国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

中近東イスラム圏は中国のように「西欧文明化」することが可能か??

2007年11月02日 | 中近東地域
東瀛小評(推薦文章) 福沢諭吉の「脱亜論」を読んで (林思雲) (2005/4/11)


  福沢諭吉の「脱亜論」は中国で広く知られている。中国では「脱亜論」に対する見方は大部分が批判であって、福沢は「アジアの隣国に対して軽蔑した態度を取り、列強を真似て侵略することを主張した」と見なされている。しかし「脱亜論」の断片を見たことがあるだけで、「脱亜論」の全文を読んだことのない人間が普通である。私がここで「脱亜論」を全訳したのはこのためであり〔訳注・2004年末に『日本華網』インターネットサイトで「脱亜論」全文の中国語訳を掲載したことを指す〕、関心のある人びとの参考にしてもらおうと思ったのである。
  「脱亜論」を翻訳する過程で多くの資料を参考にせざるを得なかった。しかしこのことはかえっていい勉強の機会になった。私が「脱亜論」を通読して得た第一の感想は、中国人は福沢諭吉のことを相当程度誤解しているというものである。なによりもまず私は、いわゆる福沢の「アジアの隣国に対して軽蔑した態度」という見方が問題だと思う。  
  その理由を述べるために、福沢が「脱亜論」を書いた背景を見なければならない。
  「脱亜論」が書かれたのは1885年である。この文章は『時事新報』(現在の『産経新聞』の前身) の社説として発表されたものであり、当初題名はなかった。「脱亜論」はのちに福沢の著作を出版する際、別人がつけた題名である。福沢がこの文章を書いたことについては、当時の日本の世論において闘わされていた思想的な論争の情況がある。日本は中国・朝鮮といった隣国の二国とどうつきあうべきかという論争である。  
  中国と日本は、冊封・朝貢関係の歴史である期間が長かった。言葉を換えれば一種の不平等な関係である。米国の砲艦が1853年に日本に侵入して日本は「日米和親条約」という不平等条約を強制的に締結せざるをえなくなった。こののち日本は英国・ロシア・フランスなどとも続けて同様の条約を結ばせられた。そして強制的に“開国” させられたあとの日本では、有識者が西洋強国の技術に学んで自強と自存を図るべしという主張が行われる。この情況は同時期の中国と非常に似ている。そして1868年の明治維新はこのような背景において起きた。  
  当時の中国、日本および朝鮮はともに西洋列強の侵略にさらされており、国家と民族の滅亡の危機に瀕していた。だから三国は西洋の侵略への“抵抗”という点においては利益を共有しているといえた。このような背景のもとに、日本では“興亜論”(のち“大亜細亜主義”も呼ばれる)を唱える人間が出現する。代表的な論客には勝海舟、植木枝盛、大井憲太郎、樽井藤吉など、当時の日本における有名な政治家や思想家が含まれている。“興亜論”は、日本とアジアは唇歯輔車の関係にあり、隣国が滅びれば日本にも危険が及ぶという認識に基づくものである。そのために彼らはアジア――中国と朝鮮が主な対象だが――の覚醒を促し、日本・中国・朝鮮が同盟を結んで三国が提携して共同で西洋列強に対抗するべきである、それが日本にとって最善の国策だと主張した。  
  中国でもアジアは連合して西洋の侵略に対抗すべしという、これと類似した思想が生まれていた。たとえば梁啓超の「亜粋主義」、章太炎〔訳注・章炳麟〕の「亜洲和親主義」、孫中山〔訳注・孫文〕の「大亜細亜主義」、李大の「新亜細亜主義」などである。
  “興亜論”はのちになると、“大東亜共栄圏”や“新東亜秩序”のような日本の指導下で西洋列強への共同抵抗理論に変化する。しかし1880年代の“興亜論”は、日本は中国・朝鮮と平等な関係で連盟を組織して西洋に当たることを主張している。なぜなら、当時の日本はまだ国力が微弱であり、当時の大国清とはきわめて大きな落差が存在したからである。
   このような“興亜論”に対して、相反する思想を唱えたのは福沢諭吉である。それが“脱亜論”である。  
  アジアを覚醒させ共同で西洋の侵略に立ち向かうという“興亜論”の構想に、中国と朝鮮は旧套を墨守し、改進を考えず、革新を望まない。だから日本は中国と朝鮮の覚醒に希望を持つべきではないと福沢は反対した。(ただし中国・朝鮮に有識者が出現して大規模な改革維新を行うのであれば話はおのずから別になると、福沢は断っている)。福沢は、時代遅れで昔ながらの伝統に執着する中国と朝鮮は、日本にとってまったく助けにはならない、それどころかこれら時代遅れで腐敗したこれら二国の“醜”によって、日本までもが西洋人から同じように時代遅れで腐敗していると誤解される、と。福沢はこの理由によって、日本はもはやためらうことなく、中国・朝鮮二国の非文明国家(“悪友”)との交際を拒絶し、ヨーロッパの文明国家と交流すべきだと説いた。  
