◎無用の用
荘子は、無用の用について手を変え品を変え、いろいろと例え話をするが、本当のところについて納得できるような話は見当たらないと言うべきだろうか。
荘子雑篇外物第二十六から。無用の用について。
【大意】
『恵子が荘子にむかっていった、「あなたの話は無用である」。
荘子は答えた「無用ということがよく分か ってこそ、初めて有用について語ることが出来るのです。いったい大地は広大なものだが、人間が使って役に立っているのは足を置いているごく狭い広さだけです。しかし、そうだからといって、足の寸法に合わせた土地を残して、周囲を地下の黄泉にまで深く掘り下げたら、人はそれでもその土地が有用だとしましょうか」。
恵子「無用でしょう。」と答えた。
荘子「そうであれば、無用に見えるものが実は用であるということが、今やはっきりしたでしょう。』
【訓読】
『恵子、莊子に調ひて曰く、子の言は無用なりと。 莊子曰く、無用を知りて、始めて與(とも)に用を言ふべし。 夫れ地は広く且つ大ならざるに非ざるも、人の用うる所は足を容るるのみ。然らば則ち足を側 (はか)りて之を墊 (ほ) り、黄泉に致さば、人尚ほ用ふる有りや、と。恵子曰く、用ふること無しと。 莊子曰く、然らば則ち、無用の用たるや、また明らかなりと。』
無用と言うのは、物質が用であるのに対し精神は無用、あるいは王権や俗が用であるのに対し神仏道や聖が無用であることを指す。
具体例としては、達磨が梁の武帝に武帝がしてきた仏教支援策はどんな功徳があるだろうかと問われ、「無功徳」と言い放った事例や、花園天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」というと、これに対し大徳寺の宗峰妙超が「王法不思議、仏法と対坐す」と言い返した例の方がむしろわかりやすい。
この荘子の足を置くだけの話は、地獄の底から屹立する細長い岩の上に立つ、孤独な一個の人間の姿を彫り出して来ている。
荘子は、坐忘という広義のクンダリーニ・ヨーガタイプの冥想で大悟したと思われるので、七チャクラの話も荘子に出てくる(渾沌に七つの穴(チャクラ)をあけたら死んでしまった話)。クンダリーニ覚醒プロセスで、クンダリーニは上昇するものだが、その姿をイメージさせるのが、本件のエピソードであると思う。