アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

炊事の繰り返しで悟る

2024-06-27 07:09:01 | 達磨の片方の草履

◎焼餅屋だった龍潭

 

道元のことにも出てくるが、禅寺の典座(炊事係)でも悟りの修行ができる。以下に示す龍潭は、もともと門前の焼餅屋さんであったが、出家してからは、食事係ばかりやらせられて、一年経っても和尚が悟れる秘訣を教えてくれないとぼやく話である。

禅の六祖恵能は、坐らせてもらえず、ずっと寺で米つきばかりやってた。

実は、これらは坐らないからには、一行専心の修行であって、坐る冥想とは全く異なる行である。

禅の坐る冥想とは、只管打坐、隻手や無字などのマントラ禅、公案禅に大別されるが、一行専心は、坐らないので全く別種。

 

一行専心とは、仕事を精密にやり続ける事上磨錬、武道(柔道、剣道、合気道)、芸道(書道、茶道、華道、香道、歌道、舞踊、ダンスなど)に加え、絵画、彫刻、建築、工芸、デザイン、写真、作曲、声楽、器楽、指揮、ダンス、演劇からスポーツといったものまで含まれる。ただしそれが道と呼ばれるためには、神仏への敬虔があって、人間の努力の限界を超えようとするモチベーションがなければならない。

ただし、一行専心は、往々にして見神見仏見道にとどまる。要するに禅の十牛図で言えば、見牛第三止まりである。稀に一行専心でもニルヴァーナに至る者もいるが、見神見仏見道から先に進むには、やはり冥想による方が早いのではないかと思う。

 

祖堂集巻四の天皇道悟の章から。

『澧州龍潭崇信禅師〈天皇に嗣ぐ〉は、焼餅をつくる家業であった。天皇和尚を礼して出家した。

天皇は言った、「あなたが、わたしに師事してから後に、あなたに心要法門を説いてあげよう」。

 

およそ一年が経過した。 龍潭、「ここに来ました時に、和尚さんは、心要法門を説いてあげるといわれながら、いまだに指示していただけません」。

天皇、「わたしは、あなたに説いてあげてから永い間たった」。

龍潭、「どこに和尚さんはわたくしのために説かれましたか」。

天皇、「あなたが『ごきげんいかがですか』といえば、わたしは、すぐさま合掌する。わたしが坐っている場合、あなたがすぐさま側に控える。あなたが茶を運んでくれば、わたしが受け取る」。

龍潭はしばらく黙った。

 

天皇、「見るときはそのまま見る。思慮せんとすれば、とたんに間違う(見則便見、擬思即差)」。

龍潭はそこで大悟した。(河村本-150頁)』

(中国禅宗史話/石井修道/禅文化研究所P455-456から引用)

 

龍潭は、もともと悟っていたが、一年かけてそれに気づいただけと言うのは簡単である。龍潭が、寺で坐ることなく悟ったのはなぜだろうか。禅寺の炊事係なら誰でも悟るわけでもない。

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禅問答の二つの相

2024-06-26 06:11:34 | 達磨の片方の草履

◎いつまでも続けることができない

 

禅は、悟っているか悟っていないかであって、中間段階はない。そして禅問答の大半は、悟っていない弟子が悟った師に問答をしかけるが、けんもほろろに相手にされていない問答になっている。

だから退屈なのが多い。

禅の公案は、ジュニャーナ・ヨーガのネタであり、そもそも正解のない問題を「正解のない」ことを世界全体が受け容れるまでやる。

 

だが、そのような問答の中には、悟った後の世界の二重性について言及しているものがある。

 

長沙和尚の話。

『三百則下56則の「長沙刈茅割稲」の話も、自己の立場を明確に示している。

ある僧が長沙に問うた、「本来人は、一体、成仏するのでしょうか」。

長沙、「あなたは「中国の天子が茅(かや)を刈り稲を割(か)るかどうか』言ってみよ」。

僧 、「成仏するのは、誰でしょうか」。

長沙、「外ならぬあなたが成仏してるのだ。わからぬのか」。(河村本一八九頁)

出典は「円悟頌古」39則である。本来人が実体視されるのも誤りであり、自己の外にあるのも誤りである。

 

長沙は、自己について、『光明』『十方』『諸法実相』の巻に引用される『伝燈録』巻一〇で、次のように言っている。

長沙和尚は、上堂して言われた、「わたしがいちずに宗教を宣伝したら法堂の中は一丈の草が生い茂るであろう。

わたしは、だから、やむなく諸君らに言うのだ、「宇宙とぶっつづきが出家 者の眼であり、宇宙とぶっつづきが出家者の全身であり、宇宙とぶっつづきが自己の光明であり(尽十方世界是自己光明)、宇宙とぶっつづきが自己の光明の中に在り、宇宙とぶっつづきが自己でないものは一人もいないのだ」と。

