エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XVI-4

2021-11-22 11:26:33 | 地獄の生活

それらを古道具屋はいちいち手でいじくり、撫で回しては、からかい、貶すのだった。ルーブル宮の中に居る思いだったのに、ただのあばら家だったと示して見せたのだ。これじゃあ人はわざわざ買いませんねえ……こんながらくたを誰が欲しいと思うでしょうか……何たることか!金を必要としているということに付け込み、買い叩く…… それが彼の仕事なのだ。

「これにはいくら払いました?」と彼は家具の一つ一つについて尋ねる。

「これこれです」

「それはそれは!……それじゃ盗っ人同然だ」

確かに盗っ人はいる。彼こそがそれだ。しかし、何が言えよう? 別の古道具屋を呼んだとしても同じことだろう。

マダム・フェライユールは家具を購入する際一万フランは支払ったので、少なくともその三分の一の値打ちはある筈であった。が、彼女が手にしたのは七百六十フランだった。急を要していたし、現金で支払われねばならなかったことは確かなのだが。

九時の鐘が鳴り、旅行かばんを辻馬車に積み込むと、彼女は息子との打ち合わせどおり御者に向かって大声で言った。

「ル・アーブル広場……鉄道の駅まで行って頂戴!」

以前にも一度、ならず者のために一文無しにされ、所持していたものを全て手放さねばならなかったことがあった。住居を古道具屋に委ね、かつての財産の残骸を馬車に積んで出発しなければならなかったことが以前にもあったのだ。

しかしそのときとは大違いだった。そのときは皆が列をなしてやって来てくれ、尊敬と同情そして友情が彼女慰めてくれた…… 声を揃えるように彼女を称賛し褒めたたえてくれたので苦い思いが幾分か和らげられ、勇気を二倍にしてくれたものだ。

ところが今夜は、彼女は一人こっそりと逃げだして行くのだ。偽の名前を使い、監視され見つけられることに怯えながら、まるで犯罪者が自分の犯してしまった罪の思いに追い立てられ、懲罰を恐れるかのように。

彼女の夫の亡骸を墓地に運んで行った日、弔いの馬車の中にぐったりと腰を下ろし息子を膝に乗せていたときの彼女の苦しみは今ほどは大きくなかった。夫は彼女にとってすべてであり、心は夫だけを思い、夫こそが愛情、誇り、幸福そして希望であったというのに。取り返しのつかない不幸に打ちのめされ、自分を打ち砕く運命の手に無力感を味わっていた……。しかし今は人間による悪意そのものが息子を陥れたのである。彼女の苦しみは、自分の潔白を証明することが出来ないために身を滅ぼされる無実の人間のそれであった……。11.22

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1-XVI-3

2021-11-14 10:09:43 | 地獄の生活

「必ず彼女の手に渡る方法があるんです」と彼は答えた。「マルグリットが私に言ったんです。もしかして何か大きな危険が降りかかってきそうになったら、ド・シャルース伯爵の信頼を得ている女中のマダム・レオンを呼び出して彼女に伝言を委ねるようにと…… 今がその方法を用いるときだと思うんです…… 自分でクールセル通りに行ってマダム・レオンを呼んで貰い、この手紙を彼女に渡します。これで安心しましたか、お母さん?」

そう言うと、彼は大きな箱の中に自分に託されていた書類を全て詰め込み始めた。この箱は彼のかつての友人の一人のところへ運ばれ、そこから本来の所有者に返却して貰うつもりであった。次に個人的に貴重な書類、それに所持していた有価証券をまとめ、訣別の覚悟を決めると、ウルム通りのこのつつましいアパルトマンを最後にぐるりと見渡した。ここでは努力の結果が成功という形で彼に微笑みかけ、幸福なときを過ごし、素晴らしい将来の夢をはぐくんで来たのだった。やがて彼の胸は熱くなり、涙が目に浮かんできた。彼は母を抱きしめ、急いで出て行った。

「可哀想な子……」マダム・フェライユールは呟いた。「可哀想なパスカル!」

彼女もまた可哀想な身の上であった。二十年という年月に隔てられてはいたが、幸福のさなか突然不幸に襲われるのはこれが二度目であった。しかしこの日もまた、夫の死の翌日にそうであったように、彼女は力強いエネルギーが内に湧き上がってくるのを感じていた。それは母親というものが持つ英雄的な粘り強さであり、いかなる不幸をも跳ね返す力であった。

彼女は毅然とした声で家政婦を呼び、家具商人を探してきてくれるよう頼んだ。すぐに来てくれて現金で支払ってくれさえすれば誰でも構わない、と。やがて家具商人が現れ、すべての部屋を見せて回るときでも彼女は自制して何も言わなかった。心中はしかし、いかばかりの苦しみだったであろう。自分が所有している一切合切を売り払わねばならないほどの困窮に陥った者にしかこの苦痛の何たるかは分からない。

家具商人が到着したその運命の時、どの家具もごく小さな装飾品に至るまで、持ち主にとっては何よりも特別な価値を持つように思われた。手放さなくてはならない物の一つ一つが血管の血を一滴ずつ奪っていくかのようだった。古道具屋がその貪欲な脂ぎった手で家具を一つずつひねくり回す度に冒涜を非難する声を聴く思いだった。

