◎それがどんなに恐ろしいことであっても、ありのままに見る。
7.恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみも、ありのままに見る。それがどんなに恐ろしいことであっても。
以下ダンテス・ダイジ講話から。
『ダンテス・ダイジ「説明してやれ、H。それはとてもいい、坐禅についての正しい立場だ。いやなものが出てきたのを通過する感覚。」
弟子H「感覚は短くなると思う。自分が突き詰められる度合い自体が…」
ダンテス・ダイジ「その場合、突き詰められた度合いと、抜ける度合いとの関数は?」
弟子「関数?」
ダンテス・ダイジ「うん、数式で表せるはず。」
弟子「もう一回言って。」
ダンテス・ダイジ「突き詰める度合いと、それが通過できる間の時間的な関数だ。突き詰めた度合いが高まれば、通過する時間が短くなるか長くなるかってこと。」
弟子「短くなる。」
ダンテス・ダイジ「それが関数だ。本当に突き詰めれば、それだけ早く通過できる。」
弟子「緊張が起こってるときは引っ込んでることが多い?」
ダンテス・ダイジ「そのこと自体は、水平の悟りには多少役立つけど、たいして意味はないんだ。最後は、本当にジャンプしたいんならば、最後の緊張に耐えられる自己をつくるっていうこと。」
弟子「それは肉体的鍛錬じゃなく?」
ダンテス・ダイジ「最終的には、その人の意識だろう。どんなことにもくらまされない意識。それと気力だね。はっと気が付いたら10時間20時間くらい経ってたっていうところまで行くと、もう近いだろう。こうやって座り込んで、只管打座でもいいし、クンダリニー・テクニックでもいいけど、いつの間にか気づいて、昼ごろから始めたのがもう真夜中だったとか、そのときそれが坐禅の力というか、覚醒の力、切羽詰まってくればそうなる。10時間くらいあっという間に過ぎちゃうよ。静寂の中で。
その頃になるとだいぶ有望になってくる。」
弟子「それは定力?」
ダンテス・ダイジ「定に入ったこと。あれ、次の日だ。こうなってくると、もう近い。座った瞬間、ぐっと入っちゃう。」
弟子「そうならないってことは、まだやりたいことがあるってことか。」
ダンテス・ダイジ「十分に見てないってことだろうな、現実を。」
弟子「時期が来てないってこと?」
ダンテス・ダイジ「そうも言えるけど、単純に見てないだけだよ、現実を。自分が死ぬという現実。年老いるという現実。人間のエゴのトリックという現実。見てたらやらざるを得ない。定力もへったくれもなくなる。」
弟子「そういうのは後からつけた名前に過ぎないし説明の仕方にすぎないわけでしょ。」
ダンテス・ダイジ「うん。Hだって、この辺が調子悪いって(病院)行ったら胃癌だ、あと三日だ、なんていったらやるだろ。これをやれば助かるとか、これをやれば死を超えられるとか。それは感受性の度合って言ってもいい。つまり自分の中に少しでも嫌なものがあるということは嫌なことだ。
次に、自分の中のものを嫌だと規定していることを止めることだ。もし嫌だと思い続けていたら、それは通り過ぎる。それをちょうどこの薪(まき)を見るように見るんだ。
それは恐ろしいことだ。自分に近いことというのは、人はそういう風には見えない。ここにビールがこれだけ残っている。これをこういう風に見ればいいだけだ。自分の中のあらゆるものを、恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも何もかも。喜びも悲しみもこういう風に見ればいい。」
弟子「多くの場合は、偏見を持って見るってところがあるわけね。」
ダンテス・ダイジ「ていうより、自分のことだから見えない。見えるようになってくる、どういうわけか、只管打座をやってると。ここが不思議な所だ。坐禅ていうのは不思議なもんだな。仮に見えなかったら、今度は見えないという事実を見るという風に行っちゃうわけだな。そこだ。そこでもう、ドン詰まりになって、疑いようのないそこに達するわけだ。疑いのようのないここと言ってもいい。疑いようのない安定、絶対の地盤っていうか。ベース。」』
この問答の前半は、自分に向き合うことを突き詰めていくことと、『本当にジャンプしたいんならば、最後の緊張に耐えられる自己をつくる』ことがクリティカル・イシューだとしていること。
この問答の後半は、『最後の緊張に耐えられる自己』に必要なものは、どんなことにもくらまされない意識と気力(定力)だとし、その説明をしている。
漠然と読むと、(只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも(水平でも垂直でも))一日十時間も坐れるようになれば悟りに近いということは頭に残るが、どうすればどんなことにもくらまされない意識と気力(定力)ができるのかは、この問答では明かされていない。
『坐禅ていうのは不思議なもんだな。仮に見えなかったら、今度は見えないという事実を見るという風に行っちゃう』とは印象的である。
ダンテス・ダイジは、只管打坐については、ごちゃごちゃ理屈を言うよりまず坐りなさい。実際に坐るということに絶対性があるとも語っている。水平の悟りは、『疑いようのないそこ』なのだろうか。
また『本当にジャンプしたい』かどうかも問われる。