今日は、暦の「大雪」、薄曇の中に真綿暈しの太陽が白い光の輪にぬけている。
その白い輪のなかに、黒い機影がすっぽり入って、今日も羽田を発つ飛行機が北に向けてゆく。
さて、降りる人の少ない駅の東口の、はじめての信号から、国道に出会う信号までの一キロ余の農道が、私の為だけにある「哲学の道」である。
道々 哲学するわけではないが、ここの自然が私を癒してくれる。
四季の花鳥風月のすべてがある。 なんとも贅沢な道である。
文学的素養を持ち合わせないゆえに、表現に事欠くのが、もったいない。
入り口から、少し入ったところから六,七本の桜の樹が並んでいる。春は桜の花やこぶしの白い花 、今どきは桜もみじも散り果て、山茶花の生垣がつづく、ややあって葱畑。その向こうは照葉樹のこんもりとした森や林。
中ほどの紅葉もなかなかの景観を呈する。
何千坪の梨畑は、今は黄金色の葉も落とし、つくつくと枝が空に向け伸びて休んでいるが、春になると真っ白な花が一面に広がる。
鳥も、めじろ、うぐいす、もず、ひよどり、尾長、セキレイ、つぐみと里の鳥が、多く見られる。ときに、こじゅけいの親子が道を横断する。
空を仰ぐと おおとりの、渡り行く雁行もみられる。
木枯らしにはじまり、寒く冷たい風雪もある。
そして、この師走の月もきれいだった。
都(みやこ)の「哲学の道」も、多くの人が好んで逍遙するが、私は京の真夏の盛り、汗たらたらと駆け抜けて、途中の茶店で冷たい掻き氷の一杯が無上においしかった。無粋な東男とお笑いめさるな。
やはり鄙には、鄙の「哲学の道」が、似おとおるで。 のう。