駅のコンコース、うしろを歩いてくる二、三人の若い女性の会話、聞くともなしに耳に入ってくる。
「ムカデ買うんでしょ」 「え、何 ムカデって」 「ほら お酉様行って皆かついで帰ってくる あ・れ・よ」
「あれって、熊手のこといってるのね。ムカデは足いっぱいある毒虫ジャン。」
今日は、二の酉。 百足(ムカデ)でも、八手(やつで)でもご随意にどうぞ。
お隣の玄関先に、今ちょうど八手の白いまるっこい花が咲いている。 「カッワイイ」
ホホホのほ だい。 てやんでぃ。べらぼうめ!
駅のコンコース、うしろを歩いてくる二、三人の若い女性の会話、聞くともなしに耳に入ってくる。
「ムカデ買うんでしょ」 「え、何 ムカデって」 「ほら お酉様行って皆かついで帰ってくる あ・れ・よ」
「あれって、熊手のこといってるのね。ムカデは足いっぱいある毒虫ジャン。」
今日は、二の酉。 百足(ムカデ)でも、八手(やつで)でもご随意にどうぞ。
お隣の玄関先に、今ちょうど八手の白いまるっこい花が咲いている。 「カッワイイ」
ホホホのほ だい。 てやんでぃ。べらぼうめ!
七五三のお祝いは、日本の伝統文化の一つ、七五三に限らず人生の通過儀礼は皆、日本の伝統の継承として意義あるものです。
生まれて、お宮参り。3歳、5歳、7歳と七五三祝い。京都関西方面での十三参り。 二十歳で成人のお祝い。
特に、お宮参りや、七五三は幼少の子供の無事に育つことを願っての厄払いの祈願。
特に、この節 子供達の安全が脅かされている時代。
虐待、いじめ、自殺、事故と ご難つづきにある子供達。
元来、日本は子供を大切にしてきた。 猫可愛がりでなく、厳しくとも成人して自立できるように手塩にかけて育てた。
「子は宝」と言う。天からの授かりものという考えに象徴される。
子供は、親の所有物ではない。
一方、「親はなくとも、子は育つ」と言う。これは子沢山で親が十分に手をかけられない時、子供達兄弟姉妹が協力して弟や妹の面倒を見ながら育つ事を言う。
虐待したり、自分の欲望のために殺したりするような親はないほうが良い。ひどい世の中になったものだと嘆いてもしょうがない。
日本のどこかで大きく歯車が狂ったのを、日本の伝統に基づいて是正しなければならない。
七五三などのお祝い事は、金がかかる。今風の合理主義に反するかも知れない。
しかし、親の為の七五三祝いでない。ささやかでも、子供達の無事と健康を祈り、立派に成長をする事を、神仏に祈願するだけの愛情を注いで欲しい。
日本の伝統の通過儀礼は、それぞれ深い意味があってのこと、おろそかにしないで、きちんと人生の節目を付けて子供達を不幸な事件に巻き込まれないよう皆して祈りたいものである。
三日前から、庭で竹刀と木刀をそれぞれ50回づつ素振りする事を始めた。 もう何年もやっていなかったので どうかと思ったが、どうにか続きそうだ。
そのあと 竹刀を体にそえて柔軟体操を少し、青い空を仰いだり、さわやかな朝の空気を吸ったりしてなんとなく健康によさそうだ。
頭の方にも新鮮な酸素が回って爽快な気分だ。
12日の日曜日は、家族で東村山まで、うどんを食べに行った。
こしのある誠においしいうどんであった。
手ぶらで、電車で二時間かけて行き、向こうで一時間ほど歩いて、また二時間かけてもどった。
昔のように、スケッチをするとか、カメラを持って行くとかでなく、また句帳と筆記具で俳句でもなく、なーにもしない単純極まりない空っぽの一時間は貴重な時であった。
武蔵野の空気に、うどんを喰う気をかけて、答えはご満足。
健康の秘訣が見えてきた。
吉天 爺 で検索 しばしば有ります。コメント部分に飛びます。
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ときおりお尋ね下されれば、幸甚でございます。
おすすめのカテゴリ
色の世界、きものの現場、一行法師など。
この時季、世間並みにブログのデザイン、クリスマスのテンプレートの中から選びました。
家の中も、クリスマスの飾りのようなものが、ぞろぞろといっぱい出てきました。
毎年 もうすぐすると、屋外にもイルミネーションを飾るのですが、今年は愛犬モナ号が9月に亡くなり、喪に服しこちらの方は差し控えます。
イエスさまの、生誕はクリスマス。お釈迦様の四月八日の花祭りも、もっと盛大になるといいのにな~。
でも、お寺にもクリスマスツリー飾ってあったよ?
Mと言うお店の店員さんは、お客の対応がうまい。
お客の気持ちをそらさないようにして、お話をころがしてゆく。
途切れることなく話の接ぎ穂を挿しかけながら、会話力で販売を伸ばしている。
日常会話にも参考になる。ぷつんと話が途絶えて気まずい思いの沈黙が続くと、いたたまれなく去るしかない。
テレビのバラエティの司会ように、笑いを取らなくてもよいから会話のキャッチボールが出来ればいい。
聞き上手は話し上手、コミニュケーションが途絶えると、宣戦布告のようなもの。
沈黙は禁
つれづれなるままに、兼好法師をもじって新カテゴリに健康法師を加えました。一行法師同様ごひいき賜りますよう願いあげます。
徒然草は元祖ブログなり。
序段
つれづれなるままに、日くらしパソコン(硯)にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
硯とパソコンを置きかえれば、そのままブログ事始めの言葉なり。
さて、健康管理上、深夜のパソコンいじりはやめて、朝ブロにしよう。
人間は、考える「あっし」である。
あっしは、めえーにち愚にもつかねえー事ばっか、けんげえーておりますだ。 あっしーたー、あっしのことよ。
「あっし思う、ゆえにあっしあり。」こちらはデカルトさんよ。
パスカルさんは、こう言いなさった。
「人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最も弱い葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。」
人にも良し、悪し あるつうんで、葦(あし)のこと、よし とも言うんだってさ。
この葦は、一本の管のようなもので、「葦(よし)の髄から天井覗く」って言うから、やっぱりパイプになってるのさ。こちらの諺は視野の狭いこと言うらしいが、インターネットのおかげで、視野は広くなっただよ。
元に戻って、人間も一本の管と言うか、葦と同じでパイプなんだが、曲がりくねってチューブのような管なんだ。変な話、のどから肛門までの管で出来ているのが人間と言う生き物だ。
その管の長さ、腸管だけで七メートルもある。
曲がりくねっても、いろは坂のようでもなく、折り畳んで丸めてうまく腹に収めてある。これを真っ直ぐに伸ばすと七メートル、長さは葦の比ではない。
そこでパスカルさんは、人間は葦である。考える葦である。と、くだをまいたとか。
そこで、あっしは考えた。 「人間 生きて行くには、おあしが大事だよ」。