アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想(瞑想)の種類と分類-2

2023-04-11 05:36:01 | 冥想いろいろ

◎エンカウンター・グループからレイキ、NLPまで

 

〔1. 悟りを目指さないセラピー(精神療法)のいろいろ〕の続き

 

(6)他人との交流

 

エンカウンター・グループ(カール・ロジャーズ-グループセラピー)

来談者中心療法(カール・ロジャーズ-Client person centered approach-カウンセリングの原点)

アドラー心理学(劣等コンプレックスをみつめる)

ロゴ・セラピー (対話での人生の意味追求-V.E.フランクル)

交流分析Transactional Analysis(エリック・バーン-自我構造の分析)

家族療法(ルードリッヒ・フォン・バータランフィなど)

ロールプレイ(役割を意識的に演じる)

サイコドラマ(ヤコブ・レビ・モレノ)

 

(7)霊能系

 

チャネリング(降霊、降神)

クリスタル・ヒーリング (アメリカで隆盛)

チベッタン・パルシング・ヒーリング(tibettan pulsing healing)

レイキ(臼井 甕男(うすい みかお))

 

(8)自然でのセラピー

 スウェット・ロッジ(アメリカ・インディアンの癒しの儀式)

ビジョン・クエスト (アメリカ・インディアンの大自然での数日間の孤独な修行)

ネオ・シャーマニズム(シャーマニズムを応用したセラピー)

 

(9)セックス・セラピー

愛のヨーガ(ルドルフ・V・アーバン-)

タントラ(和尚がタントラのセックス修行を紹介しているが、他の人はもっと狭義のものを言っている場合が多い。)

 

(10)思考から働きかける

一般意味論(general semantics-アルフレッド・コージブスキー)

論理療法(rational theory-アルバート・エリス)

神経言語プログラミング(NLP)

エニアグラム(スーフィの口伝図)

 

(参照:精神療法と瞑想 心を解くセラピー&メディテーションガイダンス 宝島編集部/編 JICC出版局)

 

以上のようなセラピー技法の出自は、精神医学、心理学、代替医療などであり、癒しという効果を狙ってはいる。さらには、ネットにあふれるセラピー、癒しテクニックの広告宣伝から、インストラクター資格をとりましたというつぶやきまで、このようなセラピー技法を目にすることは多いのではないかと思う。

 

社会的には、当座の効果があり、それで問題ないかもしれないが、悟りを目指さないと言う点では、一生の最後あるいはそれ以前に食い足りないと思う人もいるのではないか。そういう人達が、悟りを目指す冥想(瞑想)を求めていくことになる。

 

なお、チャネリング(憑霊、降神)は、三種に分類される神仏へのアプローチ方法の一つだが、主神、大神を降ろすのは容易ではないので、ここでは、セラピーの一種に挙げられているのももっともなところがある。

 

また、セックス・セラピーは、邪教真言立川流を俟たずとも、洋の東西を問わずセックス・カルトにつきものなものである。だが極めて困難な道だが、真正の求道としての性愛というものがあることも承知しておくべきだろう。

本来房中術もカーマ・ヨーガも悟りのための技法である。

 

(続く)

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冥想(瞑想)の種類と分類-1

2023-04-10 07:09:43 | 冥想いろいろ

◎セラピー(精神療法)と求道冥想と価値観操作

 

SNSでは、冥想には種類がありすぎて、よくわからないという声が上がっている。

 

まず冥想の分類を考える上で基本は、個々の冥想は、単一テクニック、単一冥想だけであることはほとんどなく、例えば最もシンプルなテクニックであるとされる只管打坐ですら、専門道場においては、只管打坐、読経、経行、作務、食事作法、トイレ作法、公案など複数の冥想法の組み合わせである。

 

このように冥想は、一般には複数のテクニックの集合の呼称である(メディテーション・コンプレックス)。

 

それを踏まえて、現代冥想を二分類すれば、悟りを目指さないセラピー(精神療法)と、悟りを目指す求道冥想となる。

 1.悟りを目指さないセラピー(精神療法)のいろいろ

 

個々のテクニックについては、ライヒ系、OSHOバグワン系、心理学者のC.G.ユング系が多い。そうした技法を大真面目に実践し、資金も出し研究してきた、ビッグサーのエサレン研究所のような組織が継続できていることがアメリカの良心であり、人類の良心であり、日本の因習的な環境にはない部分であると思う。

だが日本は、神国としての伝統的ライフスタイルがあり、日本人は神に仕える民族であり、外人は神に祈る民族である(出口王仁三郎)という、潜在的基盤がある。だがいまやそういう惟神(かむながら)精神は、拝金と物質欲で風前の灯となっている。

セラピーが悟りを目指さないままでは、審神者のいないチャネリングの如きものにとどまる。

 

(1)肉体やエーテル体関連

 ボディ・ワーク。体をほぐしたり、ブロックをとったり。呼吸法もあり。

具体的には、以下。

 

アレクサンダー・テクニック(F.M.アレクサンダー)

フェルデンクライス・メソッド(フェルデンクライス身体訓練法)

センサリー・アウェアネス(チャールズ・ブルックス)

ライヒアン・セラピー(W.ライヒ)

バイオエナジェティックス(アレクサンダー・ローウェン/ライヒの弟子)