  福沢が中国・朝鮮二国に将来の希望はないと見なした核心の根拠は、両国が西洋文明を拒絶する態度である。中国と朝鮮は、みずからを西洋文明から隔離し、自身の独自の文明を維持しつづけようとしている。ところが日本は西洋文明に対して積極的に摂取しようとする態度を取り、みずからを西洋文明のうちに投じて、運命を共にする道を選んでいた。福沢によれば、西洋文明とは“麻疹(はしか)”のようなもので、伝染性を持つものであり、拒否すれば列強に国を分け取りにされて滅ぶのであるから、中国と朝鮮による西洋文明の拒否は到底成功しない。そして後の歴史は、中国と朝鮮について福沢の予見が正しかったことを証明した。西洋列強が植民地主義思想を改めていなかったら、中国も同じく分割されていたことはほとんど疑いないからだ。  
  私は、「脱亜論」を読んで、近代において中国が蒙ってきたさまざまな苦難や屈辱はかなりの程度、中国人がみずから“選択”した結果ではなかったかという思いを禁じ得ないのである。 
  遠く20世紀の80年代に至って、中国はやっと“対外開放”の重要性を悟り、積極的に西洋文明世界に参入しはじめた。今日では“世界につながる”が流行語である。対外開放して20年あまりで、中国の経済は驚異的な発展を見た。今日に至って中国人は、その昔の日本の急速な発展の秘訣が“対外開放”であったことを、やっと知ったのである。  
  しかし日本人は自国の富国強兵の秘訣をべつに隠していたわけではない。120年も前に、日本の福沢諭吉という思想家が、中国の停滞の原因は西洋文明を拒絶したことにある、対外開放を拒否したところにあると、すでに指摘していたのだ。悲しむべきことに、中国人は100年も経ってから西洋文明と運命を共にすることと、文明を同じくすることで苦楽を共にすることの重要性を、やっと理解したのである。もし中国が100年前に対外開放に踏み切り、世界とつながっていたら、近代中国の歴史はきっと別の様相を呈していただろう。そうすれば近代中国の屈辱と傷痕に満ちた悲惨な歴史はなかったはずで、だから私は、中国が近代に蒙ったさまざまな苦難と屈辱はかなりの程度中国人がみずから“選択”したのだと言うのである。  
  もし当時の日本における“興亜論”と“脱亜論”のどちらがより正しかったかを言うとすれば、日本の立場からすれば、“脱亜論”のほうが正しかったということになる。事実においても日本政府は脱亜入欧の発展方針を選択した。もし日本がその時“興亜論”を選択して、中国と朝鮮が覚醒し、自強するのを待って、両国と同じ塹壕に立つことにしていたら、日本の今日の発展はあったか。福沢諭吉の“脱亜論”は、未来の展望としてきわめて正確なものだった。  
  福沢の肖像が日本の最高額紙幣の上にあるのも不思議ではない。彼を批判する人間もあまり聞かない。福沢は現在の日本があることに関して、日本人がもっとも感謝して当然の人物の一人なのだから。
<中略>
明治維新の日本は西洋に積極的に学んだが、当時、満清政府は頑迷固陋で西洋に学ぼうとしなかった、このことが近代中国の遅れをもたらしたという観点が、こんにちの中国で一般的となっている。しかし率直に言えば、この観点は半分の真実しか伝えていない。当時の満清政府が西洋に学んだ態度にはかなり積極的なものがあったからだ。洋務運動はその明らかな例の一つである。  
  あの当時、中国人は当初、中国が西洋に負けたのはただ兵器の質によるものにすぎず、中国という国家の体制には何も問題はないと考えていた。だから“軍事救国論”が出てきた。これが洋務運動とも呼ばれたものにほかならない。  
  「中国ノ文武制度ハ事事ニ遠ク西人ノ上ニ出デテ、独リ火器ノ万(けっし)テ及ブ能ワザルノミ。・・・・・・中国ガ自強スルヲ欲サバ、則チ外国ノ利器ヲ学習スルニ如クハ莫ク、外国ノ利器ヲ学習スルヲ欲サバ制器ノ器ヲ覓(もと)ムルニ如クハ莫シ。其ノ法ヲ師(マナ)ブモ、尽(ことごと)クハ其ノ人ヲ用イルヲ必セズ」  
  と、李鴻章は述べている(総理衙門宛書簡。同治三・1864年)  
  洋務運動は“軍事救国論”をその基礎とするものであった以上、西洋の軍事技術を習得することで自国を強化するという試みとなった。  中国で洋務運動が開始されたのは日本より早く、規模も日本と比較して大きい。
<中略>
甲午戦争以前の30年間、中国と日本とはともに西洋に学び、どちらも西洋の先進技術を積極的に取り入れた。だが西洋に学ぶ動機が両国では完全に異なっていたからである。  
  日本が西洋に学んだのはそれ以前の古い文明を棄てて西洋の新文明を全面的に導入するためだった。つまりいわゆる全盤西化〔訳注・全面的西洋化〕である。だが中国が西洋に学んだのは中国の中華文明を保持するためであり、富国強兵を目指したのは西洋文明からおのれを護るために自国を要塞化するためだった。
  一方で西洋文明を摂取し学習する中国は、もう一方では昔ながらの旧い中華文明を堅持しつづけようとするという矛盾した行動を取った。  
<以下省略>
http://toueironsetsu.web.fc2.com/Column/2005/c20050411.htm





