できの悪い子ほど、庇いたくなる母心(おやごころ)。
<何があっても、庇いとおす美しい国の首相>
幸福 一生瓜をつくっても、馬の蹄鉄をつくっても、又一生杉の箸をけづって暮らしてもさしつかえない。
何によらずその事が最善に達したなら その人の幸福であるし、又世にもいくばくかの貢献を残す。
(幸田露伴)
20代にノートに書きとめておいた箴言やことわざ、自分の糧になると思ったフレーズなど、今このブログに載せて皆様に、おすそ分けいたします。
今のように、自己啓発本や、サクセス本が数多出版されていなかったので、新聞や雑誌から、切り抜いたりしたものの中から心に留まったものを、書き抜いたものが、多いのです。
今日、同じ著者が、前作に少し手を入れたり焼きなおしたりで、100を超える数出しておられると、目から鱗の自己啓発本には行き当たりません。失礼ながら また彼の著者かと、著者名見ただけでうんざりです。
書き抜いたものを、今また真摯にかみしめたくなりました。
どうぞお付き合いくださいますよう願います。
父は、生涯にわたって、東京空襲の話を致しておりました。
「ズドーン。ビリビリ。ズドン、ビリビリ。ズドンビリビリ!」と空襲警報発令のサイレンと同時にB29の爆撃がはじまり、遠くから来たのが、すぐに直下になり、ズドン、ドン、バリバリと頭上に投下された爆弾の恐怖は生涯ぬぐえなかったのです。
折あるごとに、家族や親戚、知人や皆に語っておりました。
父は、何度も九死に一生を得る目に会ってきましたが、この時ばかりは生きた心地のしない恐ろしい体験だったと存じます。
昭和19年最後の連絡船で、中国大陸から日本に戻り、すぐに東京は蒲田にあった親戚の経営する電機メーカー(軍需工場)の下請け工場で、名目は工場長でも留守番のようなことになっていたのです。
昭和20年3月には、オーナーとその一族は、伊豆の方に疎開して誰も残っていなく、社員や工場の技術者たちもほとんど戦争にとられ、事務職員の女性と父だけが工場を守っていたそうです。
そしてむかえた、3月10日の空襲です。
逃げるにも、絶対安全という場所もなく、運を天にまかせて、ただうずくまっていたそうです。激しい爆撃のあと、お互い生きていたこと確認しふらふらと立ち上がり周りをみると、直撃弾が穿った大きな穴と穴の間にうずくまっていたのだそうです。
蒲田は、もともと埋立地の湿地帯で落ちた爆弾も破裂する事なく土中に不発弾として潜り込んだようでした。
レンコンを輪切りにしたような、穴は工場の敷地にそこかしこに開いていて、穴のふちにいても、爆発する事のなかったお陰で助かりました。
父は63歳で他界するまで、3月10日の東京大空襲のこの話は、恐怖の反面、生きておられたことの有難みもこめて皆に語っておりました。