アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

西郷隆盛の写真が残っていないこと

2023-06-26 10:55:21 | 時代のおわりneo

◎真相を暴露しない

(2016-04-30)

 

西郷隆盛の写真が残っていないことは、幕末ミステリーの一つとして数えられることもある。でもそれは、おそらくミステリーでも何でもないかもしれない。

西郷隆盛は、沖永良部島への島流しの時代にフィラリア症(象皮病)にかかった。

西郷隆盛は晩年は陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。西南戦争に敗れ鹿児島城山で自刃したが、首のない屍体検視にあたり陰嚢水腫の存在から西郷隆盛本人と判定された。(愚直の一念/尾辻義人/斯文堂、空飛ぶ寄生虫/藤田紘一郎P53-55)

こういう人が写真を撮られたくないのは当たりまえ。マスコミや世間は何でも暴露したがる傾向があるが、暴露しない方が本人のため、世間のためになることはある。

 

昔NHKの大河ドラマで、西田敏行が健常者として西郷隆盛を演じていたが、あれも西郷のイメージ形成に影響を与えたことはあると思う。

それにしても世に稀な一等星に当たる人物に、神はこのような苦難を与えるものなのですね。

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覚者が他人の自殺に付きあうこと

2023-06-26 10:52:40 | 究極というものの可能性neo

◎西郷隆盛が僧月照の入水にお付き合いなど

(2012-01-08)

 

幕末物ドラマでは、薩摩錦江湾の船から、西郷隆盛が僧月照と海に飛び込み、西郷だけが助け上げられたエピソードが必ずと言って出てくる。僧月照は男性。

 

しかし僧月照は、薩摩藩のために京都で、将軍継嗣問題や斉彬の上京計画などにおいて、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めていた人物で、清水寺成就院の住職。月照は、藩の機密を扱う立場であり、西郷とも既知の間柄だった。

 

そこで、月照は、西郷に一緒に死んでくれと持ちかけ、覚者はこうした本心からの求めに対しては決してことわることができないものだから、覚者である西郷は、本当に一緒に死んで上げたのだった。

 

西郷のような高位の人物が、気軽に主君でもなくさして重要とも思えない人物と心中することに多くの人は違和感を抱くもの。

 

私は、覚者であればこうした本気の求めがあれば、覚者は自分がどうなろうとそんなことは自分が知ったことではないという立場に立つものであるから、決してそうした求めを断るものでないものだと考えている。というのは、そうした立場以外に慈悲、大慈大悲、本当の愛を生きる立場はないと考えるからである。

 

類似例がもう一つある。

ダンテス・ダイジは、沖縄の竹富島にいた。半年前にさる青年が難病の筋ジストロフィーにかかって前途を悲観して、真夜中の便所で首をつった。

ある日ダンテス・ダイジが南無阿弥陀仏の念仏を繰り返していると、右斜め前にその青年の死霊が出現し、「一緒に死んでくれ」とせがんだ。

ダンテス・ダイジは、直ちに彼の求めに応じ、真夜中の竹富島に飛んで、家の外にある石造りの便所の換気用の隙間に棒を通して、その棒にひもを結び、首をくくり、死んだ。

(ダンテス・ダイジは、この時「その友人の人間の果てにある孤独感を理解した」と書いている。)

 

30年ほど前に、彼の著書「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」で、これを読んだ時には、生死を超越した覚者ともあろう人物が、親友でもない他人のために気軽に死ねることに違和感を覚えたものだった。

今なら、他人の求めに応じてフランクに自分を死ねる人だけが、本当の教祖であると断言できる。本当のグル、本当の救世主、本当のマスターとは、それができる人だけだ。

世の中には自分の金や自分の身の安全のために他人をさいなむ教祖、グル、先生があふれているが、どれも本物とは言えない。

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道を行う者:西郷隆盛

2023-06-26 10:47:47 | 究極というものの可能性neo

◎意の誠否は、須らく夢寐(むび)中の事に於いて之を験すべし。

(2018-02-26)

 

西郷隆盛は、西郷南洲遺訓の中で自分のことを「道を行う者」と見ている。

彼は、天に直接相対する姿勢のことを誠と呼び、あらゆる発想、行動の根本に置く。

 

西郷南洲遺訓の中に江戸時代の儒者佐藤一斎の言志四録から抜き書きした部分がある。

「意の誠否は、須らく夢寐(むび)中の事に於いて之を験すべし。」

【大意】やろうとしていること思っていることが誠か否かは、夢の中、寝入りばな、あるいは寝起きに浮かんでくるもので、これをチェックすべきである。

 