東瀛小評 林思雲氏「福沢諭吉の『脱亜論』を読んで」の感想 (2005/4/11)
http://toueironsetsu.web.fc2.com/Column/2005/c20050411-2.htm








【私のコメント】
中国の「改革開放政策」とは、福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」の中国版である、という林思雲氏の主張は実に興味深い。日本はそれ以前の古い文明を棄てて西洋の新文明を全面的に導入したが、中国は旧い中華文明を堅持し続けるために西洋文明を学んだに過ぎなかったことがかつての中国の停滞を生み出したという内容である。中国が中華文明堅持に執着したのは、大文明国としての自信か、あるいは日本と異なって他の文明に学ぶという経験がなかったことが理由であろうと想像される。

私がこの文章を読んで考えたのは、停滞を続けるイスラム社会のことである。日本文明の源流が中国文明であるのと同様に欧州文明の源流は中近東文明であり、現在のそれはイスラム文明と同義である。中国が西欧文明化に踏み切って先進国への道を歩み始めることが出来たのに対して、イスラム社会は西欧文明化に踏み切ることが出来ずに停滞している。それはかつての中国の停滞と同じ理由なのかもしれない。そして、イスラム社会が停滞を脱するには、何らかの形で脱イスラム化を行うことが必要になるだろう。しかし、イランやサウジアラビアに代表される様に、トルコを除く中近東イスラム圏の政治はイスラム教の教義(イスラム法)に深く支配されている。つまり、支配階層であるイスラム学者(ウラマー)自身が脱イスラム化しなければならないのだ。それが果たして可能なのだろうか?私は正直なところ、中近東地域の文明化=西欧文明化は困難なのではないかとも感じる。イスラム社会に詳しい皆さん方の御意見を伺えれば幸いである。
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17 コメント