バイオシンセシス (デイビッド・ボウデラ/ライヒ系)

マッサージ

ロルフィング(呼吸法の一種)

リバランシング(和尚)

ポラリティ(ランドルフ・ストーン)

フォーカシング (ユージン・ジェンドリン)

カラーパンクチャー(ピーター・マンデル)

センタリング

整体

 

(2)呼吸法関連

 

リバーシング(レオナルド・オー)

ホロトロピック・セラピー(スタニスラフ・グロフ)

 

(3)心理学関連

プロセス指向心理学(アーノルド・ミンデル)

ゲシュタルト・セラピー(フリッツ・パールズ、ローラ・パールズ)

プライマル・セラピー(アーサー・ヤノフ)

ヒプノセラピー(催眠術)

サイコシンセシス(ロベルト・アサジオリ)

 

(4)イメージ、価値観、観想

 

ソマグラム (スタンリー・ケルマン)

ポジティブシンキング(観想法)

アクティブ・イマジネーション(C.G.ユング)

箱庭療法(C.G.ユング)

 

(5)芸術活動、芸能活動

 

アート・セラピー

ダンス・セラピー

ミュージック・セラピー

(参照:精神療法と瞑想 心を解くセラピー&メディテーションガイダンス 宝島編集部/編 JICC出版局)

 

(続く)

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一厘の仕組-2

2023-03-07 03:35:44 | 冥想いろいろ

◎なぜ出口王仁三郎だけが知っていたか

 

一厘の仕組とは、九分九厘悪玉ペースで進んでいた世界の趨勢が、最後の一厘で大逆転すること。逆転と言えば、タロット・カードの吊るされた男で有名だが、出口王仁三郎を読んだ人なら、一厘の仕組が古事記の仲哀天皇の段に描かれていることは知っている。

 

冥想シーンで、九分九厘から一厘の大逆転は、個人が逆転して世界全体になること。

 

古事記の仲哀天皇の段で、九分九厘の崖っぷちシーンは、仲哀天皇が神託のとおりにせずに、なまなまに琴を弾じているうちに人知れず崩御されたこと。

 

次のとおり出口ナオは一厘の仕組を知らなかったと言っている。なぜ出口王仁三郎だけが知っていたか。出口王仁三郎には、体験とは言えない体験があったからではないか。

 

※二代様:出口スミ

『◯一厘の仕組

(『大本神論』に啓示された三千世界救済の大神策・天地の祖神の大経綸)

 

二代様  「一厘のお仕組は開祖様でも御存じなかった。」

聖師    「王仁は知っていた。」

(昭和二十年九月四日)

 

(大正時代に聖師は『古事記』の大后息長帯日売命(おほきさきおきながたらしひめのみこと)の帰神のところに一厘の仕組が示されてあると教えられた)

 

(参照)『霊界物語』第一巻第三十五章「一輪の秘密」。第三十六章「一輪の仕組」』

(新月の光(下巻)/木庭次守P301-302から引用)

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大和魂の構造

2023-03-05 07:26:40 | 冥想いろいろ

◎慈悲心(善の方へ働く感情)、理性、意志

 

出口王仁三郎は、大和魂とは、菩提心のことであるとし、慈悲心(善の方へ働く感情)、理性、意志の三つで成るという。

この中で慈悲心・愛は、知性の劣った者でも鳥獣でも理解できるから最上と位置付ける。

 

知性、理性を武力、軍事、情報戦に優先投入する時代は、過去何千年続いてきたわけだが、この知性の優れた人間がどんどん出現している時代に、誠の力は世を救うとか、言向け和(やわ)すなどと得々と語る者もいるが、世界を平和裡に新時代に向けて移行させていく根源的パワーは、軍備強化でもなく、インテリジェンスの強化でもなく、経済力の強化でもなく、反戦キャンペーンでもなく、まず自分が神知ること。

 

神知る者に独特の思考様式、行動形態が、自ずと時代を正しい方向に向かわせる。これは不思議なことだが、爛熟腐敗を極めた時代に必ず聖者、覚者、神人(アヴァターラ)が地上に投入されるというのは、そのメカニズムがあるからではないのだろうか。

 

そして、知者の多いこの時代は、聖者覚者が一人出てもどうにもならず、続々とフツーの人が悟って行かねばならないのだ。

 

以下、出口王仁三郎の大和魂の説明。

『『大和魂は仏の道で云ふ菩提心の事だ。此菩提心は三つの心が集つて出来たものだ。其第一は神心、仏心又は覚心と云つて善の方へ働く感情を云ふのだ。要するに慈悲心とか、同情心とか云ふものだ。第二は勝義心と云つて即ち理性である。

 

理性に消極、積極、各種の階級のある事はもとよりである。理性の階級については到底一朝一夕に云ひ尽されるべきものでないから略する事として、第三は三摩地心と云ふのだ。

 

三摩地心とは即ち意志と云ふ事である。尚よき感情とよき意志とよき理性と全然一致して不動金剛の大決心、大勇猛心を発したものが三摩地心であつて、以上三者を合一したものが菩提心となり大和魂ともなるのだ。

 

何程理性が勝れてゐても知識に達してゐても、知識では一切の衆生を済度する事は出来ない。智識あるもの、学力ある者のみ之を解するもので、一般的に其身魂を救ふ事が出来ない。これに反して正覚心所謂神心、仏心は感情であるから、大慈悲心も起り、同情心もよく働く。此慈悲心、同情心は智者も学者も鳥獣に至るまで及ぼすことが出来る。これ位偉大なものはない。』