西郷隆盛は、若い時に盛んに禅をやったが、沖永良部島の流刑時代のように狭い獄舎で冥想するしかない時期もあったろうけれども、実務の忙しい時期には、毎日ある程度冥想する習慣があったかかどうかはわからない。

よって、このように誰でもわかる表現である、「夢でチェックせよ」と書いているが、実は意識と無意識の境目に、それが「誠」つまり天意・神意に適っているものかどうかわかるコツがあると言っているように思う。

儒家の言は、荘子が盛んに揶揄したりネタにしたりするところではあるが、易経繋辞伝のように時間のない世界から書かれたものもあり、全部が全部おろそかにしてよいわけではなく、このように採るべきものもある。中庸の未発の中などもその一つ。

 

※西郷南洲遺訓は、国会図書館デジタルアーカイブからダウンロードしました。ありがたい時代です。

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世界は核戦争をしなければならない、という見方とは

2023-06-26 10:44:52 | 究極というものの可能性neo

◎西郷隆盛の予感、ダンテス・ダイジの予感

(2021-06-05)

 

渋沢栄一の実験論語処世談の中に西郷隆盛の人物月旦がある。これに、日本は維新後戦争をしなければならないという見方がある。

 

明治になってからの1871年の高官の会議で、西郷不在のままさる案件を決議して、西郷が到着して後、諸公から判子だけ押してくれと頼んだが、西郷は納得せず結局押さなかった。

 

西郷はその理由について説明しなかったが、

『日本は維新後まだ戦をする事が足らぬ。もう少し戦を為(せ)ぬと可(い)かぬ。そんな事は己れは如何でも可(よ)い』とだけ述べ、結局その議案はお流れになった。

渋沢栄一は、同年廃藩置県があったので、その時になってようやく西郷の言っている意味がわかったとしている。

 

1868年:明治維新、戊辰戦争

1871年:廃藩置県

1876年:廃刀令、秩禄処分により、士族の乱が相次ぐ

1877年:西南戦争

 

戊辰戦争以来戦争をやるやらないは、実質的に西郷の胸先三寸にあったと言えるだろう。ここで着目すべきは、戦争をやらないと民心が落ち着かない、あるいは修羅を求める気持ちを現実化せしめないと次の段階に進まないと見ていたであろう部分である。士農工商から四民平等に進むには、最大の被害者である旧士族の不満、叫びを消化する必要があった。

 

次の時代は、何でも金、経済的メリットと便利優先の人類を、100%逆方向の神仏が第一でその次に自分という行動規範と価値観に持っていくのだから、その衝撃を昇華するには、国家間の核戦争の発生は必至と見ているのではないか。

 

翻って、西郷隆盛もダンテス・ダイジも戦争の予感というのをそういう文脈で見ていたのではないか。戦争の予感は、現状の人心を自分の机上の風景をきっかけに感じることもできるし、道路を過ぎ行く自動車を見て気づくこともできるし、飛び去る烏の声で知ることもできる。

 

核戦争の発生が確実と見ていたのはダンテス・ダイジ。出口王仁三郎は、その辺は、あまりにも悲惨なので書いていない(あまり悲惨でよう言われんわい。)。

 

戦争をしないと気が済まない人類の大多数を、マスコミなどによるマインド・コントロールでなく、本気で戦争なしで済ませることで納得させることができるかどうかが、この中距離核ミサイル何千発を構える虎狼の如き隣国やら西側勢力で核戦争が起きないために必要な条件だと思う。

 

ところで最近のスピリチュアルSNSでは、地震の予感は一生懸命やっているが、外国からの日本侵略の予感を上げていないのは奇妙で片手落ちなことである。既に相当に侵略されちゃっている?抱き込まれている?そもそもそういうSNSなら大三災(風水火)、小三災(飢病戦)すべてビジョンに乗ってくるはずなのだが。

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神がかりにだまされる者は、神の綱が切れる

2023-06-26 06:21:46 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎Coolな出口王仁三郎

(2014-04-18)

 

大本教の大立者であった出口王仁三郎は、音に聞こえたクンダリーニ・ヨーギ(行者)。雲にのってアストラル・トリップをしまくるなど、超能力を自由自在に使える人であった。また明治31年の高熊山の洞窟修行で、この世の行く末を見たようである。

 

『日本は二分、外国は三分になる。信仰のないものは助からぬ。経済界は目茶目茶になる。』

(新月の光/八幡書店/木庭次守編から引用。以下『』内は同様)

これは、大本神諭に人類は三分しか残らないとあるのを意識した発言。

それでは、信仰とは何か。

むらきもの心に神の宿るとき 三千世界一目に見えすく(王仁三郎)