わたしはいつも諸君らに言っているだろう、『過去・現在・未来の諸仏たちと全世界の衆生とが摩訶般若(偉大な智慧)の光である』と。光が発しない時は、諸君らはどこに任(まか)せるのか。光が発しない時は、まだ仏もいない衆生もいない様子であり、どこに山河国土を得ようか。」。

 

その時、ある僧が問うた、「出家者の眼とは何ですか」。

長沙、「いつまでも続けることができない」。また、答えた、「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」。

僧、「一体、何を続けることができないのですか」。

長沙、「昼に太陽を見て、夜に星を見る」。

僧 「わたくしにはわかりません」。

長沙「妙高山(スメール)の色はどこまでも青い」。(四部叢刊本二丁左~三丁右)

 

自己が摩訶般若の光と説く長沙の言葉に接して、一種の驚きを感じる。一般に弥陀の絶対他力を説く浄土系の信仰に対しては、禅は自力の宗教と枠組みされる。長沙の宗教は自力といえるようなところは全くない。道元禅師の宗教も一般にいう自力と把握するのは誤りであることを、この長沙の説法は教えてくれる。』

(中国禅宗史話/石井修道/禅文化研究所P270-272から引用)

 

この『長沙、「いつまでも続けることができない」。また、答えた、「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」。』(上掲書から引用)という箇所が、みじめでなさけない人間である自分と、すべてのすべてである仏である自分の二重性の実感を説いている箇所。

 

これは、ダンテス・ダイジの詩『おれは神』と同じことを言っている。

 

同様に『「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」』(上掲書から引用)は、同時に二者でいられないことを示し、それは、山本常朝の葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』で感じとれる。

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ダンテス・ダイジの好きな芭蕉三句

2023-09-16 07:01:27 | 達磨の片方の草履

◎ほろほろと 山吹散るか 滝の音

 

ダンテス・ダイジは、芭蕉のことを評価していた。彼が好きだった三句。(参照:君がどうかい?/渡辺郁夫編p129)

 

ふと見れば なずな花咲く 垣根かな

※これは、続虚栗(ぞくみなしくり)という句集にある「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」である。普段は気にも留めぬなずなの白い花だが、波もない水面の如く落ち着いた心には、よく映って来る。

 

旅人と わが名呼ばれん 初時雨

※これは、笈の小文にある。前書に「神無月の 初(はじめ)、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」とある。奥の細道序文に「月日は百代の過客にして」とあるように、寄る辺なき旅人気分が芭蕉にはいつもある。それは、芭蕉が旅から旅の人生だからというわけでもなく、覚者の孤独の影が差している。ダンテス・ダイジは、神人合一したことで、何もかも見知らぬ世界に生きることになり、帰る家を失った。郷里がなくなれば、彼は旅人でいるしかない。そのことを道教の大立者呂洞賓は、無何有郷と呼ぶ。

その心情を覚者の社会性喪失から来るところの寂寞とだけ見るのでは浅い。六神通と言われる超能力を駆使できてもそこは残るのだろう。悟ると世界は逆転するが、世界の逆転とはそのような旅人となることなのだろう。

 

ほろほろと 山吹散るや 滝の音

※これも、笈の小文にあるのだが、「ほろほろと 山吹散るか 滝の音」で、一文字違っている。吉野川のごうごうたる滝の音を遠くに聞きつつ、桜にも劣らぬほどに咲き誇った山吹がほろほろと散っている。ダンテス・ダイジは、「このほろほろがよい。」と嘆じている。

 

松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けている。

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抜隊(ばっすい)

2023-09-05 06:50:07 | 達磨の片方の草履

◎小悟を重ねながらも完璧な悟りを目指す

 

抜隊得勝(1327-1387)は、後醍醐天皇没後の室町時代始めに活躍した人物。神奈川県足柄上郡中井町に生まれ、4歳の時に父を失い、出家は29歳と遅い。

8、9歳の頃、死後極楽か地獄に行って、あるいは成仏するような霊魂とは一体何か、またこのように見たり聞いたりする自分とは何かと、深く疑ったという。

20代の頃、相模治福寺の応衡禅師に師事し、悟りかけたのが数十度だが、悟りはしなかった。

出家の際、諸仏の大法を悟って、一切衆生を救い尽くして、その後に涅槃を成し遂げたいと考えていた。

通例、大悟以前の禅の修行においては、一切衆生を救い尽くすなどという考えすら雑念として棄てるべきものだが、抜隊はダークサイドに堕ちず、きちんとしていたのだろう。

抜隊は、山の中で坐り、路辺に坐り、あるいは、眠らないようにするため樹上に坐るなど、昼夜分かたず、脇を倒さないほどの、猛烈な冥想修業をした。里人がこれを憐れんで粗末な草庵を作ってくれたほどだった。

 