(霊界物語 第40巻 第2篇 寒梅照国 第6章 仁愛の真相から引用)

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チャネリングのメカニズムを考える

2023-03-04 06:33:12 | 冥想いろいろ

◎霊能力、超能力志向の冥想修行は、時代遅れ

 

七つの身体論と輪廻転生は切っても切れない関係がある。その辺縁にチャネリングという技術もある。

 

チャネリングとは、自分のボディに他神霊を感合させて、当該他神霊の言葉をわが身が語るという技術。チャネラーとは霊媒とも云う。出口王仁三郎は、身辺に長命の優秀な霊媒がいたのにこんなことを言っている、

 

『【霊媒】

 

霊媒などになる人を、身魂が磨けて居るから霊覚がある、などと思うて居る人がだいぶんあるやうであるが、決してさうでは無い、意志が弱いから、霊に左右せらるるのである。霊の方では使ひやすいから使ふので、かうした人間には大した仕事は出来無い、確かりして居て、しかも霊覚があると云ふやうな偉人は、滅多に出るものではない。

 

大抵意志薄弱で、一生涯憑霊に支配されて、真の自我と云ふものの確立がない、情ない状態で終つて仕舞ふのである。霊媒になるやうな人は、一寸人がよいやうで、さうしてどこかにぬけた所がある。しまひには悪い事を仕出かし勝である。命も短いものである。』

(月鏡/ 出口王仁三郎から引用)

 

さらに、

『【霊媒は短命】

 

霊媒の物理的現象を起す精力素(エクトプラズム)は精液の変形したるものである。そして外気にふるれば九分迄は汚れて其の精気を失ふものであるから、再び身体にかへつても駄目である。ああした実験を度々やるのはよくない、生命が短くなる。私は皆一通りやつたが、この原理が分つたからやめたのだ。』

(月鏡/ 出口王仁三郎から引用)

 

チャネリングの話ではないが、霊能の得方について大本教で鎮魂帰神に邁進していた若き谷口雅春が霊能の得方には2種あると述べている。

 

彼は肉体をコップとし、霊を水とする。水(霊)の分量がコップ(肉体)より過剰となれば、水が外に流れ出すから霊能力が発現する。また逆に水(霊)の量が変わらなくてコップ(肉体)の大きさが小さくなれば、水は外に流れ出す場合も霊能力の発現。

 

これは神懸、憑依等の話なのでアストラル体以上の説明だろうと思うが、霊の方が充実し過ぎて溢れ出すようになった出口ナオのようなケースが前者であり、肉体が衰弱してコップの容量が小さくなったので霊が外に発現するのが後者。後者は、よく内臓が弱いと霊能力があることがあると言われる巷説を裏付ける。(参考:雑誌神霊界93号(大正8年9月)の大本霊学座話)

 

以上を踏まえるとチャネリングでの、いわゆる霊とは、エーテル体、アストラル体、メンタル体から、時に第六身体アートマン(大神)まである。

 

エクトプラズムは、エーテル体レベル。一口に霊をボディに引き入れる、感じ取るといってもレベルの差は相当にある。

 

ただしチャネリングとしては最高レベルの、大神の言葉を伝えるチャネリングであっても、チャネラー本人は何を伝えたか全くわからないという事がある。チャネリングは、それが限界なのだろう。

 

霊能力、超能力志向の冥想修行は、時代遅れのものとなって久しい。

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出口王仁三郎の鎮魂法-6

2023-03-03 06:58:10 | 冥想いろいろ

◎帰神術、神人感合、高弟たち

 

彼の大衆向けの修行法は、神下ろしメインだったが、それを中止したのはわかるが、次の段階として、信者をなぜ見神や神人合一の道に進ませなかったのだろうか。

本物の覚者は、このような場合、高弟向けの冥想指導と一般信者向けの冥想指導を分けるもの。高弟向けの冥想指導は、彼の著述には具体的にはほとんど出てこない。だが高弟向けのものこそ、見神や神人合一の道があるのだろうと思う。

 

さて日本の新興宗教で戦後勃興したもので古神道系のものは、生長の家、世界救世教など大本関連が多いことが知られている。また裏神業とも呼ばれる小規模なものもある。こうした大本系の新興宗教の指導者や小規模グループあるいは個人の古神道系の弟子たちこそ高弟に当たるものではないかと思う。つまり高弟向けの冥想法は、彼らに引き継がれたのではないかと思われる。そうしたものには植芝盛平の合気道も含まれる。

 

また大規模にチャネリング(神下ろし)をやらせたことが、結果的に霊がかりを脱却しきれぬ遠因になったことも見逃せない。その延長線上に、大正10年に世の立替があるという予言が大々的にはずれた(出口王仁三郎自身ははずれることをわかっていたし、主導していた幹部に予言取り消しを要請していた。)事件がある。順路としては、霊がかりを脱却して、見神して、神人合一を目指すもの。

 

後に生長の家を開いた谷口雅春は、出口直日に次のようにその予言取り消しの伝言を依頼した由。

 

