国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

モンゴル旅行記

2010年08月23日 | トルコ系民族地域及びモンゴル
●先日、モンゴルを旅行した。HISの安いツアーで三泊四日の短い旅であったが、見たこと、感じたことをここに書き残しておく。

出発は成田空港昼発のミアットモンゴル航空の直行便。エアバス330型機であった。約300人乗りだと思われる。夏期はこの飛行機が成田に週3往復来ている他、関空にも便があるらしい。機内食は普通。個人用モニタはない。客室搭乗員はなぜか西洋風顔立ちの人ばかり。聞いてみると、3人のモンゴル人を除くとトルコ人らしい。夕方にウランバートルの空港に到着し、入国を終えた。


現地ガイドと会い、総勢10名でバスに乗って数十キロ離れたテレルジのキャンプ場に向かう。寒い。8月というのに、気温は10度以下らしい。テレルジに着いた時は日も暮れて暗くなっていた。ゲルに入る。4人部屋で、男女別の相部屋である。薪のストーブを焚くと暖かい。空は曇っていて星も見えないので、ガイドから貰った夜食のサンドイッチを食べて寝た。


翌朝起きる。寒いが晴れている。外は大きな岩が散在する起伏のある草原で、所々木も生えている。朝食まで周囲を散歩して過ごす。日本にはない雄大な草原の光景は素晴らしい。


今日の日程は、午前3時間、午後3時間の計6時間の乗馬である。朝食を終えたあと、ガイドにヘルメットと膝当てを貰って装備する。坂を上がった所で待つこと三十分、やがて遊牧民が率いる馬の群が現れた。


モンゴル人は木の鞍を使うが、私たち日本人旅行者の馬はロシア式のクッションのある鞍である。左足をあぶみにかけて馬に乗る。生まれて初めての乗馬なので、非常に怖い。馬が動くと体勢が崩れて落馬しそうになる。総勢10人で、馬に乗って大草原をゆく。雄大な草原は非常に爽快で、チンギスハンになった気分である。


遊牧民が「チョー、チョー」と叫び、お尻を鞭で叩かれると馬は小走りになるが、この時に馬の体が上下に動くため、尻が鞍にぶつかって痛い。馬に歩いて貰う方が乗っている方は楽である。大草原をゆくこと一時間半で亀石と呼ばれる大きな岩の所に着く。


ここで馬を下りて小休憩。西洋人の観光客もいた。その後キャンプに戻って昼過ぎに昼食をとった。

午後は遊牧民の家を訪問した。馬で草原を行くこと一時間あまりで遊牧民のゲルに着く。ここにも西洋人の観光客が沢山いた。聞くと、ポーランド人の観光客で、モンゴル全土を20日かけて廻るツアーの最中だという。日本人には考えられない、長期休暇での優雅な旅行である。ポーランド人は能力の割に良い生活をし過ぎている様に思う。今後、ドイツ以外の欧州諸国が没落する中で、ポーランド人も生活水準の低下を余儀なくされていくことだろう。

ゲルはガイドの仲間の親の家だという。中は広くないが、清潔である。民主化前のモンゴルは子沢山で、親はベッドで休み、子供たちは床に転がって寝たらしい。馬乳酒とチーズをごちそうになる。おみやげに日本のキャンデーを渡した。帰りも馬に乗ってキャンプへ戻る。膝が非常に痛い。馬に乗っていると膝関節が内側に曲がるためではないかと思われる。

写真は全員馬から下りた後。

夕食は、我々日本人客の他、韓国人客、西洋人客、ロシアのブリヤート人など様々な客がいた。ブリヤート人の言葉にはロシア語の語彙が多数入っており、早口だとモンゴル人にも聞き取れないと言う。内モンゴルのモンゴル人の言葉も中国語の語彙が多く、モンゴル国のモンゴル語とは少し違っているらしい。このように言葉が違ってきている現状では、内モンゴル・ブリヤートを統合した大モンゴル国の建設はまず不可能であり、今後も三つの国に分かれて暮らしていく他にないだろうと思われた。

キャンプで夕食を済ませた後、ガイドと一緒にキャンプから歩いて十分の商店に行きアイスキャンデーを買った。店は商品の数も品揃えも少ない。共産主義時代そのままか、という感じである。夜は雲もなく星がよく見えた。