さてある長雨の頃、谷川の水声を聴き、この渓声を聴くのは誰かと疑って、身体全体疑団となったところ、まだ悟っていないと感じた。更に坐り、暁に渓声が肺肝に入るのを聞いてこの疑団が晴れたものの大悟ではないことを自分でも感じていた。

そこで親友の得瓊に相談したところ、自分の経験から山野での自修は結局不可であるから、真に悟った師について参禅すべきだと抜隊を諭した。32歳の抜隊は、出雲の孤峯覚明禅師に参禅し、

「趙州は、なぜこの無字をいうのか?」と問われ、

「山河大地草木樹林ことごとく悟っている」と答えたところ、

「おまえは、情識をもって言っているのか?」と突き返され、

抜隊はその瞬間(言下)に大悟した。

抜隊は、孤峯に参じて60日で大悟したのだ。

 

以後抜隊は、全国各地を行脚する旅を行う。

晩年の康暦2年(1380年)正月に、富士山に向かって説法する霊夢を見たことにちなみ山梨県塩山に向嶽庵(嶽は富士山)を開いた。塩山仮名法語などが残る。

 

室町時代の始めの混乱期に、衣食の不便も厭わず冥想環境としては最悪の山中や道端で坐り続けた気概と志に凄味を感じさせる。

さらに何度も小悟を重ねながらも、完璧な悟りを目指して坐り直す、自分に対する厳しさには目を見張るものがある。

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華叟宗曇

2023-08-03 07:01:38 | 達磨の片方の草履

◎冷たい灰をかき混ぜて炭火を見せる

 

自殺未遂をして、傷心癒えきらぬ一休は、求道の志やみがたく、22歳にして堅田のやはり貧乏寺の華叟宗曇の祥瑞庵の門を叩いた。華叟はなかなか入門を許さず、一休は四、五日門前にあったが、ある朝華叟の目に留まり、「すぐに水をぶっかけて、棒で叩いて追い出せ」と弟子に命じられたものの、夕方には入門を許された。

 

華叟宗曇は、大徳寺の大燈国師の系譜に連なる師家。一休は、堅田の岸辺の葦の間やあるいは知り合いの漁師の小屋を借りて徹夜で坐禅を続けた。食事も一日二回とれなかったので、その漁師からもらったもので食いつないでいたらしい。なおその漁師の妻は鍋や釜をかきならしては夜坐の邪魔をした。

また華叟が病気になった時、窮迫のあまり一休は、香包や雛人形の衣装などをこしらえては京都で売って、薬代を稼いでいた。

ある日、一休は華叟に命じられ薬草を刻んでいたところ指から血が出て作業台を赤く染めた。華叟はこれを睨みつけて、お前の身体は頑丈だが、手の指は軟弱なことよと言った。これを聞いて一休の指はますます震えたが、華叟は微笑んだ。

一休25歳。平家物語祇王失寵の段で小悟。

 

一休27歳の夏の夜、鴉の声を聞いて悟るところがあり、すぐにその見解を華叟和尚に示した。華叟は「それは羅漢(小乗の悟り)の境涯であって、すぐれた働きのある禅者(作家の衲子)にあらず」といわれた。そこで一休は「私は羅漢で結構です。作家などにはなりたくない」といった。すると華叟は「お前こそ真の作家だ」といい悟りを認め、偈を作って呈出するようにいった。

「悟る以前の凡とか聖とかの分別心や、怒りや傲慢の起こるところを、即今気がついた。そのような羅漢の私を鴉は笑っている。

前漢の班婕妤は昭陽殿に住んで、成帝の寵愛を受けたが、趙飛燕姉妹のために寵を失った。その際、彼女の美しかった顔は、寒い時の鴉にも及ばないと嘆くようなことになった(それは羅漢と同じ)。」

 

その後華叟は、一休に印可(悟りの証明)を渡そうとしたが受け取りをことわったので、彼の同席のもとに一休の縁者の橘夫人にこれを渡した。

華叟は、腰痛がひどく、おまるも自分で使えないほどだったので、弟子たちが交代で下の世話をした。弟子たちは竹べらで始末したが、一休は素手で始末した。

一休は、大燈国師にならったのか以後放浪の風狂(聖胎長養)の一生を送る。一休35歳の時に華叟は亡くなった。

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無学祖元

2023-08-01 06:38:34 | 達磨の片方の草履

◎人空にして法も亦(ま)た空

 

無学祖元は宋末の禅僧で、元による難を避け日本に渡来してきた。彼は、蒙古の第2回侵寇弘安の役(1281年)の二年前、執権北条時宗に招請されて来日。鎌倉の円覚寺の開山。

 

中国の政権の瓦解が見えてくると中国の宗教者や青年が日本に渡って来るものだが、今回はどうか。青年はいるが宗教者はいないのだろう。

東洋経済online2023年07月31日10:30の“結婚が「10年で半減」中国で何が起きているのか”という記事では、中国の婚姻件数は9年連続で減少し、10年足らずで半減し、2013年の約1350万組から2022年約680万組となった由。これもその前兆である。