『聖師を真渓涙骨氏の案内にて西本願寺の大谷光照法主が訪問されての一問一答

問:今後の宗教はどうしたら良いでしょうか。

答:拝みたい者には、富士山でも造って拝ましたらよいでしょう。』 

築山として富士山でも造ってとは、まだ自分以外の何かを拝むことが宗教だと思っている人もいるだろうから、そういう人には築山も必要。しかし本筋は、自分の内なる神、主神に自らアプローチすること。

『問:聖師様(王仁三郎)を友達のようにしては、いけませんね。

答:いやこのほうが王仁三郎は好きじゃ、神様は民主主義じゃからな』

預言者が、一般人の友人として現れる時代であることを肯定している。

 

『○○○には、○さんの霊がついている。

○(○○○)には○○の霊がついているのである。

神がかりにだまされる者は、神の綱が切れる。』

スピリチュアル系ブログでも、プレアデス、オリオンなど天体の名を冠した霊がかりをいう者あり、古代の聖人の霊をいうものあり、ガブリエルなどの天使や龍の名を語る霊がかりあり、多彩なことである。

出口王仁三郎も、 霊がかり、神がかりに騙されてはいけないと諭している。

霊がかり、神がかりは、ポジティブなインスピレーションを採用する程度で十分であって、懸かる霊の先に本流が流れているなどと見誤り、帰依してしまうと「だまされた」ということになりがちであることを言っている。

 

それを見分けるために王仁三郎は、審神(さにわ)をいうが、その違いの分かる人は、昔も今も少ないのだろう。

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組織宗教がすべて過去の記憶となる

2023-06-26 05:51:58 | 覚醒のアーキテクチャー

◎あなたのエゴと隷属をともに焼き尽くす火

 

OSHOバグワンは、アメリカ官憲に拘束されて毒(タリウムか?)を飲まされて、七週間苦しみ、その間7度脈拍が停止したこともあった。七週間後に痛みは引いたが、身体の不調は、亡くなるまでのあと一年ほど続いた。

彼の宗教コミューンを創造しようという運動は、アメリカ官憲からの追い出しによって破綻。当たり前だが、彼の宗教コミューンに参加したからといって、全員が神仏を知るわけではない。

以下の文章は、その頃の講話だが、構想の力点は、既に新宗教コミューン建設ではなく、既成組織宗教の崩壊の運命に移っている。

 

過去何千年の人類の歴史は、既成組織宗教が、抑圧を梃子として自分自身に向き合うことを促すことで、神仏を人間に気づかせるという形で行われてきた。

今や人間の精神も肉体も進化し、抑圧なしで神仏を知ることができるところまでやってきた。これを以て組織宗教の命脈の終わりとし、釈迦はこれを末法と見て、キリスト教の予言者マラキーは最後のローマ教皇を幻視し、ファティマ第三の秘密ではカトリックの終わりがささやかれ、ダライラマは自分が最後のダライラマだとしている。

利己主義と隷属は、抑圧を以て神仏を知るパターンを堅持する組織宗教の定番のやり方。万人が組織宗教を媒介とせず、直接神仏を知る時代となれば、組織宗教はすべて過去の記憶となる。

そうなれば、「拝みたい者には築山でも作って拝ませましょう。」などという軽口まで出てくる。

OSHOバグワンは、一歩進んで、組織宗教こそが、人類に抑圧を強制する構造を温存する古びた組織だから、これを破壊すべきだと踏み込んでいる。だが、組織宗教のステイク・ホルダーは多数いて、それは容易な道程ではない。

 

『私たちはここで新しい宗教を創ろうというわけではない。私たちはあらゆる手をつくして宗教すべてを破壊しようとしている。 諸々の宗教はもう十分、人類に害を及ぼしてきた。このうえ一日でもそれを許しておくことは、慈悲の意味を知る者、自分自身の存在の永遠性を知る者の意に反することだ。こういった組織宗教がすべて過去の記憶とならない限り、人間の生活からは、枷や、鎖や、様々な道徳がなくならない。そういったものは人間の意志に反して押しつけられたものだ。そのせいで人間は独立した一個人として生きることができない―――群衆に合わせて自己を制御しないといけない。それは醜い隷属だ。

何千年もの間、人間は様々な種類の隷属のうちに生きてきた。もう自由の味を忘れて いる。もう応答能力の美を忘れている。自分に翼のあること、大空が自分のものであることを忘れている。人間は動物のように棒につながれている必要はない。超越の鳥なのだから。

私はこれからもずっとみんなの中にどんどん火を起こしていく。その火はあなたのエゴと隷属をともに焼き尽くす。それによってあなたは自由になり、みずからの光となる。あなたの瞳にこそ、世界の希望がある。』

(ノーマインド 永遠の花々 和尚/講和 壮神社P87-88から引用)

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