◎救世主であることの条件は悟っていること
救世主であることの条件は悟っていること。それは、水平の悟りでも垂直の悟りでもよい。
以下ダンテス・ダイジ講話から。
3.水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。
『弟子「じゃあ水平方向で目覚めているのが救世主の必須条件?」
ダンテス・ダイジ「どっちでもいいよ、垂直方向に目覚めても(笑い)。」
弟子「しかし現実との対応ができない、垂直方向に目覚めただけの人は救世主として救うことはできない・・・」
ダンテス・ダイジ「うん、どっちかというと隠者になる。付き合っちゃいられないからね。水平方向で行けば、本当に人々に役立つ存在になる。彼は一個超然としている。かといって付き合いづらいかというとそうでもない。
だが黙っていると怖い感じがする。話してみると気に置けない。それでいて、適当なことには調子を合わせているが、肝心なことになると一歩も譲らない。」
弟子「ダイジみたいなもんだ。」
ダンテス・ダイジ「それで、首をちょん切ると脅しても譲らないで、ああ切るなら切れ、これが真実だって言ってゲラゲラ笑って、軽くギロチンにかかる。『人に瞞着されず』って臨済録にある、これがそれだ。
人に騙されず。実は人間は人に騙され続けてるのだよ。人から人へ、条件付けされてるのよ。俺は俺だ。分からないなりに俺だ。分かったなりに俺だ。(笑い)どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。
俺は両方言ってるからこんがらがるかもしれないけどね。」』
垂直の悟りで行けば、隠者になりがち。ただし、空海、天海、役行者、出口王仁三郎のように隠者でない者も出てくることがある。
水平の悟りで行けば、本当に人々に役立つ存在になる。
『実は人間は人に騙され続けてるのだよ。』とは、教育、政治プロパガンダ、経済商業プロパガンダ、そしてそれに影響された周辺の人々からの口コミ・スマホによる壮大なマインドコントロールの日常に暮らす、われら人間を指す。
そして騙され続けている自分である限り、水平の悟りにはならない。禅的悟りが必要なのだ。
『俺は俺だ。分からないなりに俺だ。分かったなりに俺だ。(笑い)どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。』
この『分かった』とは悟っていることを指す。悟っても悟っていなくともいいんだというのがこの『どっちでもいいんだ』だが、これは、道元が悟り(身心脱落)も悟っていない者の修行も同じだ(修証一如)と言っているのと同義。
そのことについて、既に悟った者がそれを言うのは真実だが、まだ悟っていない者がそれを言うのは嘘だと思う。
OSHOバグワン風に説明すれば、万人は既に悟っているが、それに気がついている人と気がついていない人がいるだけ。
このダンテス・ダイジの『どっちでもいいんだ。みんな水平方向だよ。』は、その辺の呼吸である。