一方五公五民の日本では、若者が子供二人もまともに育てられない人生設計にしかならない日本に見切りをつけ、海外移民を目指すシーンも出てくるのではないか。生活の場として、日本が良くて中国が悪いというのは、もはや現実ではなく単なる先入観かもしれない。

バブル期に日本が良くなりすぎ、30年の無成長の結果、重税・重社会保険料・重い再エネ賦課金により、いつしかジリ貧国家となり、若い日本人が日本を見切る時節も見えて来た。

 

無学祖元は、元寇対応で有名な北条時宗の禅の師として有名である。13歳で父を失い出家、杭州径山寺の無準和尚に参じ、無字の公案を与えられた。七年後、寺僧の打つ木版の音を聞いて開悟したが、無準老師は、これを小悟と退けた。

無準遷化後も無学祖元は、さらに十数年も冥想修行を継続、36歳の時、道端で井戸水を汲む轆轤(ろくろ)がくるくる回っているのを見て、廓然として大悟した。

 

折しも元兵の兵難に追われ、浙江省台州真如寺から温州能仁寺に移ったが、そこにも元兵が乱入してきた。無学祖元は、ただ一人坐禅していたが、首に刀を当てられたところで、一偈を唱えた。

 

乾坤弧笻(こきょう:竹の杖)を卓(た)つるに地無し

喜び得たり人(ひと)空(くう)にして法も亦(ま)た空なるを

珍重す大元三尺の剣

電光影裡に春風を斬る。

 

大意:

天地の間に竹杖一本を卓てるところはない、喜ばしくも気づいてしまった、人は空であり法もまた空であることを。

大元の三尺の大剣を有難く受けよう

(私を斬っても)春風を一瞬にして斬り裂くようなものだ。

 

気押された元兵は去って行った。これは、辞世の偈である。『喜び得たり人(ひと)空(くう)にして法も亦(ま)た空なるを

』とは、首に剣を当てられて、もう一度大悟したということだろうか。恐怖の恵み。

 

『春風』という軽さが、彼のいた境地の本物であることを示しているように思う。

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大燈国師遺誡

2023-07-21 07:17:45 | 達磨の片方の草履

◎冥想修行者は、悟らなければ駄目

 

大燈国師宗峰妙超は、花園天皇との対話で有名な禅僧。悟り後、大応禅師に印可(悟りを認められること)されたが、引き続き悟りを深める聖胎長養を鴨の川原で乞食として7年行った。

大燈国師は臨終に際し、長年曲がらなかった足を故意に折って出血しながら結跏趺坐し、この遺誡を述べた。

 

他宗派の聖者からも大燈国師は別格と見ている人がいる。ダンテス・ダイジの冥想道手帳の経文篇にも大燈国師遺誡が挙がっているが、長年どこが凄味があるのかピンときていなかったが、禅を『クンダ自体の中に没入する近道』と見た場合、近道は遠い道であるクンダリーニ・ヨーガ(密教、道教、古神道など)より困難なだから無理な修行を究め尽くせよというところで、禅の修行者はピンとくるのだなと感じるところがあった。

 

以下【】内は大意

『興禅大燈国師遺誡

 

汝ら諸人、この山中に来たって、道の為に頭をあつむ。 

【諸君はこの山中に来て、道のために集まっている。】 

           

衣食の為にすること莫(なか)れ。肩あって着ずということなく、口あって食らわずということなし。

【衣食を得るためにしないこと。肩があるので、着物を着ないということはなく、口があるので、食べないという事はない。】

 

ただ須(すべか)らく十二時中、無理会(むりえ)の処に向って、究め来り究め去るべし。 

【一日二十四時間、理屈が通らない無理な不可能な処(達磨が西からやってきた理由。公案を透過した大悟。)に向かって、究め来て、究め去ること。】

 

光陰矢の如し、慎んで雑用心(ぞうようしん)すること勿(なか)れ。

看取せよ。看取せよ。 

【時間はあっという間に過ぎる。くだらないことに心を用いてはいけない。(その心の動きを看て取れ。)】

 

老僧行脚(あんぎゃ)の後、或は寺門繁興し、  仏閣経巻に金銀をちりばめ、多衆閙熱(にょうねつ)、或いは誦経(じゅきょう)諷咒(ふうじゅ)、長坐不臥(ちょうざふが)、一食卯斎(いちじきぼうさい)、六時行道、

 

【私が(大燈国師)行脚した後、寺が栄えて寺やお経にも金や銀がちりばめられたり、大勢が集まり賑わったり、あるいはお経や、マントラを唱えたり、横にならず長時間坐禅をしたり、食事を朝だけの一食にしたり、一日に六度の修行に励んだりするかもしれない。】

 

たとい恁麼(いんも)にし去るといえども、仏祖不伝の妙道を以って、胸間(きょうかん)に掛在(かざい)せずんば、忽ち(たちまち)因果を撥無(はつむ)し、真風地に堕(お)つ。みなこれ邪魔の種族なり。

