◎身心脱落と臨済禅
(2008-11-21)
何も事前の知識のない人々にわかりやすく説明するためには、違いを明らかにしなければならない。只管打坐ですら、道元とクリシュナムルティと老子は同じ境地を語っているらしいということはわかっても、クリシュナムルティも老子もその坐法と境地の連動について何も語らない。従って最近の文書による論証という手法では、論理的な組立てはできない。
また只管打坐と臨済禅の悟りがどう違うかということも、明確にはしにくい。両方の悟りを体験した者だけがそれを知るわけだが、そうした特別の人物が両方の悟りを得たことを、他の悟っていない第三者に証明できるわけではない。
面山は、只管打坐のことを純禅と呼び、黙照禅と呼び、臨済系の看話禅と区別している。面山は、黙照禅の身心脱落の境地を華厳経なら海印三昧のことであり、法華経なら無量義処三昧で、般若経なら三昧王三昧であると断言している。
ところがこの黙照禅の身心脱落の境地はこれを実体験した者のみがこれを確認できる(唯証相応の境界なる)とも面山は述べており、誰でも理屈で理解できるものではないとして、論理的証明のできないことをも認めている。
只管打坐と臨済禅の両方で悟った者を捜すのがてっとり早いが、理屈で言えば、臨済禅も只管打坐も釈迦正伝なので、釈迦こそが両方悟っていたということになるが、それでは何の説明にもなっていないところがある。
その境地が、ある特定の坐法の先にあるかどうかの説明はできないが、本当かどうか確かめるためには、自分でその体験とは呼べない体験に飛び込むしかない。
これでは禅をやろうということについて、社会へ訴求する力はないのだが、それができなければ、人類滅亡之境を見るというジレンマがある。