生まれたときから贅沢な品々に囲まれて暮らしている富裕な人々はこのような苦しみを知らない。というのは、ある物を欲しいと思い、長い間その思いを胸に秘め、やっと手に入れたときの子供ような喜びを思い起こさせないものは一つとしてないからだ。立派な肘掛椅子が届けられたときの喜び! 天鵞絨のカーテンを買う前、何度店のウィンドウを眺めに行ってはうっとりしたことか! この絨毯は何か月の節約の成果であったことか! そしてこの素敵な置時計……ああ、この時計は幸福なときだけを告げる時計だと思っていたのに!11.14

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1-XVI-2

2021-11-12 11:14:44 | 地獄の生活

「分かったわ。そうします。もし私が見張られていたとしても、誰にもこの策略は悟らせません。でその後は?」

「その後は上の階に上がってください。私はそこにいますから…… それからお母さんを私が見つけた寝ぐらまでお連れします。で、明日になったら使いに受領証を持たせ、預けておいた荷物を取ってきて貰うのです」

マダム・フェライユールは同意した。このような不幸に見舞われても息子の心が折れてなかったことを幸いと感じていた。

「パスカル、私たち、今のままの名前で通す?」と彼女は尋ねた。

「ああ、それは……取り返しのつかない大間違いになりますよ」

「それじゃ、どういう名前を名乗りましょうか? 決めておかないといけないわ。鉄道の駅で聞かれるでしょうから」

彼はしばし考え、やがて言った。

「お母さんの結婚前の姓にしましょう…… 私たちに幸運をもたらしてくれますよ。私たちの新しい住まいはモーメジャン未亡人の名前で借りることにしましょう」

更にしばらく彼らは時間を取り、注意しなければならない点を忘れていないか検討した。全て大丈夫と確信するとマダム・フェライユールは言った。

「それじゃもうお行きなさい」

しかしその前にパスカルには果たさねばならない義務があった。

「マルグリットに知らせねばなりません」と彼は呟いた。それからデスクの前に座ると彼は恋人に手紙を書き始めた。事の次第を簡潔に伝え、思い切った行動に出る決心をしたこと、新しい住所が決まり次第彼女に知らせること、そして最後にもう一度会って自分の口から詳細を伝え、心の願いを述べる機会を与えてくれるよう頼んだ。自分が無実である証明は一言だけで十分だった。自分がその犠牲となった奸計については触れる気さえなかった。彼はマルグリット嬢の愛情を受けるに値する男だった。彼女が自分に対し持ってくれている信頼は揺るぎないことを知っていた。

息子の肩の上に屈みこみ、マダム・フェライユールは彼が書いたものを読んだ。

「この手紙は郵便で送るつもり?」と彼女は息子に尋ねた。「大丈夫ね? 必ずマルグリット嬢の手に渡るわね? あなたの敵のために働いている誰かの手ではなく?」

パスカルは頷いた。11.12

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1-XVI-1

2021-11-11 09:09:14 | 地獄の生活

XVI

 

 

考える暇もなくいきなり暴力的に自分の過去を断ち切られ、引き裂かれ、無にされてしまったとしたら…… そして今まで生きてきた人生を自らの意志によって捨て、出発点に戻りまた一から出直さねばならないとしたら…… 勝ち得てきた地位、慣れ親しんだ仕事、大切に育ててきた夢、友人たち、習慣、付き合い等、すべてを擲つこと…… 馴染みのものを切り捨て見知らぬものに向かう、確かなものを後に残し不確かなものを求めに行く、光に背を向け闇に入っていく…… 一言で言うなら、自分の人格をはぎ取られ、別の見知らぬ人格を身に着けるということ。名前、生活の場所、身分、外見そして服装を変え、嘘を生きるということ。自分であることをやめ、他の人間になるということ……

こういったことには並々ならぬ決意と精神力が必要であり、それの出来る人間は殆どいない。よほど腹の据わった悪党でも尻込みし、このような犠牲を払うよりは法の裁きに身を委ねるものだ。ところがパスカル・フェライユールはそのような勇気を持った男だった。彼ほど誠実な人間は他にいないほどなのに、その誠実さを世にも悪辣な奸計により奪われたのである。母親の説得とトリゴー男爵の励ましを受け、ようやく彼に思考力と明晰さが戻ってきたので、いまや彼の頭にあるのは、しばらく姿を消し、非道な排斥から逃れ、密かに復讐と名誉回復の時を待つということだけだった。マダム・フェライユールと息子は、すぐに全ての点で合意した。

「お母さん、私は出発します」とパスカルは言った。「二時間以内に質素なアパルトマンを借り中古の家具を揃えます。私たちはそこに身を隠すのです。パリの外れに都合の良い一角があるのを私は知っています。そこなら誰も探しに来ない筈です」

「それで私は」とマダム・フェライユールは尋ねた。「その間何をすればいいの?」

「お母さんは大急ぎでここにある私たちの物を全て売り払ってください。全てです。私の本も全部。残すのは私たちの衣類、下着など、三つか四つの鞄に入れられる物だけです……私たちは見張られているに違いありません……大事なのは、私がパリを出て行き、お母さんが後で私に合流すると皆に思わせることです」

「で、すべてを売り払って、荷造りが終わったら?」

「その後はね、辻馬車を呼びにやって、荷物を積み込ませ、その後大きな声で御者にこう言うんです。『鉄道の西駅まで行って頂戴』と…… 着いたら、鞄を下ろさせ、駅員に倉庫へ運んでくれと頼むのです。そして受領証を貰ってください。明日までは出発しない、と見せかけるためです……」11.11

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