老僧世を去ること久しくとも、児孫と称することを許さず。

 

【たとえ、このようにしていたとしても、仏祖が言葉では伝えることが出来なかった真理(妙道)が胸にいつもあるのでなければ、たちまちそれまでの法を伝承してきた長年の努力(因果)が無くなり、本当のところはわからなくなってしまう。

そういうのは皆、悪魔の種族である。

私が亡くなって長い年月がたっても、そんな修行者は、私の法の子孫と名乗ることを許さない。】  

          

もし一人あり野外に綿絶し、一把茅底折脚鐺内(いっぱぼうていせっきゃくしょうない)に、野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に己事(こじ)を究明する底は、老僧と日日相見(にちにちしょうけん)、報恩底の人也。

誰か敢えて軽忽(きょうこつ)せんや、

勉旃勉旃(べんせんべんせん)。

 

【もし人里離れた野に一人でいて、小さなあばら家に、壊れた鍋で野菜の根を煮て食べながら冥想(瞑想)修行しているとしても、ただひたすら自分自身に直面、究明するような人こそが、私と日々顔を合わせて参禅しているようなものであって、私に恩を報いてくれる人である。

そのような人を誰があえて、軽んじようか。           

努力せよ。努力せよ。】

 

道元は、悟っていなくとも坐っているその姿が悟りだなどと紛らわしいことを言っているが、大燈国師はそれを許さない。とにかく、寺にあっては悟らなければ駄目だとする。現代の冥想修行者にとっては、それは当たり前だ。

また、ここでは、寺で修行する前提だが、万一寺で悟りを求める人が少なければ、現代では、冥想修行に適した環境を求めて、「寺を出るという出家もある。」と嘯いたダンテス・ダイジもいたことも承知しておきたい。

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謙翁のこと

2023-07-16 06:42:31 | 達磨の片方の草履

◎舟橋は、地獄の渡しか、極楽の渡しか?

 

謙翁と言えば、一休(周建)が17歳から21歳の多感な修行時代に師事した和尚で、その死に際して自殺未遂までしたほどの大物覚者。謙翁は、師匠妙心寺の三世、無因禅師が印可(悟りの証明書)を授けようという仰せに対して、謙遜して受けなかったので謙翁という。

 

作家が人物評伝を書く場合、その人物が部屋の隅に立って、「そうではないよ」と教えてくれることがあるという。一種の観想法の極み。水上勉の一休もそういうことがあったのだろうか、謙翁の雰囲気のわかる水上勉の古文の創作文が、「一休/水上勉/中央公論社P42-43」にあり、謙翁の真実の姿がありありと偲ばれるほどだったので、これを現代文に試訳してみる。

『17歳の時、雲知坊の随行で建仁寺に参ったが、夏であって、今のような橋ではなく、20艘の丸木舟を並べた舟橋であった。

すると船より嬰児の泣く声がする。足を止めて覗いてみたところ、やせ細って骨ばかりの着物の破けた女が背中と腹を見せて子と伏せている。子供は足なえで、病気のようで、飢えているのか泣き声に力なく、女の腹にむしゃぶりついて乳をまさぐるが、しぼんだ乳房にあばら骨が浮き出ており、ただのけぞっているのが、大層あわれである。

雲知坊が、「女は盲目だが、おぬしは見たか?」と。

周建、「私も見ました。」

雲知坊、「女は飢え死にするだろうが、子のあわれなことはいうまでもないが、女のさとり顔であったのは、もはや今生に欲もないものと思われる。

舟橋は、地獄の渡しか、極楽の渡しか?」

周建、黙して答えず。

 

帰途再び舟橋を渡ったところ、件の船に母子の姿なく、川岸に乞食たちが集まって合掌する者がいて、その中に僧が一人いた。

この僧は年齢ははっきりしないが、髪を伸ばし衣破れ、かけた絡子がぼろぼろなので、ただ僧形の乞食と見えた。いぶかしみながら近づいてみたところ、岸辺にむしろを敷いてしゃれこうべに見えたのは、朝舟橋で見た女と嬰児だった。

心寒くなって走って戻って、僧堂に入るやいなや、

雲知坊、「あの僧は、西金寺の謙翁である。」

周建、「謙翁って誰ですか?」

雲知坊、「貴殿は知らなかったのか?その師匠は、関山一流の禅を継承している花園(妙心寺)の無因の後継者(嗣法)である。師の印可も謙遜して受けなかったから謙翁という。それは道号である。」

周建は急いで賀茂川に戻ってみたが、件の僧の姿がなかったので、その足で西金寺に入った。謙翁は周建を一目見て、眼光尋常ならざるを察して、入門を許された。』

 

