XVI
考える暇もなくいきなり暴力的に自分の過去を断ち切られ、引き裂かれ、無にされてしまったとしたら…… そして今まで生きてきた人生を自らの意志によって捨て、出発点に戻りまた一から出直さねばならないとしたら…… 勝ち得てきた地位、慣れ親しんだ仕事、大切に育ててきた夢、友人たち、習慣、付き合い等、すべてを擲つこと…… 馴染みのものを切り捨て見知らぬものに向かう、確かなものを後に残し不確かなものを求めに行く、光に背を向け闇に入っていく…… 一言で言うなら、自分の人格をはぎ取られ、別の見知らぬ人格を身に着けるということ。名前、生活の場所、身分、外見そして服装を変え、嘘を生きるということ。自分であることをやめ、他の人間になるということ……
こういったことには並々ならぬ決意と精神力が必要であり、それの出来る人間は殆どいない。よほど腹の据わった悪党でも尻込みし、このような犠牲を払うよりは法の裁きに身を委ねるものだ。ところがパスカル・フェライユールはそのような勇気を持った男だった。彼ほど誠実な人間は他にいないほどなのに、その誠実さを世にも悪辣な奸計により奪われたのである。母親の説得とトリゴー男爵の励ましを受け、ようやく彼に思考力と明晰さが戻ってきたので、いまや彼の頭にあるのは、しばらく姿を消し、非道な排斥から逃れ、密かに復讐と名誉回復の時を待つということだけだった。マダム・フェライユールと息子は、すぐに全ての点で合意した。
「お母さん、私は出発します」とパスカルは言った。「二時間以内に質素なアパルトマンを借り中古の家具を揃えます。私たちはそこに身を隠すのです。パリの外れに都合の良い一角があるのを私は知っています。そこなら誰も探しに来ない筈です」
「それで私は」とマダム・フェライユールは尋ねた。「その間何をすればいいの?」
「お母さんは大急ぎでここにある私たちの物を全て売り払ってください。全てです。私の本も全部。残すのは私たちの衣類、下着など、三つか四つの鞄に入れられる物だけです……私たちは見張られているに違いありません……大事なのは、私がパリを出て行き、お母さんが後で私に合流すると皆に思わせることです」
「で、すべてを売り払って、荷造りが終わったら?」
「その後はね、辻馬車を呼びにやって、荷物を積み込ませ、その後大きな声で御者にこう言うんです。『鉄道の西駅まで行って頂戴』と…… 着いたら、鞄を下ろさせ、駅員に倉庫へ運んでくれと頼むのです。そして受領証を貰ってください。明日までは出発しない、と見せかけるためです……」11.11