三日目は朝食を済ませた後、ウランバートルの市街地に戻って観光である。最初はチベット仏教の寺であるガンダン寺を訪れた。


子供が寄ってくるが、ガイドに「スリかもしれないから鞄を体の前に廻すように」と注意を受ける。寺は大きく、巨大な仏像があった。モンゴル人の信奉するチベット仏教の指導者であり最初の国家元首でもあったボグド・ハーン(ジェプツンダンバ・ホトクト8世)の眼病の治癒を願ったものだという。仏像の前には、ダライラマの若かりし頃の写真と、ボグド・ハーンの後継者であるチベット仏教の活仏(ジェプツェンダンバ9世)の写真があった。ガイドによると、ジェプツェンダンバ9世はチベット人で今もチベットに住んでおり(wikipediaによると1960年のチベット動乱の際にインドに亡命しているとされている)、モンゴル人が彼を元首にしようという意見はないという。また、モンゴルにはチンギスハーンの血を引く者が沢山いる筈だが、70年間の共産主義時代に誰が誰か分からなくなってしまったという。共産主義時代初期にはチンギスハーンの子孫が粛清されたという話もガイドブック「地球の歩き方」に書いてあったので、粛清を恐れてチンギスハーンの子孫であることを隠しているのかもしれない。共産主義時代は、宗主国であるソ連を侵略したチンギスハーンは悪者であり、歴史で教えられることもなかったという。観光客としては、チンギスハーンの子孫に是非名乗り出て貰い、国家元首としてハーンの地位について貰えると非常に面白いのだが。

ガンダン寺の次は、ウランバートルの中心にあるスフバートル広場を訪れた。広場の真ん中には、スフバートルの像がある。


彼はモンゴル革命の英雄である。若くして死去しているが、原因は反革命派の僧侶による毒殺だという。なお、ボグド・ハーンもモンゴル国元首就任後3年で死去しているが、彼の死因は病死であり、高齢であることも考えると自然死と思われる。ウランバートルは昔は「フレー」という名の町であったが、革命後にウランバートルと改名している。ウランは赤、バートルは勇者という意味で、共産主義革命とスフバートルを記念しているというガイドの説明であった。また、広場の端には新しく作られたというチンギスハーンの像があり、人々がその前で記念写真を撮っていた。


スフバートルらによるモンゴル革命は中国からの独立をもたらしたが、1930年代を中心とする共産主義政権の粛清の嵐はモンゴルに大きな打撃を与えた。当時のモンゴル人成年男子の何分の一かが殺されたという説もある。チンギスハーンが歴史から抹消されるなど、その悪影響は非常に大きかったと言えるだろう。ただ、もし中国からの独立に成功しなかった場合を仮定するならば、恐らくモンゴルは第二次大戦後にチベットと同様の運命を辿り、膨大な中国人移民によって民族消滅の危機に直面していたことだろうと思われる。また、ユーラシア大陸を共産化するという国際金融資本の方針を考えると、モンゴルの共産化や共産主義による粛清、宗教などの文化破壊は避けられなかっただろうと思われる。スフバートルを毒殺した僧侶たちが危惧したことは現実化したのだが、それを避ける方法はなかったのだ。結果的に見れば、モンゴル革命は大きな悪影響を残したものの、中国からの独立を達成したという点でやはり有益であったと考えられる。

昼食の後はホテルに向かった。午後はガイドと別れて自由行動の予定である。ホテルにチェックインした後、観光に向かった。最初に訪れたのはボグド・ハーン宮殿博物館である。


ボグド・ハーンの使っていた椅子や夫妻の肖像画などがあった。ガイドによると、モンゴルのチベット仏教では妻帯は許されているが、高位の僧侶は妻帯しないという。ただ、最高指導者であるはずのボグドハーンは妻がいたという。この辺の事情はよく分からない。