『三代教主直日の回想によると、一九二一(大正一〇)年の秋のある日、谷口は王仁三郎をたずねたが、王仁三郎が不在であったため、直日にたいし、大本は一九二一(大正一〇)年に世の立替えがあるといったが、なにもかわったことがない。信者のおおくは家業を放棄し、会社をやめてきているので、いま生活ができなくて困っている。「大本はまちがいであったと天下にあなたの名で謝罪して下さい」と要請したという(「おほもと」昭和33・4)』

(大本七十年史 上巻 第4編第2章 一部の離反/谷口正治/著者大本七十年史編纂会・編集から引用)

 

さて既述のような経緯で、出口王仁三郎は、大正時代には集団における神下ろし行(チャネリング、神託、シャーマニズム)はやめてしまったが、最後に彼の見る神下ろし行の全容を挙げる。

 

『神感法については、一度説明しておかねばならぬ必要があろうと思うから、ここに大略だけを記しておく次第である。

 

そもそも感合法なるものは神人感合の術であって、至厳至重なる事柄であるから、濫りに語るべきものでないのであるが、神界の許可を蒙りて、ちょっと付記しておく次第であるから、謹んで拝すべきである。

 

この神感法とて神人感合の術なるものは、神様と吾人の霊魂とが相一致するの道であって、帰神なるものが即ちそれなのである。

 

帰神術は精細に調べてみると三百六十二法という大多数の方式があるが、まずその概略を並べると、無形の感合法と有形の感合法とがある。しかして無形の感合法には神感法と他感法と自感法との三大法がある。また無形の神感法にも他感法にも自感法にも、各上中下の三法があって、これを合すと九法となって来るが、有形の感合法も同じく神感法と他感法と自感法の三大法があって、同じく三大法ともに上中下があるから、前と同じく合して九法となるのであるが、この無形法と有形法とを合してみると十八法となるのである。

 

話が後先になったが、そもそも神界には正神界と邪神界がありて、正神界とは俗に善神界と云う界なり。邪神界とは妖魅界と同じ事であるが、前記の如く、正神界の感合法には無形と有形とを合して十八法あるが、邪神界も同じく無形と有形とを合して正神界と同じく十八法あるのであるから、すべて感合法というものは、正邪を合して三十六法となるのである。これを細別すると、前に記した如く三百六十二法となるのである。今入門の子弟に解し安き様、左に図を以て示す事にしよう。

 

   帰神の標目図

 

善神界

    無形

  自感法  上中下  三法

  他感法  上中下  三法

  神感法  上中下  三法

         合わせて九法

    有形

  自感法  上中下  三法

  他感法  上中下  三法

  神感法  上中下  三法

         合わせて九法

     有形無形合わせて十八法

邪神界

    前に同じく合わせて十八法

     正邪合わせて 三十六法

  これを分かって 三百六十二法

 

このほかに、巫女なり法華坊主の行う感法はあるが、これらは下々の下法で等外である。現今の淫祠教に行うて居るのは、みな邪神界の感合法であるから、信仰すべきものでは無いのであるから、ちょっと参考のために付記しておく。』

(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間 本教創世記 第三章から引用)

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出口王仁三郎の鎮魂法-5

2023-03-02 07:19:46 | 冥想いろいろ

◎集団向け幽斎修業の実際

 

大本教は明治時代にチャネリング、憑神霊をメインとした古神道修行をカリキュラムとして持っていた。とはいえ大神が憑依できるほどに浄化されたレベルのシャーマンは、出口ナオ、出口王仁三郎だけだったのだから、集団修行の現場には、修行の指導者としてそのレベルに届いていない人物が当たったようだ。

 

その点では、指導者を神知る者にするという最近では常識的なラインも意識されていなかったか、意識はされていたが、現実的には無理だったか。

 

神知る手法には、神下ろし、見神、神人合一の三種あるが、大正の終わりには神下ろしを大々的にやるのは、やめてしまった。

 

この手法では、鎮魂法という臍下丹田に意識を集中させることで、トランスに導くのだが、トランスに導く方法は、マントラを唱えるのやら、観想法やら薬物摂取やら無数の方法がある。だが、トランスに導くのは比較的容易でも、そのトランスから正しい方向に進ませるのは、容易なことではない。とりわけ集団でトランスをやらせる場合は難易度が高い。最近でも教団が信者を何千人何万人集めてイベントを行いその熱狂的マス陶酔でもってトランスを狙うようなこともあるのだろう。

 

真正の悟りを目指すには、既に100年前からマスターが悟っていないとだめなようだというのはわかっていた。それは、大教団でも少人数グループでも同じ。

 

それがわかって以後、出口王仁三郎は、神下ろしメインでなく信者が大神を知ることをメイン目標に転換しようと思っていたのだろうが、さらに神人合一を大目標にするには、国家神道で現人神のおわす時代にそれは不可能だったのだろう。

 

終戦後の吉岡発言では、「日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。」と手厳しい。

 

以下に出口王仁三郎の当時の、集団神下ろしでの幽斎修行すなわち「トランスをメインに据えた修行法」の実際を挙げてみる。

概要は次のような具合。

1.審神者は「ウー」の言霊によって霊をおくる。

2.憑霊が発動し、両手を振動したり、言語を発する等発動のはげしいものは、別室で特別に審神した。

3.三日間岩戸のなかにこもり、無言で、鎮魂の自修や、神書の黙読、浄書するというメニューもあった。

『だが、修業者の聴講する課目については、一定のさだめがなく、講師の都合によって、その日その日の課題がかえられることもあった。そして、それ以外に特別の講座が、必要に応じて臨時におこなわれている。こうした講座とともに、希望者にたいしては幽斎修業がなされている。