謙翁は西金寺にあって、門を閉じて誰も寄せつけず、その宗風は孤高嶮峻であった。それがゆえに、ぼろぼろの今にも壊れそうな貧乏寺だった。

一休が20歳の時に、謙翁が彼に「私の法財はもうすべてお前に与えたが、私には印可がない。だからお前を印可しないのだ。」と一休の悟りを認めた。

 

一休が21歳の12月、その心酔する謙翁和尚が亡くなったが、葬式をしようにも金がなく、ただ心だけで喪に服するのみであった。

受け止め切れぬ衝撃に茫然とした一休は、西金寺から大津、石山寺へと彷徨い、やがて瀬田橋に着いて、川に身を投げようとしていた。虫が知らせたのか一休の母の使いの者が、ここに追いつき、入水を思い止まらせた。

 

このあまりにも純粋なエピソードには、後年の男色女色に溺れつつ、衆善奉行諸悪莫作の基本線を逸れない自由自在の覚者一休の原点をうかがうことができる。

またこの餓死した女の悟り顔は、ダンテス・ダイジが、インドの街路で飢え死にした若い女の表情に光明を見たのと同じ。

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五種類の罪業を造ってはじめて解脱を得られる

2023-06-28 06:37:01 | 達磨の片方の草履

◎生きているこの身このままで悟りの姿

 

臨済録を読んでいると、ご飯を食べたり、トイレに行ったり、眠くなって寝てしまうのが、そのまま仏の姿、悟りの姿であるなどと書いているので、面食らう。そんなはずはないからである。

臨済はさらに一歩進んで、無間地獄に落ちる五種類の罪業を造って、はじめて解脱を得られるのだとまで言っている。

 

私は、これについて若い頃は、悟りを開けば五族昇天すと言うほどそれまでの悪カルマがどんどんと解消するのだから、悟りを開いた時点からカルマが全面的に善い方に逆転し始めることをいうのだろうと思っていた。

最近は、むしろOSHOバグワンの言うように、人間はすべて悟っているがそれに気づかないだけであるという説明の方が近いと思っている。

臨済の五無間業を犯してはじめて解脱を得られるというのは、なまなまに日々漫然と生活しているだけでは、自分が悟っていることに気がつくモチベーションが起きることはない。むしろ五無間業を犯してはじめて、人間として生まれたからには大悟覚醒せねばならないというきっかけが起きて来ることを言っていると考えている。

※五無間業:無間地獄におちる五種の重罪。母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢(見仏経験者)を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること。

 

そうした見解の下で、二人の僧が御簾を巻き上げたが、一人の僧はOKになったが、もう一人の僧はNGとなったとか、ある僧が居眠りしたのはNGだったが、臨済が居眠りしたのは師の黄檗に咎められなかったという話がある。

生きているうちには、必ずどこかで五無間業をしでかすようなことはあるものだが、ひとたび大悟すれば、二度と悪事を犯すことはないというのも真相なのだろう。諸悪莫作、衆善奉行(善いことをして、悪いことをしない)。

 

臨済録示衆13から。

『【大意】

師は大衆に示していった、「修行者たちよ、仏法は営為を用いるところのないものだ。平常で無事であって、大小便をしたり、着物をきたり、 飯をたべたり、疲れたらすぐに横になって休む、ただそれだけのことで ある。

愚かな人はそういうわしを笑う、しかし智者はこれをわかってくれる。古人もいった、『外に向って思慮をめぐらすのは、みんな大馬鹿ものだ』と。

まあ、諸君、どこででも自己が主人公となれば、立っている所はすべて真実である。どんな境がやって来ても、君たちを引き廻すことはできない。たとえこれまでの悪因縁の餘習や無間地獄におちる五つの行為があったとしても、それらは自然に解脱の大海になるだろう。』

(禅家語録Ⅰ 筑摩書房の臨済録P325から引用)

 

『【訓読】

師、衆に示して云く、「道流、仏法は功を用いる処無し。祇だ是れ平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯、困じ来れば即ち臥す。愚人は我れを笑う、智は乃ち焉(こ)れを知る。古人云く、『外に向って功夫を作す、総に是れ痴頑の漢』と。你、且らく随処に主と作れば、立処皆な真なり。境来れども回換し得ず。縦い従来の習気、五無間の業有るも、自から解脱の大海と為らん。』

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関山慧玄が立ったまま世を去る

2023-06-25 06:21:54 | 達磨の片方の草履

◎雨漏りの部屋にざるを持ってくる

 

関山慧玄は、妙心寺の開山だが、語録はない。以下のようなエピソードがある。

『雨もりする丈室

妙心寺の関山大師の居室はいたみがひどく、雨の降るたびにすわる場所がないほどであった。その日もひどい雨であった。大師は傍に控えていた者たちに命じた。

「何か器を持って来て、雨の漏るところへ当てなさい」

すると一人の小僧はただちにざるを持って来た。大師はこれをはなはだ賞められ た。

ところが、その後にもう一人の小僧が桶を持って来たところ、大師は、「この馬鹿者め」と罵って、追い出してしまった。』

桶を持ってくるようでは、道は遠い。またこうして追い出された小僧でも、何度も追い出されてもあきらめずに冥想修行を続けた者の中に悟りを開いた者が出ている。関山慧玄を看取った授翁の後継者の峨侍者は、関山に25回もたたき出された。