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妄想 (けんじ)
2007-11-02 20:49:50
史那文明と西洋文明は相容れないものがある。一例をあげれば、史那人は血縁しか信じていない。このことは機械の部品は機能と規格が逢えば誰が作ってもそれを使用する。そのときの信用はどのように働くか。
史那人はそれが出来るか。聞くところによると朝鮮人はそれができない。慶州の企業は光州の人を雇わないと聞くから。
 之は我々日本人にも言えるが、規範が身内とそれ以外と異なっていると言うことは同じ現象に対して立場によって異なると言うことである。之では自然科学は出来ない。現に沖縄の集団自決事件がことが明らかになってもそれを認めないということを公然と行動して政府もそれに答えようとしている。
 史那は私の乏しい勉強から考えると西洋文明は大東亜戦前は租界、今経済特区、もしくは都市部と呼ばれるその中だけで、西洋文明を学んだ史那的西洋が実現するだけだろうと私は予測している。
 では我々は何故西洋文明を受け入れ、ゼロ戦、戦艦大和まで作れたか。空母戦闘まで出来たのか。今では核弾頭を搭載できるロケットまで作れたのか。此処が大きな謎である。それは我々が無意識に持っている精神を調べて、知る必要があるが、私はどうもよく判らないが日本人に二種類の日本人が居ると密かに思っている。大体識別できるが、その一方の人々が自然科学がわかり、それを発展させることが出来て、他はそれに依存しているだけと思っている。
 福沢諭吉は史那人、朝鮮人を見て彼等は我々とは異なる、と言う単純なことを認識して、彼等と付き合えるか、付き合って何か良いことがあるかということを考えて、西洋と付き合ったほうが、我々の体質にあっていると認識したに過ぎない。
 之は不法入国して、強制連行できたと、我々日本人をたばかった、我国に住む外国人である朝鮮人を見れば十分である。
 私は何故彼等は我国の国籍を取り、韓国北朝鮮と我国が戦争をする時、最前線にたって、韓国北朝鮮と戦うと言う覚悟をしないのか不思議である。 
 アメリカへ移住した日本人、朝鮮人、史那人がかの国でアメリカ人からどのように認識されているかを調べるとわかる。又彼等がどのような職業についていて、どのような規範を持っているかをアメリカのCIAは十分調べて知っていると私は思うから、その報告書を読めばよい。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-11-02 21:04:21
意図的に社会の崩壊速度を緩める機能が宗教にはあった。プロテスタントが望むのはハルマゲドン。それは来年から始まり2018年までに完成する。世界の総人口は半分ぐらいまでは減るだろう。

http://pathfind.motion.ne.jp/economics.htm
そのため中世末期のローマ法王の中には、聖職者だか銀行家だかよくわからない人物が多く見受けられるようになってしまった。そしてそこを突かれて宗教改革が台頭してしまったわけだから、結局はこの方法がカトリック世界の墓穴を掘ってしまったことになる。
 一方イスラム文明について見てみると、彼らはこれとは少々異なるアプローチをとっていた。カトリック教会が意識的に社会を貧しくしようとしたのとは対照的に、イスラムは富というものが社会に行き渡ることを容認した。
 もっとも富というものがもたらす汚染を理解するという点ではカトリック教会と同様だったのだが、ただ違うのは彼らが富の集中を阻止することに主眼を置いたことであり、要するに濃縮されない限り、ウランは社会に出回っていてもさほど害はないというわけである。
 そして彼らがこの目的のために採用したのが「喜捨(きしゃ)」という手段だった。要するに金持ちが貧しい者に施しをすることを信との基本的義務に据えたわけである。現代西欧的な人間の目からすると、これはいかにも偽善めいて、実質的には到底うまく機能しないもののように見えるかもしれない。しかし意外にもこれは相当長期間にわたってちゃんと機能していたらしい。
 というより、現在でも中東ではこのシステムは結構機能しているらしく、例えばエジプトなどでは今でも年末になると、紳士がお札をたくさん持って街に出て、貧しい人々にそれをばらまく光景が見られるとのことである。むしろ問題は、こういう習慣に悪乗りして巨額の施しを稼ぎ出す「プロの乞食」がいることで、最近スーダンで見つかった凄腕の乞食に至っては、現代スーダン大卒男子の平均初任給の約800年分に相当する資産を乞食稼業で稼ぎ出してしまったというから仰天する。(保坂修司「乞食とイスラーム」筑摩書房)
 この種の「喜捨」に関しては、受け取った側もそれを当然のこととして、あまりお礼を言わない。このため、表向きの経済統計がかなり悪くても、社会そのものは西欧よりも遥かにそれに耐えられるもののようである。
 このような社会においては、せっせと貯蓄に励む人間というものは周囲から一体どんな風に見られるだろうか。ごく控えめに言ってもその人物は信徒としての義務の一つを全然果たしていないわけで、家庭用遠心分離機でウラン濃縮に熱中するこの人は、何か他の場所でよほど良いことでもしていない限り、近所から白眼視されることは避けられまい。
 さてカトリックとイスラムは、両者のアプローチは異なるものの、目的とすることにそう違いがあるわけではない。そして両者とも「利息の禁止」ということがもう一方の基本にないとうまくいかないことは明らかだろう。
 要するにまとまった金が誰かの手元にあったとき、まず利息を禁じておくことで、労せずしてそれをどんどん増やせるという希望を遮断しておく。こうして金を集中して温存する意義を失わせた上で、一方は天国行きの切符と引換えに教会の地下に吸収させる、もう一方は貧困層に分散するという手段で、その過度に集中した富に撤退路を与えるのである。
 このようにして、中世の文明は大変な労力を払って資本主義の成長をむしろ意識的に抑制しており、またその際に用いられた手段は極めて巧妙なものであった。近代はそうしたやり方を搾取というレッテルを貼って非難したが、別に彼らはそうすることで富を独占して贅沢を極めようとしていたわけでもないし、逆に近代資本主義の理屈を極限まで剥き出しにした80年代自由主義がバブルの温床となったばかりでなく、特に米国では明らかに貧富の差の増大を招く仕掛けになっていたことを思い出すと、少なくとも搾取という言葉だけは適合しないようである。
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誤字でしょう。 (たろう)
2007-11-02 23:25:58
史那と連発していますが、初見です。全く気が付かないとは、さては亀田史郎の見すぎですか?
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Unknown (Unknown)
2007-11-03 01:36:02
日本人はあくまでもアジア人でヨーロッパ人ではない。なる必要もなければなりたいと思うべきでもない。
ここで言う「脱亜入欧」とはつまるところ封建社会を捨てて民主主義、資本主義、抑制された競争主義を社会全般に導入する事で、「麻疹」のように襲ってくる西洋文明に対する免疫性を養い、なおかつ世界の大競争時代を乗り切って行こうやという思想だったと思う。

