「人」は生まれつき、「描いたり作ったりすること」が好きな動物だと言うことが、最近とみに実感できるようになりました。
中学生を教えているかたわら、その「熱中振り」には大人が忘れてしまったものがあるように思えてなりません。
人はいつから絵を描くことを、うとうようになったのでしょうか。「右にならえ」の考えが横行する毎日に、その人ではなければ感じられない世界のことを、わすれさせるものがあまりにも周りにありすぎるということになります。
ところが、こうした「秋の柿」を見た時、人はその「生命感」に心うばわれ、思わず見上げてしまうはずです。
「柿」の「生きた色」が人の心を動かし、それを表現したくなるのが普通の現象ですが、それを「会話」だけの世界で終わらせていることが多いいのではないでしょうか。
「光」があたった森の中を見て、その「光の存在」に思わず心がひきつけられ、立ち止まっていたことは誰にでもある経験です。
それを自分流に描いてみると、目で見たのとは違う世界が展開してきて、人の持つ「感性の魔力」によってくるはずです。
まして、その空間に「小鳥」という生命体がいたり、その生命体が交わす「愛」のような世界を見つけた時の作者の目は、いつしか「異次元の世界」へ飛んでいるはずです。
その作者が受けた印象が、やがて全体の色合いとなり、作品全体を作者の感性で覆うようになります。
そうしたことは、「スポーツ選手」を見た時にも言える事で、そこに見る選手の見えない裏側をパステル画というもので表現しています。
「陽ざし」の強い太陽の下での、選手の表情を確かな手ごたえでとらえ、その選手の内面までも表そうとしているこうした作品を見ると、「描く」ことえの「あくなき追求」のようなものが感じられ、「人がものを見て感じる世界」の幅の広さに驚かされる思いがあります。
「美しい!」「かわいい!」「きれいだ!」「愛らしい!」という表現は様々ですが、それがこうした作品になった時、その人しか感じられない世界があるのも、「表現」の大きな魅力の一つではないでしょうか。
「絵画」と言うものは、そうした作者のその時の「作者だけの感覚」を「永遠」に残してくれる、とても「貴重な存在」だと言うことが言えると思います。