アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

西郷隆盛と禅

2023-06-25 20:52:38 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎未発の中

(2006-07-19)

 

日本の政治は薩摩長州というのは、戦前だけではなく、戦後も連綿とその影を落としている。一例として、安倍晋三は長州閥代表である。

 

さて明治維新の大乱の中で、利害得失について大局観を失わずに物事を進めていくためには、個人や一国という人間を超えた立場、己れを捨て去った立場に立たないとならないものである。そこで、幕府方の一人が禅を極めた山岡鉄舟であり、かたや倒幕勢力の薩摩の西郷どんが、これまた禅に打ち込んでいたことはあまり知られていない。

禅なくして、明治新政府の時代を先取りした舵取りの一定の成功はなかったことだろう。新知識、新技術が洪水のように導入されたが、それがそれなりに成功したのは、禅によるバランスのとれた判断力があったと見るべきだろう。

 

西郷隆盛は、17歳から28歳までの間、一日も怠ることなく、誓光寺の無三住職について禅をしていた。大山巌が、朝早く西郷隆盛の家を訪れると、既に西郷は無三住職の下から帰って来ていたものだという。

ある日西郷隆盛は、無三和尚に言われた。

「貴下の学んでいる儒書には、喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という、とあるが、未発の中とは何か。」

南洲(西郷隆盛)は、さっそくいろいろと説明した。

すると和尚はすかさず言った。「それは文字の講釈じゃ。朱子や王陽明など古人の残り糟をなめる死に学問だ。おまえさんの活きた本物を出して見せなさい。」

南洲は茫然自失し、唖然として答える言葉がなかった。それから一週間、猛然と禅に打ち込み、ついに未発の中を大悟した。

 

昨今は、知識だけつけて、良い大学に入りさえすれば、将来が開けるとか、難しい資格試験の勉強をして良い資格をとりさえすれば、一生安泰だと思っている人が多い。

ところが資格や高学歴の前に、人生の一大事である『何のために生きるか』について、一つの回答を持っていなければ、人生行路の途中で『うつ』になったり、心身のバランスを崩したりすることが多いのではないか。内面に出なければ、家庭崩壊などの外面に出ることもあるのではないか。

人は、人生のあらゆる局面を「資格」や「学歴」や「知識」や「金」で解決できるものではない。

あの大西郷ですら、10年以上『何のために生きるか』という大問題と格闘した。いわんや市井の凡人ならもっと努力が必要だろう。その方法は、何も臨済禅に限る必要はないけれど、自分にあった冥想によって、納得できるまでアプローチしていく人が増えなければ、日本の未来も、世界の平和も、個々の家庭の安穏もあるまい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷隆盛沖永良部で万事休す

2023-06-25 18:59:45 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎その冥想修業を語らず

(2019-07-27)

 

西郷隆盛は、流刑に2度遭遇し、一回目は奄美、二度目は、沖永良部。沖永良部は奄美と沖縄の間にある。

 

老西郷大島流竄中の事跡によれば、非常にお粗雑な造りで狭隘な牢(二間四方)に閉じ込められ、日光も浴びれず、脚を伸ばせば枕は便所に接し、臭気は我慢できるものでなかったほど(トイレは室内)。

 

また与えられる食事も粗末で量も少なく、もともと巨体で肥満していた西郷の肉体も日に日にやせ細り、ついに歩行の自由を失うに至った。

 

このような状態であるにも拘わらず、君命重しとして、敢えて牢を出ることなく、三度の食事以外は水も口にせず、端座し続け、読書や冥想をしていた。(出典:維新を創った男西郷隆盛の実像/粒山樹/扶桑社P144など)

 

こうした状態が2か月続き座敷牢に移してもらった。

 

狭い牢獄で暫く暮らすと歩けなくなるのは、黒田官兵衛の有岡城の土牢の件でも知られる。

 

こうした冥想しかできないような環境に置かれ、かつ絶望に陥らず冥想を続けるというのは、万事休したが、坐ることはできるので坐ったということ。

社会性は失ったが、冥想しかできなかったので冥想したということ。

 

簡単にできるが如く書いてはいるが、洞窟での感覚遮断実験のようなもので、自分が振れると気が触れる可能性はある。

 

飲まず食わずの冥想は長く続けられるものでなく、2か月で打ち止めとなった。イエスも荒野の冥想は40日。

 

その後、西郷隆盛は写真を残さないまま、戊辰戦争など明治維新前後の戦役をほとんど一人で主導し、西南戦争で没した。西郷隆盛は悟っているが、更に沖永良部でその冥想を深めることで、その後の人生と日本の維新を一気呵成に進めたというべきだろう。

 

覚者の長期の冥想修業は軽々に見るべきではなく、その間の出来事は、聞ける相手が出現して初めて語られるものであって、結局そういう相手は出ずに終ったのだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治政府と西郷隆盛

2023-06-25 18:56:41 | 時代のおわりneo

◎米欧回覧の再評価

(2011-11-23)

 