又、資本主義や民主主義は西洋が発明したものでもない。唯西洋の列強がこれらのシステムを導入する事で富国強兵に成功しただけの事だ。日本でも歴史上それらを「主義」とまで発展させないまでも実行していたところがあったと思う。(堺は良い例でしょう。)
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Unknown (Unknown)
2007-11-03 02:29:19

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071102-00000217-jij-int
損失先送りでヘッジファンドと取引か=赤字転落の米メリルリンチ-米紙
11月2日23時0分配信 時事通信

【ニューヨーク2日時事】
 2日付の米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは、今年7―9月期
決算で6年ぶりの最終赤字に転落した証券大手メリルリンチが、不動産
担保債券(MBS)関連の損失計上を先送りするため、保有するMBSを買い
戻し条件付きで、ヘッジファンドに売却していたと報じた。
 低所得者向け高金利型(サブプライム)住宅ローンの焦げ付き急増に
伴い、同ローンなどを担保に組み込んだMBSなど関連金融商品は価格下落
が続いている。メリルのMBS売却は一時的な損失隠しとも言え、同紙に
よると、米証券取引委員会(SEC)が調査に入る可能性がある。
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Unknown (Unknown)
2007-11-03 10:50:12
日本人はアジア人でもヨーロッパ人でもなく日本人である。異民族が日本人をアジア人にカテゴライズすることがあっても、日本人は自らアジア人と自称するべからず。

イギリス人が自らを西洋人と言うことは決してない。イギリス人はイギリス人だからだ。
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二種類の日本人 (名無しの経営者)
2007-11-03 16:27:18
本題から外れます。けんじさんが妄想で「二種類の日本人が居ると密かに思っている」と書いていることに関して書きます。

「一方の人々が自然科学がわかり、それを発展させることが出来て、他はそれに依存しているだけと思っている」と。小生もそう考えています。

自然科学が分るというのは、数学的思考が出来ることだと考えられ、それは、世界最大の陵墓である仁徳天皇陵を作った人物や、長大な歴史書である日本書紀を破綻なく書いた人物に見られると思っています。彼等はどう考えても、時代を超越しています。

現在もひっそりとその系譜を継ぐ人々が生きていて、その文化を遺伝子によって伝えているに違いないと考えているのです。残念ながら小生は、依存するほうの人種なので、遺伝子であろうとは、うすうす感じているのですが、どのようにその秘密の文化が伝えられているのか分りません。

徳川光圀、世阿弥、松尾芭蕉は、小生が知る色んな証拠からその世界の住人であったろうと考えています。史那と言う語の使い方などからは、けんじさんが、その世界の人だと考えるのですが…。