 

幽斎修業は、修業者にたいして、手を一定の形式に組みあわせて、瞑目静座させ、審神者は天津祝詞を奏上し、天の数歌をとなえ、石笛を吹きならして、「ウー」の言霊によって霊をおくる。

 

本来、鎮魂は各自の浮遊せる霊魂を臍下丹田にしずめるものであったが、なかには憑霊が発動し、両手を振動したり、言語を発するものもあった。そこで発動のはげしいものは、別室へみちびいて特別に審神した。

 

また別に、希望者に、岩戸修業をおこなわせたりもした。この修業は、三日間岩戸のなかにこもり、無言の業をなすものであって、鎮魂の自修や、神書の黙読あるいは、浄書などをした。食物はハッタイの粉と梅干・水だけが許された。三日日のおわりに先達者にしたがって、「う、し、と、ら、の、こ、ん、じ、ん、うしとらのこんじんさま。ひ、つ、じ、さ、る、の、こ、ん、じ、ん。ひつじさるのこんじんさま」ととなえ、つぎに「三千世界一同に開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ。しゆみせん山にこしをかけ、うしとらの金神まもるぞよ。三千世界の神、仏事、人民用意をなされ」と発声した。そして天津祝詞一回・神言一回を奏上し、「惟神霊幸倍坐世」を四回となえてそののち、五六七殿に参拝しておわることになっていた。

 

しかし、以上のような講話や鎮魂については、一九二〇(大正九)年五月二三日の公告で、

「従来の鎮魂帰神の実修法を更め、単に静座瞑目せしめて、お筆先を守護神に聴かしむるに止め、施術者の霊を注ぎ気合を掛くることを廃す。(但し静坐の姿勢は従前の通り)病気鎮魂及び憑霊の発動者には、特別鎮魂を施すことを得。其要領は従前の通りとす」

 

さらに同年六月には講座修業の方法を改め、

「神諭の拝読及び解説に主力を用ふる事、神諭の精神を体得するに必要な霊学講話を行ふ事、霊魂教育法として修業者に静座瞑目せしめ、その守護神に神諭を読み聞かせること」

と通達し、各支部や会合所も本部の方式にならうように指示した。』

(大本七十年史 上巻第3章 教勢の発展 修業者の激増から引用)

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ダンテス・ダイジの気合訓練

2023-02-03 03:12:16 | 冥想いろいろ

◎日本人は、気合の抜けた人間ばかりとなった。

 

戦後、根性論、精神論が忌避される世論が長い間形成された結果、日本人は、気合の抜けた人間ばかりとなった。が、それは、マクロなマインド・コントロールの影響もさることながら、老人比率が多いこともその原因だとは思う。

 

しかしながら、若くても年をとってもこの競争社会を生き抜いていくには定力が必要なものだ。毎日冥想修行だけすればよいような恵まれた環境の人はいざ知らず、大半の人は、世の人と交わって定力を必要とされるシーンが必ず出てくるものである。

 

だが、気合術は廃れ、古神道の天の鳥船雄詰(をころび)の禊が残る程度と思う。

 

ダンテス・ダイジは、冥想道手帳に気合訓練の一章を挙げている。

『気合訓練

 

気合とは、必ずしも絶叫するものとは限らない。自己の心身のとどこおりをほどいて、宇宙的ヴァイブレーションと溶合していくことが気合である。

気合訓練は、定力を養成するための準備となる。

 

カーッ

 

シヴァ

 

 これらは、全身全霊で叫ぶものである。

 

 

アーウームー

 

ホー

 

 自分の形式を越えて、自由にのばすように発声する。

 

 

ムー

 

 全心身の力を込めてうなることと一気に力を抜くこととの反復。

 

 

天之数歌

 

「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万」(読み:ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ )』

(冥想道手帳/ダンテス・ダイジから引用)

 

久しぶりに読んでみると、『ムー』には、『一気に力を抜くこと』というパートがあったのですね。

 

冥想は特に実際にそのとおりにやってみて、そのやり方の絶対性に気づくということはある。

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春風や麦の中行く水の音

2023-01-17 07:22:13 | 冥想いろいろ

◎不易流行(ふえきりゅうこう)

 

去来抄によれば、俳句には2種あって、不易の句と流行の句。不易は千年変わらぬ根本であって、流行は現代に一時的にはやるもの。句によって不易の比率が高いものもあれば流行の比率が高いものもある。

 

芭蕉の門下では、時代が下るにつれて不易の比重が高いものを評価するようになり、芭蕉晩年の弟子木導は、不易の極みである三句を挙げている。

 

1.小松生ひなでしこ咲(さけ)るいわほ哉(かな)  (荒木田守武)

(大意:には小さな松が生えているのに加え、撫子も咲いている。)

 

2.古池やかはず飛込水の音

(芭蕉)

 

3.春風や麦の中行く水の音

(木導)

(大意:春風が吹き、麦はそよぐ。その中を、小川のせせらぎが行く。)

 