ボグドハーン宮殿博物館の後は、政治粛清祈念博物館を訪れた。地球の歩き方の地図では1km程度の距離だったが、近くに着くまで歩いて30分程度かかった。道路は狭くはないのだが大渋滞で、タクシーに乗ってもあまり時間は変わらなかっただろう。バスやトラックは韓国製中心、乗用車は韓国製と日本製が4:6ぐらいの割合だった。日本車は皆右ハンドルだったので、恐らく中古車と思われる。車の運転は非常に荒っぽく、交差点は混乱している。博物館の場所はわかりにくく、近所の人や通行人に聞いて廻って探すのに30分ぐらいかかった。博物館の中は、粛清された人々の写真・遺品やその説明と思われる記事が多数展示されていた。ただ、ほとんど全ての記事がモンゴル語(キリル文字及びモンゴル文字)であり、私には理解できなかったのが残念であった。

写真は粛清された人々の骨

その次は、モンゴル軍博物館を訪れた。地球の歩き方の地図では1.5kmぐらいの距離である。タクシーで行こうと思ったがなかなか捕まらないので徒歩に変更した。20分ぐらいで着くかと思ったら1時間近くかかった。恐らく、地図の縮尺は間違っていると思われる。博物館の入り口でバスから降りてくる若者たちに急に日本語で話しかけられた。聞くと、立教大学の学生で、大学のゼミで博物館を訪れているという。一行にはモンゴル人の学生もおり、博物館の中で日本人の学生に展示の説明をしていた。博物館の中はチンギスハーン時代の資料からボグドハーン政権時代の展示、ノモンハン事件・1945年8月9日以降のソ連・モンゴル連合軍による満州侵攻、そしてイラクでのPKO活動の展示まで、各時代のモンゴル軍の活動が示されていた。興味深かったのは、1910年代のボグドハーン政権が内蒙古東部を支配している地図であった。

チンギスハーンはこの様な牛の引く移動ゲルで指揮を執っていたらしい。


1911-1919のボグドハーン政権は外モンゴルだけでなく内モンゴル東部も支配下に収めていた。


ノモンハン事件。日本・満州連合軍とソ連・モンゴル連合軍の戦いで、日本側が大敗した。ソ連軍の総司令官は1953年にベリヤやカガノビッチを逮捕しソ連を国際金融資本から解放したジューコフである。


1945年8月に満州国にソ連・モンゴル連合軍が侵攻した様子。


博物館に17時の閉館直前まで滞在した後、地球の歩き方によると19時まで開いている国立民族歴史博物館に行くことにした。モンゴル軍博物館の前にはバス停があり、ここで軍服を着た中年男性にバスでスフバートル広場(国立民族歴史博物館の近く)に行けるかどうか英語で聞くと、可能だという。彼は45才のモンゴル軍軍人で、アフガニスタンに駐留していたと言っていた。彼に教えて貰って広場行きのバスに乗る。彼はバスの車掌に、「この客はスフバートル広場で降りる」と話してくれた。運賃は300トゥグルク(約20円)で格安である。バスの中はスリが非常に多いという話なので、カバンを体の前にして注意して乗っていた。広場の近くに着くと車掌や周囲の乗客が降りろと教えてくれた。モンゴル人は親切な人が多い。

広場に着いて博物館に向かう。到着したのは17時40分であった。入り口を見ると、夏期の開館時間は18時までとなっている。入り口で訊ねると、もう入場できないとのこと。ガイドブック発行後に開館時間が変更されたのだろう。見学は諦めて、夕食をとることにした。広場から歩いて十数分の所に、国営の大型デパートであるノミンデパートがある。このデパートの前にモンゴル料理のファミリーレストランがあるとガイドブックに書いてあるのだが見つからない。店のある筈の所に行くと、工事中であった。諦めて、近くの土産物屋に入って土産物を買い、ついでにモンゴル料理店を教えて貰う。歩いて数分の所(サーカスの近く)にモンゴル食堂があった。そこで地球の歩き方のモンゴル料理の欄を見せて、「この中で、この店で食べられるものはあるか?」と聞くと、肉入り焼きそばらしき料理が食べられるという。それを注文し食べた。値段は3250トゥグルク、約220円である。料理はやや脂っこく、きしめん状のコシのない麺であった。肉は羊肉かと思われるがそれほど臭みはない。量はかなり多く、ボリューム満点である。