 

『柏樹子の話に賊機あり

日、関山は「柏樹子の話」を指して、衆に示していわれた。

「柏樹子の話に賊機あり、諸人、看よ、看よ」 』

趙州禅師が、仏とは何かと問われて、庭の柏樹子であると答えた。この手の回答は多く、くそかきべらと答えた例もある。いわば回答は何でもよいのだ。そこで、関山は、この禅問答は簡単だが、全部持っていかれるぞと注意を与えている。

つまり、庭の柏樹子をありのままに見るということは、恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみもありのままに見るということであって、水平の悟りにつながっていく。

 

『立亡

ある日、関山は旅装を整え、笠をつけると、弟子の授翁を呼び、後に従えると、妙心寺山内の風水泉(井戸)のところまで来た。関山は傍の松の大樹によりかかると、授翁に遺誡を伝え、そのまま静かに立ったまま亡くなった。』

立ったまま亡くなったのは、禅の三祖僧璨だが、彼は、中風を病んでいた。俗には畳の上で死ぬのが大往生とされるが、死も超越した禅者にそのような形式はない。その死に様も公案として残したのだ。

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物書きて 扇引きさく なごりかな

2023-06-06 06:23:33 | 達磨の片方の草履

◎芭蕉が永平寺を参詣する

 

芭蕉は、奥の細道の終わりの方で、長く同行した曾良と加賀の山中温泉で別れ、また金沢から同行してくれた北枝と永平寺手前の天竜寺で別れることになった。

 

『物書きて 扇引きさく なごり(余波)かな』 芭蕉

(夏の間、使い込んで来てなじんだ扇を引き裂くように、別れが名残惜しいことだ。)

 

実際には、芭蕉は扇にこの句を書いて北枝に形見の品として渡したもの。

芭蕉はその後、山門から5キロほども入って本堂のある永平寺を参詣。京都から千里も離れた場所に道元禅師がこの寺を建立したのは、貴いせいであるか、とあっさりした書きぶりである。

 

芭蕉はどう悟るかよりは、悟りを持ったまま生きることのほうに関心があったのだろう。

 

強風吹きすさぶパミール高原を越えて、達磨が中国に持ち込んだ只管打坐は、達磨本人も毒を飲まされ、二祖慧可は片腕を失い、三祖僧璨(さん)は卒中に苦しんだが、その身心脱落テクニックは、道元によって日本に持ち込まれた。そのモニュメントが永平寺。

 

盲目の予言者テイレシアースは、ナルキッソスを占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言した。果たして16年後ナルキッソスは、泉に映った自分の姿を見て、そこから離れられなくなり、やせ細って死んだ。

 

自分の姿を見て自分に恋をしたというのは、その美男ぶりを強調するあまりの思わせなのだろうが、本当の自分に出会うことは恐ろしいものだという裏の意味が含まれていると思う。ナルキッソスが泉で死んだのがポイントではなく、本当の自分を知ると長生きなどあまり意味を持たなくなるということのほうに比重があったのではないか。

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大梅法常

2023-05-18 03:48:28 | 達磨の片方の草履

◎道元のお気に入り

 

道元が五台山から天童山に帰る途中に寧波の大梅山護聖寺に泊まったが、夢に大梅法常禅師が現れた。大梅法常禅師は開花した梅の花一本を道元に与えた。この花の縦横は一尺あまりだった。この梅の花は優曇華であった。

 

なお、優曇華を受けた者は悟っているということ(拈華微笑の故事)。道元は、この夢について、夢の中も覚めている時も同じく真実であると述べている。

(参照:正法眼蔵の嗣書篇)

道元は、大梅法常のことを気に入っていたようだ。道元はこういうところが人間くさい。

 

さて、大梅法常は、馬祖に参禅し、「仏とは何か?」と問うた。

馬祖、「即心是仏」。

大梅法常は、これを聞きたちまち大悟した。

 

以後約40年間、大梅法常は大梅山にこもって独り草庵を結んで聖胎長養を行った。この間松の実を食べ蓮の葉を着物として暮らし、世間のことは見聞せず、ただ四方の山が春には青く秋には黄色くなることだけを見て暮らした。

そんな中、馬祖の弟子筋の塩官が、山から出てきて説法するように依頼したが、ついに大梅法常は山を下りることはなかった。

(参照:正法眼蔵の行持 上篇)

 