芭蕉は、この木導の句を風景描写(景)と新しさ(曲)を兼ね備えた句として激賞した。

 

さて不易流行とは、不易が悟りの側であって、流行が迷いの側。山水画を見ると大方、背景のぼんやりしたのが悟りの側で、手前の山水人物具象が迷いの側。

悟りなくして迷いはなく、迷いなくして悟りなし

よって不易だけではだめで、流行もないと不完全。よって、この木導の句では、春風と麦が迷いにして、小川が悟りとみることができる。

 

同様に守武の句では、小松となでしこが迷い。巌が悟り。石は真理のシンボル。

古池句では、古池とかえるが迷いであって、水の音が悟り。

 

この消息をわかっている芭蕉は、木導を評価した。

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最も高価な精神的価値あるものをゲットする方法

2023-01-02 07:09:55 | 冥想いろいろ

◎英雄の夢は必ず破れて冥想に向かう

 

2022年NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人は、有力な脇役を次々と殺していき、最後は自分のファミリーをもどんどん殺害していくという、ゴッドファーザーもびっくりの重厚殺伐な展開となり、世の人々に大きなインパクトを与えた。

 

これは、歴史上最高権力者の周辺は、大方身内で相剋し合うというのは、日本でも中国でも欧州でもマフィアでも共通の運命であるということ。英雄の夢は、必ず破れることになっている。

 

現代人は、引きこもって日がな一日モバゲーに打ち込んでいても、英雄的な気分で世界制覇を目指しているものだ。そこには、パワー維持の恐怖と不安があり、達成してラストシーンを見るというクライマックスがあり、途中で転落するという挫折もある。

 

最近は、このようにモバゲーで一生回顧、一生を走馬灯のように見る成功と転落の疑似体験をするわけだが、昔は邯鄲の夢とか黄粱一炊の夢で、そうした気分を味わい、冥想修行に本格的に打ち込む契機とした例が伝えられている。

 

人生には大別して三種あって、笠地蔵風の素朴にただ生きて死んで行くだけの美しさを歩む人生と、恐怖と不安におののきつつ英雄への上昇を狙う人生もあるが、英雄チャレンジのむなしさを最初から見切って永久不壊なる幸福を求める求道の人生がある。

 

そしてこれだけ転売ヤーが活躍して、ブランド品や人気チケットに高価な値段が付き続けるのは、目に見えない精神的価値を金で買おうとする人があまりにも多いからである。実は最も高価な精神的価値あるものは、無料で手に入れることができるのだが。

 

なぜならそれは金や権力やコネでは手に入れることができないからである。

 

最も高価な精神的価値あるものは、自分の無力さ、みじめさ、情けなさを正面から見据えた先にしかない。そのような自分自身に出会う坐法には、ある固定した姿勢ですわり雑念を相手にしないとか、出入りする呼吸を日がな見つめるとか、あらゆる音を聞きまもるとか、いくつもの方法がある。

 

人は煮詰まり切らなければそういうものに真剣に取り組まないのかもしれないが、煮詰まり切ったところで、師匠に出会うということはあるもの。

 

そしていまや時代全体が叫びによって吹きこぼれようとしている。コロナ禍の3年によって叫びは増幅された。その圧力が内なる精神に出るのか、外なる小三災(飢餓、疫病、戦争)や大三災(風災、水災、火災(地震を含む))に出るのかは知らない。それに対してできることは、自分が正しく生きることだけだ。それが悟りをめざして日々冥想することであるとは論理的説明はできないが直観している人は意外に多いのではないか。

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言霊をちょくちょく使うことはできないこと

2023-01-01 03:38:34 | 冥想いろいろ

◎言霊を一遍使ったならば二度とは使えない

言霊は一回きり。必要に応じて適宜発動するなどはあり得ない。
以下は出口王仁三郎の説明。

『若し今直ちに○○が戦争をしたならば、○○は滅茶々々にされて了ふ事は分かり切つて居る。今でさへも此の通り、まして二、三年先になつたならば、到底勝つ事は望めない。物質的に勝つと云ふ事は出来ないのであります。

今の中ならば何とかなるだらうと云つても無謀な軍は出来ませぬ。若しさうやつて旨く行けば宜いけれ共、若し○○が独逸のやうに敗けたならば、再び起つ事は出来ぬ。独逸以上の惨害を蒙るのである。故に戦ひも考物である。

是は何うしても人事を尽す上に於て某国との戦争を免れ或は軽くして○○が勝つと云ふやうに、大難を小難にまつり代へて貰ふと云ふ事を考へなければならぬ。さうして手を尽していけない時には、所謂言向和はすと云ふ天照大御神の御神勅に依つて、言霊の妙用を発揮するより外はありませぬ。

武士の言葉に二言なしといふ如く、若し言霊を一遍使つたならば、二度とは使ヘない。私も雨や風を必要に応じて降らせたり止めさせたり、又役員信者も之を行つて、実際に経験して居りますが、本当の事は一言一遍言つたならば、再び言ふことは出来ませぬ。無茶苦茶な事は出来ない。鶴の一声とか、武士の言葉に二言無しといふ事があるのに、まして神様の御道に二言のあるべき筈がない。唯一回である。

それであるから非常に難しい。大なる修養を要するのであります。鼬が最後屁をしたやうなものである。最後屁を放つた鼬はモハヤ生命はなくなる。又蜂が人を刺すに一遍刺したならば其蜂の命が無くなる。