食事を終えた後、買い物をしようとノミンデパートに戻る最中にスリにあった。モンゴルではスリが非常に多いとガイドに口を酸っぱくして注意されていたのだが、人通りがそれほど多くない場所なので油断してカバンを背中にしょっていたのが拙かった。歩いている途中にカバンが急に少し動き、変だと思って歩みを止めると横を大柄な人間がすり抜けた。スリだ、と思ってカバンを見るとチャックが開いている。ただ、幸いなことに貴重品は何も取られていなかった。前を見ると、スリと思われる人間が堂々と歩いていた。大柄な男性で、若そうであった。

モンゴルでは民主化後、農村経済が崩壊して人々がウランバートルに流入し、マンホールに住むストリートチルドレンまで出ているという。街角にも、卵を並べて売っている男性など、貧弱な品揃えの物売りが目立つ。道路が大渋滞するほど多くのモンゴル人が自動車を保有する様になったという明るい面もあるものの、やはりこの国の経済はうまくいっていない。民主化を先行させるというモンゴル式のやり方は、開発独裁の中国と比較して失敗であったと思われる。もう一つの問題点は、遊牧民族であるモンゴル人が果たして現代の工業化社会・情報化社会にうまく適応できるかという点にある。世界中の遊牧民族で先進国並みの所得を享受しているのはアラブ産油国だけである。遊牧民族は工場労働者としては適性が低いのだと思われる。情報化社会ではどうなるかまだはっきりしていないが、あまり期待できないのではないか。結局、モンゴルは鉱物資源と農業と観光で生きて行くより他にない様だろう。この国が将来ロシア圏に属することになるのか、日本を中心とする東アジア圏に属することになるのかはわからないが、日本としては、モンゴルを親日国に育てると共に、モンゴルで職にあぶれた人々が非熟練労働者として日本に流入することの無い様に入国管理を厳しくしていく必要があると思われる。

気を取り直してデパートに入り、安いと聞いていた輸入物のキャビアを買う。一瓶あたり四千数百トゥグルク(300円余り)と格安であった。デパートからホテルまではタクシーで帰ることも考えたが、食後の運動のために徒歩で帰ることにした。デパートの一階の両替屋で残ったモンゴル紙幣を全てドルに変えたあと、ホテルに向かう。ロシアから北京に向かう鉄道の線路を陸橋で越えてホテルまで、歩いて約30分であった。ホテルのカウンターで翌朝のモーニングコールを頼んで部屋に戻る。後は寝るだけである。

翌朝は4時にモーニングコールで起きた。ホテル発は4時30分である。4時10分にロビーに行くと既にガイドが来ていた。早朝だが朝食が食べられるというので食事を済ませてガイドと一緒に車に乗る。空港着は5時前であった。チェックイン・手荷物検査を済ませた後、待合室で出発を待つ。朝6時台に東京行きと北京行きの便があり、待合室は朝5時台というのに日本人や欧米人で混雑していた。免税品店で時間を潰した後、飛行機に乗ってウランバートルを後にした。客室搭乗員は往路と同じく、トルコ人が多かった。







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3 コメント

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Unknown (76号)
2010-08-23 09:53:16
ですからね日本とモンゴルが仲良くなってもらっちゃ困る勢力が居るんですよ。
朝しょうりゅう(漢字わかんない)たたきはそれなんです。
その勢力というのはご存知の例の連中です。

半島の人には「もうこはん」は無いといいますよね、あの青い痣みたいなやつ赤ん坊の。
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Unknown (ウタリ)
2010-08-24 19:02:40
モンゴルというと済州島には蒙古馬が生息している上にモンゴル軍の落とし子の末裔がいるらしいですね。

確かに天山広吉という済州島系と思われるプロレスラーがいますが彼の容姿は目の色も含めて朝鮮人よりもモンゴル人に近い(気質は天然で日本人に近い気がします。)

この繋がりは国際情勢上興味深いと思います。
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Unknown ()
2010-08-26 14:22:42
旅行お疲れ様です
僕はモンゴルが大国になることは100年単位でかんがえてもないと思います
ロシアと中国と接してるので両者を渡り歩く感じで商売をするんじゃないですかね?
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