◎肉体を残したままニルヴァーナに入り、肉体に回帰する-1
尸解では、肉体消滅シーンあるいは肉体縮小シーンがつきものである。これらを有から無に向かうものとすれば、何もないところから肉体を生成するという無から有の逆方向の事象も呈示した。何もないというのは死の側で、肉体があるというのは生の側とすると、以上の2ケースは、共に生死を意図的に超える自由を実証する点においては共通している。
それらに対して、『肉体を残したままニルヴァーナに入り、その後肉体に回帰する』というものがある。これもニルヴァーナという死の世界に肉体を置いたまま到達し、再び肉体に帰還するということで、生死を超越し、それを実証するという点では、これまた同様の技法と見ることができる。
それについて、柳華陽とダンテス・ダイジの例を挙げる。
1.柳華陽
道教の柳華陽の慧命経に、微細身が肉体から離脱して、妙道(クンダリーニのエネルギーコードか)を上昇して「有」(アートマン)を出て「無」(ニルヴァーナ)に入る(面壁図第七)。
さらに心印懸空月影浮(大悟した心は月のように空に浮かぶ)、筏舟到岸日光融(有なる筏舟は太陽の岸に着いて融ける)と、有は無に転ずることを示す。
最後の粉砕図第八は、一円相(ニルヴァーナ)。
全体としてダンテス・ダイジの示したクンダリーニ上昇の秘儀に、とてもよく似ている印象がある。五番目の出胎図で体外に出たボディをメンタル体と見れば、ダンテス・ダイジの説明に似てくる。
チベット死者の書の無上の垂直道は、ダンテス・ダイジの言うニルヴァーナへの無上の垂直道であって、ここでは妙道として表現されているかに見える。
柳華陽は、このような世界の秘密、あるいは体験とは言えない体験をして生還したから慧命経を書き残せたのだ。よって柳華陽は、肉体を置いたまま、ニルヴァーナという死の世界に到達し、再び肉体に帰還するという離れ業をやってのけたと見ることができる。
ただし、生死を超える三種の方法の外形が、いずれも自分個人という肉体を中心にまわっているような説明をしているところは、霊がかりな考え方に陥りがちなので、そこは注意すべきだろう。