それと同じ事で言霊といふものは、其の運用が軽々しく出来るものでない。魂を磨きに磨いて愈々と云ふ時に使ふ。国家の危急存亡の場合、又背に腹は代ヘられぬといふ時に使ふのであります。

 亀山上皇が元冦来襲の時に、身を以て国難を救はうと神祗に誓はれた。是も上皇の言霊の力であります。斯の如く大なる力を有つて居るのが言霊である。その代り之を屡々運用する事は出来ぬのである。』
(出口王仁三郎全集第2巻第18章弥勒の世から引用)

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降霊、チャネリングの不安定性

2022-12-29 06:35:37 | 冥想いろいろ
◎神がかりは禁止


SNS、動画サイトを含め、降霊、チャネリングのサイトは少なくない。降霊、チャネリングとは神がかりのことである。

出口王仁三郎は、大正10年から神がかりを禁止。
『○神がかりは禁止

神様は大正十年から神界の大本営で、一切の神がかりを禁止されているから、その後の神がかりは聞きはつったのをいうのであるから、そんなものは言ってやっても判らぬから、相手にせずホッておいたほうがよい。
(昭和十八年二月四日) 』
(新月の光 下巻/木庭次守P46から引用)

聞きはつるとは、聞いた言葉に加え不明な部分は想像で補うことをいうのであろう。古神道の降霊、チャネリングは、帰神。三島由紀夫の小説英霊の声は、帰神(憑依)を題材にしたもの。

神とコンタクトする代表的な三手法の一である帰神(憑依)は、価値観多様化の中で弊害が多すぎるため禁止されたのだ。膝ジャンプをやっている場合ではないのだ。帰神(憑依)は、トランスに伴って非肉体の第三者を意識下に混在させる手法とも説明できる。

それに代わって最近多いのは、自分の集合的無意識(例えば地方的無意識、国家的無意識)をのぞき込み、それを予言として語るもの。集合的無意識をのぞき込む手法は、タロット、パワーストーン、香、ホロスコープ、星図、方位、易など占い万般。

だが、集合的無意識と言えば、誰が見ても同一の集合的無意識の層を見ているかと言えば決してそんなことはなく、見る人によって多種多様である。
それこそ個人的無意識に毛の生えたようなものから本当に地球人類ののっぴきならない未来を見たものまで様々である。

個人的無意識は、体内ガスや消化中の食物、身体のこりの影響を受ける他、外部のスマホ、TVの情報の影響から、教育、社会通念などあらゆるものの影響を受けている。そうしたものの深部に、天国的な集合的無意識があり、地獄的な集合的無意識があり、また現実を直接に変転させる集合的無意識がある。

いわゆる当たる予言は、現実を直接に変転させる集合的無意識を見た場合のみである。だがそれすらそれを予言した瞬間に、現実の方がその予言の影響を受けてしまって、ちょこっと変わってしまう。

スピリチュアル・ブームは安定したネット・コンテンツであり続けているが、事程左様に本物は少ない。コンテンツの真贋を見る目は、自分自身が真理に触れるという体験とは言えない体験を経るしかないように思う。

朝早く起き出でわざにいそしめば 神の力はおのずから添ふ(出口王仁三郎)
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昔呪詛調伏、今マインド・コントロール

2022-12-12 07:06:04 | 冥想いろいろ
◎承久の乱からカルトまで

後鳥羽上皇は、最勝四天王院などに依って鎌倉方を呪詛調伏したという。呪詛調伏が、深層意識に働きかけて、とある事象を現実化させようというメカニズムであると見れば、マインド・コントロールも人を誤った現実感に誘導して、とある事象を現実化させるという点では同じメカニズムと見れないこともない。護摩を焚くとか焚かないというのは大きな問題ではない。

ところで呪詛調伏と言えば、ブラックマジックであり、邪法なオカルトに直ちに分類されるが、一方マインド・コントロールと言えば、テレビでありスマホであり、情報操作やサブリミナル情報や不断のCM動画の強制挿入が日常的に行われる最前線であって、一見後ろ暗いところがあまりないかのように見える。

ところがその背後には、金と欲得が動機として控えており、鎌倉時代の呪詛調伏の原動力と何ら変わることはない。

むしろ連続的な視聴覚情報の強制により、自分で考える時間を奪って洗脳効果をより高めている点では、鎌倉時代の比ではない。

現代人は知的だが、冥想によりその洞察を深めねば、あらゆるマインド・コントロールによって自滅する可能性があるように思う。ますます精神的な話をしても理解してくれない人が増えていく。要するに自分がどのように情報操作されていて、どのようなマインド・コントロールを受けているかについて無自覚な人がどんどん増えているのだろう。そうした自覚を持たない大勢の人が、今のトレンドについてSNSでつぶやいているのだ。
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神は人を何処へ導くのか 鈴木秀子

2022-12-10 07:02:32 | 冥想いろいろ
◎見ている自分と超能力

鈴木秀子氏は、聖心女子大の先生だが、大階段を落ちる際に幽体離脱し、天国に入り、生還した。これを本人は、臨死体験と呼んでいる。

臨死体験直後は、明らかに見ている自分が残っており、白っぽい金色の輝きにみちた一面光の世界に入って、至福を感じた。

数日後、病室の窓に立った時、大宇宙との一体感を得て、その至福の状態は三日間続いた。が世界は自分であるという逆転の実感はなかったので、まだ見ている自分が残っていたのだろう。ここで、見神ということになるだろう。