また、正法眼蔵の行持上篇には、以下の話もあるが、私は嘘だと思う。

『大梅法常は頭頂に八寸の鉄塔一基を置いて落とさないことを、眠気覚ましとして坐った。この鉄塔は今も大梅山にある由。』

禅では、錐を腿に刺しては眠気を払った慈明の逸話もある。眠気の問題も大切だが、もっと重要なポイントがあるのではないか。

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仏道をならうというは、自己をならう也

2023-05-16 03:22:16 | 達磨の片方の草履

◎道元の正法眼蔵の現成公案から

 

道元の正法眼蔵の現成公案から。

 

【原文】

『仏道をならふといふは、自己をならふ也

自己をならふといふは、自己をわするるな り。自己をわするるといふは、万法に証せ らるるなり。万法に証せらるるといふは、

自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。』

 

【大意】

『仏道修行するというのは自己をならうことである。自己をならうというのは、自己を忘れることである。そういう自己を忘れるということは、あらゆる存在から実証されることである。あらゆる存在から実証されるということは、自己の身心および他人の身心が脱落させられるということである。

その悟りの痕跡は、まったく休みきっているものであり、まったく休みきっている悟りの痕跡を永久にそのままにさせるのである。』

 

この中で、『あらゆる存在から実証されるということは、自己の身心および他人の身心が脱落させられるということである。』において疑問なのは、『自己の身心および他人の身心が脱落させられる』という部分。これは、身心脱落の結果、いきなり“なにもかもなし”であるニルヴァーナに至ることを言っているのだろうと思う。第七身体ニルヴァーナに到達すれば、世界全体・あらゆる存在である第六身体アートマンは認識可能なのだろう。

よってそのことを『あらゆる存在から実証される』と表現しているように思う。

また『自己の身心および他人の身心が脱落させられる』とは、自己を忘れることでもある。

 

『悟りの痕跡は、まったく休みきっている』とは、悟りが時間のない世界にあるから永久のものであり、それを『休みきっている』と称しているのだろう。

道元にとって、悟りは体験とは言えない体験だが、その感動は永久に消えない痕跡として、思い出として残っているのだろう。

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天龍寺の峩山和尚が丁稚にやり込められる

2023-05-13 06:24:51 | 達磨の片方の草履

◎丁稚が池の鯉を欲しがる

 

天龍寺の峩山和尚が、池のほとりを散歩していたところ、丁稚らしき者が来て、「和尚さん、池の鯉をくれないか」という。

峩山和尚「この池の魚は取ってはならんぞ。」

丁稚「そんなことを言って、お前が取るのではないかな。」

峩山和尚「・・・・・」

 

峩山和尚もこの返答には困った。和尚、後に弟子に謂うには「何と言っても無我には勝てない。」

(出典:仰臥漫録/正岡子規/明治34年9月26日の条)

 

無我を湛えて生きているのは、三歳頃から小学校1~2年くらいまで。それまでの間に社会的訓練という名の社会からの抑圧はないではないが、まだ和尚をギャフンと言わせる程度の本来の自己の輝きはある。この年代の子供の発言にわが身が恥ずかしくなったことは誰にでもあるのではないだろうか。

 

この年代は社会的訓練は足りておらず、頑是ないものだが、本来の自己を生きる師僧には、本来の自己の輝きの方がずしんと来る。

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冷暖自知

2023-05-12 06:32:08 | 達磨の片方の草履

◎体験とは言えない体験

 

蘄(き)州黄梅県(湖北省黄岡市黄梅県)にあった禅の五祖弘忍の下で、坐禅はせずに米つきばかりやっていた六祖慧能は、夜中に五祖に呼び出され、伝法者の証拠である衣鉢を授与された。ところが五祖弘忍の言うには、多数の修行者がいる寺で、僧のランクでいえばごく末端の六祖慧能が、禅の最も重要な秘密を引き継ぐということがけしからぬということで、ねたみそねみにより、衣鉢を奪ったり命を狙おうとする者が出るのは間違いない。よって、たった今から密かに南方に逃げ帰りなさいと命じた。

 

五祖は、慧能を九江の駅まで送り、さらに渡し舟の櫓を自ら漕いで江を渡してやった。

 

二か月ほど経って慧能は、大庾嶺(だいゆれい)の頂上にやってきた。ところが想定通り数百人の弟子たちが慧能を追跡してきていた。大半は途中であきらめたが、その中の一人古参僧の恵明が追いついたので、慧能はさっさと彼に衣鉢を渡した。

 

すると恵明は、はたと考え込んで、「私は法を求めるのであって、衣鉢を求めているのではない」と言い出した。

そこで慧能は「善を思わず悪を思わず、あなたの本当の自分はどこにあるか。」と問うと、恵明は即座に大悟し全身から汗が流れた。恵明は、その悟りのプロセスを「人が水を飲んで、冷暖自ら知るが如し。」と語った。

 

水の冷たい暖かいが、飲めばわかるということはわかるが、そうしたものであることは、体験とは言えない体験をしてみて初めてわかることであって、言葉で伝えられはしない。

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