このブログ主人princeofwales1941さんは、明らかにその秘密の伝承者、遺伝子の持ち主であろうと妄想しています。
返信する
妄想2 (けんじ)
2007-11-03 20:02:17
>二種類の日本人 (名無しの経営者)
 この意見は私は初めて公開の席で述べました。知人とはよく話しますが、賛同者が居られるとは愕くと共にうれしく思いました。私も依存するほうの人間です。前はそうではないと思っていましたが。
>史那と連発していますが、初見です。全く気が付かないとは、さては亀田史郎の見すぎですか?      
 簡単に考えるではない。史那と言う言葉のいわれは調べられたら良い。只我々は日露戦争以後史那を馬鹿にし始めて、その言葉に軽蔑の意味がこもっていることを史那人は感じ、大東亜戦前の中華民国(之は近代国家ではない。今の中共もそうである)我国政府にその言葉を使わないでくれと何度も求めた。此処に史那との外交の秘密があるが。外務省はさらさらそれにきずいていない。ちなみに皇太子妃殿下の父親(平安時代なら藤原氏の位置)小和田氏はまだ外務省に居る。我々国民の感覚から言えば之はおかしいが当人はどうもそのように思っていない。それにしも、彼には不気味な感じがわたしはする。
 現在中国と簡単にマスコミは呼ぶが我々が若い頃は中共と読んでいた。そして台湾は中華民国と読んでいた。それが我々の正しい認識の元であるが、現在の中共は我国国民にそのように認識されたら困るから周恩来が苦心して我国の政治家学者マスコミ関係者を手なずけて、中国と呼ばせるようにした。つまりプロパガンダ用語(詐欺師の用語)である。そしてそれに協力した日本人が居る。彼等こそ我国を大東亜戦争へ導いた人々の子孫で、国内に居る我国の敵である集団の一部である。それと史那とはもう少し別である。それは勉強されたし。

 イスラム教に我々が接したのは何時ごろか。明治以降散発的にあり、人と直接接したのは中東に石油が発見された以降である。近々50年である。従がってわが国においてイスラム学者は少なく、しかもそれは西洋のイスラムに対する見方を通して、学んだからである。バイアスがかかっていると言うのが私の見方である。マスコミの報道はすべてそうである。元々我国にある学問は今は西洋に起因しているから尚更だが。
歴史的に見ると、ある程度の文化、文明を持った世界の有力な民族で一番遅く、イスラムに接したのは我々日本人だろう。朝鮮は史那の清朝時代に接していると思うが調べたことはない。之がイスラムに対する我々日本人の認識の元であると私は考えている。
 イスラム教は7世紀にアラビア半島に生じたユダヤキリスト教に属するものである。このことは中東にはそれ以前の文明の発祥以来つずいた世界があり、その上にイスラム教が乗っていると私は考えている。一応その世界を伝統社会と考えるなら、イスラム教はそれらに対して革新的な役割をしたのではと密かに思っている。
 実際にかの地へ行かれると良い。そこは我々とはまったく別の世界another world であるから、簡単に判断してはいけない。
 史那朝鮮と同じ血族社会が基本である。
人々は穏やかである。そして彼等はヨーロッパは野蛮であると思っている。
 ラマダンと言うイスラムの重要な行事があるが、之は日の出から日の入りまで食べてはいけない(つばもいけないと聞く)と言うことだが、之を彼等は幼い頃からしている。之が何を意味するか?何を意味するか考えられたら良い。その彼等が自爆テロである。

 民衆は本当に貧しいが石油の高騰で彼等が豊かになっていかれることを私は願ってやまない。
 豊かになると言う事は原子爆弾を作れるようになり、尚且つそれが管理できるようになることだがそれが 大きな問題である。知識の問題ではない。
 この点我国と同じである

 



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Unknown (とおる)
2007-11-03 21:51:29
中東のイスラム社会の発展は、脱イスラム化を行うことでは無く、イスラムの活性化を行いアラビア文化の最盛期を思い出すことと思います。
返信する
Unknown (Unknown)
2007-11-04 02:17:31
全てはシナリオという説もありますね。

http://www.teamrenzan.com/archives/writer/omnibus/tokuseirei.html
2008年は中東五箇所で戦争の可能性
PDAオムニバス
パキスタンで非常事態宣言
返信する

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