天皇陛下ご不例にあらせられる時ではあるが、「天皇の暗号/大野芳/学研」を読んだ。

この本は、幕末以来巷間にささやかれる天皇陛下周辺の異説を独自に取材して、裏付けをとろうとした試みの一つである。

明治初期の出来事で腑に落ちない事件はいくつかあるが、その一つが西郷隆盛が下野した理由である。歴史の教科書では、征韓論をめぐる対立で、西郷隆盛が下野したことになっている(武力征伐を主張した板垣らに対して、西郷が全権大使となって韓国派遣を進めたが、実現しなかった云々)。

この本では、西郷の下野について次のような推理をしている。

西郷は、福羽美静らの『纂輯御系図』を公表することで、天子の正統であることを明確にしたいという目論みがあったのに対し、大久保利通らは、そうすることで薩長同盟から今日に至るまでの偽勅、密勅などの欺瞞の経緯が白日のもとに晒されるのを嫌った。ましてこの時期、木戸、岩倉は米欧回覧で、国外にいる。・・・・この紛糾が決定的になったので、西郷は官職を辞して薩摩に帰った。

米欧回覧とは、木戸、岩倉、大久保らが、明治4年12月から1年9か月にわたり米欧を遊覧したもので、なぜか大久保だけが明治6年5月に帰国し、西郷にも会わぬまま箱根から京阪に姿をくらまし、木戸は同年7月に帰国、岩倉は9月に帰国。

そして、西郷は明治6年10月24日に辞職。翌25日、板垣退助、江藤新平、副島種臣も辞官、下野。更にこの3日の間に佐官級将校の辞職は46名に及んだという。

これ以後西南戦争に続いていくのだが、この流れを見れば、米欧回覧と西郷下野が連動していると見るのは自然であろう。

更に著者大野芳氏は、明治政府要人の米欧回覧は後世に言われるような西欧国家見学というようなものではなく、日本国内の不満分子からの反撃・復讐を避けるべく、ほとぼりが冷めるまでの海外高飛びではなかったかという卓見を披歴している。

 

明治政府は廃藩置県をやったが、これで幕藩体制の武士は一斉に失職したので、今日のギリシアならずとも、全国的なゼネストやら全国規模の反乱が起きなかったのは不思議ともいえる。その雰囲気の中で明治政府首脳が1年9か月海外に高飛びというのは、まんざらハズレでもないように思える。次の西郷隆盛の言はそれを裏打ちするかのようである。

米欧回覧使節団の横浜出港にさいし、西郷隆盛は、「嗟(ああ)、あの大使一行の乗船が万一太平洋の真中で覆没したらんには、それは却って国家の仕合せならん」と語った。

明治政府の中で、より欧米寄りだった人物が米欧回覧に出て行ったのだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関山慧玄が立ったまま世を去る

2023-06-25 06:21:54 | 達磨の片方の草履

◎雨漏りの部屋にざるを持ってくる

 

関山慧玄は、妙心寺の開山だが、語録はない。以下のようなエピソードがある。

『雨もりする丈室

妙心寺の関山大師の居室はいたみがひどく、雨の降るたびにすわる場所がないほどであった。その日もひどい雨であった。大師は傍に控えていた者たちに命じた。

「何か器を持って来て、雨の漏るところへ当てなさい」

すると一人の小僧はただちにざるを持って来た。大師はこれをはなはだ賞められ た。

ところが、その後にもう一人の小僧が桶を持って来たところ、大師は、「この馬鹿者め」と罵って、追い出してしまった。』

桶を持ってくるようでは、道は遠い。またこうして追い出された小僧でも、何度も追い出されてもあきらめずに冥想修行を続けた者の中に悟りを開いた者が出ている。関山慧玄を看取った授翁の後継者の峨侍者は、関山に25回もたたき出された。

 

『柏樹子の話に賊機あり

日、関山は「柏樹子の話」を指して、衆に示していわれた。

「柏樹子の話に賊機あり、諸人、看よ、看よ」 』

趙州禅師が、仏とは何かと問われて、庭の柏樹子であると答えた。この手の回答は多く、くそかきべらと答えた例もある。いわば回答は何でもよいのだ。そこで、関山は、この禅問答は簡単だが、全部持っていかれるぞと注意を与えている。

つまり、庭の柏樹子をありのままに見るということは、恐怖も、不安も、不満も、憎悪も、嫉妬も、憎しみも、喜びも悲しみもありのままに見るということであって、水平の悟りにつながっていく。

 

『立亡

ある日、関山は旅装を整え、笠をつけると、弟子の授翁を呼び、後に従えると、妙心寺山内の風水泉(井戸)のところまで来た。関山は傍の松の大樹によりかかると、授翁に遺誡を伝え、そのまま静かに立ったまま亡くなった。』

立ったまま亡くなったのは、禅の三祖僧璨だが、彼は、中風を病んでいた。俗には畳の上で死ぬのが大往生とされるが、死も超越した禅者にそのような形式はない。その死に様も公案として残したのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする