
いつからか私は自分の中の感動を食べて生きているような気がしていて、それが「満ちる」ということだと身体で知った。
時々、以前に感動を覚えた同じものに再度触れるとき、最初の感動とは程遠いような心持ちがすることがある。
最初の衝撃はなかったとしても、それに触れてさほど波立たなかったりぎゅうっとならなかったり。
もちろん「慣れ」とは起こるもので、そんなことは当然なのだけれど、それでも感動が減ってしまうことは怖いし悲しい。
この感動というものは、大きさを求めれば求めるほどアンコントローラブルになっていく。
アンコントローラブルな領域ほど、気持ち良いというか何というかまさに筆舌に尽くしがたいとでも言うべき状態。
ある程度まではたぶん、自分の状態や誰かと引き起こすこと、あるいはお酒などによっても助長することができるかもしれないものだと思うけれど、基本的には意識下で感動の渦に入ることは難しい。
ヒロトがハイロウズ時代のインタビューで言っていた、「ロックは出会った時が最高潮でその後は維持か落ちるか」というのはまさにその通りだと思う。
そのロックンロールの感動というのもは、経験や知識では得られない類のもっと突発的爆発的な何か。
そして、感動の高みやそれを求める人間の欲望にはおそらく際限はない。
高みというよりは、「在る」とか「無い」とかも超えた未知過ぎてどうでもよくなるという意味での宇宙空間のような。
感動を得るのにできることと言えば、その突発的な瞬間に立ち会える心の在り様を育てておくこと。
突発的とは言え、それがありそうなところに自ら突っ込み続けること。
一度触れてしまったものが下降の一途を辿ることを理解しつつ、何か新しいものに触れ続けること。
私が言っている「無感動」とは「穏やか」とは全然違う。
私は「穏やか」でありたいとも時々思ったりするけれど、いや、今私は「穏やか」にはなれないしなりたくないのだと思い返す。
でも、時々、疲れるなあとも思う。
でも、もっと欲しいなあと思う。
もう遅いけど、ごめんね、と。
そうしたら、うなだれてしまった百合の花のうち、蕾だったものが息を吹き返した。
なんてことだろう。
ぐきんと首を折られたみたいに俯いてしまっていた蕾が、花となって開いた。
なんてことだろう。
根はとっくに絶たれているというのに。
一度カラカラに水は枯れてしまったというのに。
ごめんねとありがとうとよかったでいっぱいになりながらオフィスに着くと、2か月も3か月もぎゅっとたたまれていた大きな観葉植物の大きな葉っぱが開いていた。
伸びすぎてしまって天井についてしまい、葉っぱが開けずにいた。
まだ使う前の包装紙みたいに、その葉っぱはあまりにもぎゅうっと巻かれていたから、もう開くことはないかもしれないと思っていた。
それでも、天井についてしまって成長を阻害されているのはかわいそうなのでベランダに出してあげていた。
開かれたその葉っぱは羽化したての昆虫のような危うさがあって、まだ開き切っていない部分の葉っぱは黄色に近い黄緑色をしている。
ビニールみたいな質感で、柔らかくて瑞々しい。
空に透かして見ると、美しい葉脈。
花が好きだなあと思う。
植物が好きだなあと思う。
今の私には、無感動、というのはとても恐ろしいことである。
いつからか私は自分の中の感動を食べて生きているような気がしていて、それが「満ちる」ということだと身体で知った。
時々、以前に感動を覚えた同じものに再度触れるとき、最初の感動とは程遠いような心持ちがすることがある。
最初の衝撃はなかったとしても、それに触れてさほど波立たなかったりぎゅうっとならなかったり。
もちろん「慣れ」とは起こるもので、そんなことは当然なのだけれど、それでも感動が減ってしまうことは怖いし悲しい。
この感動というものは、大きさを求めれば求めるほどアンコントローラブルになっていく。
アンコントローラブルな領域ほど、気持ち良いというか何というかまさに筆舌に尽くしがたいとでも言うべき状態。
ある程度まではたぶん、自分の状態や誰かと引き起こすこと、あるいはお酒などによっても助長することができるかもしれないものだと思うけれど、基本的には意識下で感動の渦に入ることは難しい。
ヒロトがハイロウズ時代のインタビューで言っていた、「ロックは出会った時が最高潮でその後は維持か落ちるか」というのはまさにその通りだと思う。
そのロックンロールの感動というのもは、経験や知識では得られない類のもっと突発的爆発的な何か。
そして、感動の高みやそれを求める人間の欲望にはおそらく際限はない。
高みというよりは、「在る」とか「無い」とかも超えた未知過ぎてどうでもよくなるという意味での宇宙空間のような。
感動を得るのにできることと言えば、その突発的な瞬間に立ち会える心の在り様を育てておくこと。
突発的とは言え、それがありそうなところに自ら突っ込み続けること。
一度触れてしまったものが下降の一途を辿ることを理解しつつ、何か新しいものに触れ続けること。
私が言っている「無感動」とは「穏やか」とは全然違う。
私は「穏やか」でありたいとも時々思ったりするけれど、いや、今私は「穏やか」にはなれないしなりたくないのだと思い返す。
でも、時々、疲れるなあとも思う。
でも、もっと欲しいなあと思う。