彼女には予知能力や癒し能力があって、当初はその能力を積極的に使って、病気治しや、何日に株を買えば値段が上がるかなどを当てていたのだが、そのことが本当に彼ら彼女らのためになるかどうか疑問に思い、やがて超能力を野放図に用いることは控えるようになっていく。

カトリックでは、超能力を積極的に評価したり使用したりする伝統があるので、こうしたことは避けられなかったのだろう。

一般に超能力、霊能力にこだわったままだと自動的に冥想修行の進境は止まる。
だが、カトリックでは、神人合一を目指すわけではないので、見神者であればそれで充分と評価されるところがあるのだろう。

そして「神は人を何処へ導くのか/鈴木秀子/三笠書房」は、2000年4月の本なので、その後彼女に何か起こったかどうかはわからない。彼女の他の著作は読んでいないし、また書いてあることがすべてであるとは限らない。
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時間は心理である

2022-11-30 07:35:04 | 冥想いろいろ
◎只管打坐の道

時間は心理であると見ているのはクリシュナムルティ。電波時計だから正確だなどと言っているレベルの話でなく、過去も未来もなく現在だけがあるのが時間であるとするところが立脚点。

『真の危険が身に迫ったときは、時間的余裕などありえない。直ちに身を守る行動をおこすのがふつうであろう。ところが、われわれは多くの問題をかかえていてもその危険が目前に迫っていることがわからないために、その問題を克服する手段として時間を利用しようとするのだ。だが、時間はわれわれが自分自身を変えるのをまったく助けようとしない。時間は、ただわれわれを欺いているだけである。時間は過去・現在・未来の三つに分割される一つの動きである。 そして、時間を分割するかぎり、人間は常に争いと不一致に苦しまなければならない。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞ヶ関書房P151から引用)

真の危険が身に迫った時こそ人が本当に意識的であって覚醒している、と言うのは、OSHOバグワンだが、クリシュナムルティが、こうした意識の隙間を出してくるのは偶然ではあるまい。
真に醒めれば、過去もなく未来もなく現在だけがある。

さらに
『時間とは何か。それは時計が刻む時間ではなく、年代的な時間でもなく、心理的な時間である。それはまた、観念と行動の中間に介在するものである。観念は明らかに自己を守るためのものであり、自己を安定させるためのものである。 行動は常に敏速である。それは、過去のものではなく、未来のものでもない。行動は常に現在に基づくものでなければならない。だが、行動はあまりにも危険で、あまりにも不確かであり、それゆえわれわれは確実な安全を保証してくれる観念にしたがうのである。』
(上掲書P153-154から引用)

この段階では、過去現在未来を区分してみている。この文に続いて、行動は観念によるが、行動と観念は必ずしも一致せず、そこに間隙が発生する。その間隙を人は観察と欲望で埋めるのだが、その間隙が時間であるとしている。

『こんどは、大部分の人にとって何よりも大きな問題である死の問題をとり上げることにしよう。あなたは死について知っている。死は毎日、あなたのそばを歩いている。死をまったく問題としないですむくらいに完全にそれと対決することができるだろうか。そのような対決をするには、死に対するあらゆる信念、あらゆる希望、 あらゆる恐怖を捨てなければならない。そうしなければ、一つの結論やイメージや予め抱いた不安をもって死と対決することになる。つまり、時間をもって死と対決することになるのである。
時間は、観察するものと観察されるものとのあいだに介在する隔たりである。つまり、観察者であるあなたは、死と対決することを恐れているのである。それが何を意味するか、あなたは知っていない。あなたは死に関するあらゆる種類の希望と学説を知っている。あなたは生まれ変りや死者の復活、もしくは魂、霊、さまざまの名でよばれる時間を超越した霊的実体を信じている。だが、魂がほんとうに存在するかどうか、あなたは自分でそれを発見したのだろうか。あるいはただそうした考えをあなたは他人から受けいれただけなのか。思考を超えた永遠に持続するものがあるだろうか。もし、それを思考が考えついたとしても、それは思考の分野の中 にあるものであり、思考の分野には何ら永久的なものは存しないのであるから、それもまた永久的なものではない。何一つ永久的なものがないということを発見することは心の自由にとって何よりも重要なことである。その事実を発見したとき、はじめて大きな喜びを生じるのである。』
(上掲書P156-157から引用)

時間は、観察するものと観察されるものとのあいだに介在する隔たりであって、観察するものであるあなたは、観察されるものである死と分離している。この分離に時間が発生している。

この引用文は、観察するものと観察されるものが合体すればどうなるかをあからさまに描写せず、いきなり自明のものとして記述している。観察するものと観察されるものが合体すれば。時間はなくなり、現在しかなくなる。よって時間は心理なのだと見ていることが暗にわかる。

観察するものと観察されるものが合体するのは、いわゆる大悟覚醒なのだが、仮にそう書けば、どうすればそうなれるのかという、技術だの方法だの目的だのという『観念論』に落ちていくので、クリシュナムルティは注意深くそれを避けている。只管打坐の道とはそういうものだと思う。
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