アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダリーニ上昇から悟りまで

2023-07-17 06:20:56 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎不動明王のポジション

(2017-06-21)

 

本山博は、体外離脱から悟りまでを端的に説明している。

『1.スシュムナーを通ってクンダリーニが目覚めても、初めは霊体と肉体ははっきり分離していない。

2.下腹部で水蒸気、炎が動き身体が非常に熱くなる。クンダリーニがサハスラーラを抜ける。

3.神気と合一したクンダリーニのエネルギーが身体の外に出て、霊体も身体の外に出る。この時アストラル・プロジェクションやカラーナ・プロジェクション(メンタル体離脱が起こる)この段階で、生命の危険をともなう事態が起こることもある。

先祖の因縁はカラーナの世界までいかないとわからない。

4.さらに進むと、悟りの世界に入る前に身心霊のすべてが、クンダリーニ+神力で焼き尽くされる。不動明王の境地。

このままの状態で終わったらインドのグルでも焼け死んでしまうこともある。

5.不動明王の境地を超えないと悟りにはならない。

6.霊能者は霊的な自分を持っているが、悟った人は自分がなくなる。』

(スピリチュアリティの真実 本山 博/著 PHP研究所P50-58を抜粋』

 

こうしたクンダリーニ・ヨーガの簡易な説明は非常に珍しく、ダンテス・ダイジもここまでかみ砕いた説明はしていない。

誰かのクンダリーニ・ヨーガにおける各ボディとステップについてズバリの説明はないものかと思っていたが、ここまできっぱりと書いているとは・・・・。

不動明王は、密教系において重要なポイントに位置しているが、ここまで特徴と位置を平易に説明してくれているとは、驚きである。

人類の進化で、そういう時期になったということなのだろう。

ただこのステップを現代科学で証明する術はない。将来、万人の感受性が普通に霊体を感知するようになれば、万人にとって肉体以上のものは、当たり前になるのだろう。

 

 

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本山博のクンダリーニ覚醒ステップ

2023-07-17 06:18:58 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎不動明王段階

(2012-10-03)

 

本山博のスピリチュアリティの真実という本にクンダリーニ覚醒ステップが書いてある。彼の窮極は、第7段階であって、プルシャ(悟りの世界)に入ることであり、ダンテス・ダイジや柳華陽のあらゆる宇宙、あらゆる次元を超えるというモクシャの世界とは、違うように思う。

本山氏自身がそこに至ったかどうかは書いていないのだが、霊能者は霊的な自分があるが、悟った人は自分がなくなるとは書いている。霊能者の本源的問題点の自覚は意識されているのである。

 

本山氏はクンダリーニのエネルギー・コードをクンダリーニと神気の合一と見ているようだ。特徴的なのは第6段階であり、身心霊のすべてがクンダリーニ+神力によって焼き尽くされる不動明王の境地であるとしている。この書きぶりだとここまでは体験されたからここまでリアルな描写となっているのかもしれない。

ただチベット密教では、不動明王をここまで特別なものとして重視しているわけではない。

そうは言っても、熟達したクンダリーニ・ヨーギはしばしば火定を見せることから、不動明王については、素人にはわからない何かがあるのかもしれない。

いずれにしても長寿のクンダリーニ・ヨーギがその体験を忌憚なく(全部書いているとは思いませんが)書いているということで、類書が少ない中で、それなりに貴重な書であると思う。

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至人は火を踏めども熱からず

2023-07-17 06:07:00 | 人と神の「実際のところ」

◎荘子の達生篇第十九

 

連日最高気温35度以上の日が続いている。

 

荘子の達生篇に、列子が関尹に、至人は火を踏めども熱からずというがその原理を教えてくれと質問する一節がある。

列子は中国の霊界物語である列子の著者、関尹は老子の著者。

この質問に対し、関尹は純粋な気を守っているからだと答える。それは、物や現象は様々に変化するものだが、その根源であるもはや変化しないレベルに止まることがそれである。これによって至人は、最初もなく最後もない所に隠れ、万物の終始する所に遊び、その性を一にして、その気を養い、その徳を合わせて、以て物が創造される所に通じるものだからである、と。そのような人が火を踏んでも熱くないのだ。

 

火を踏んでも熱くないとは、神事として行われる火渡り(火をつけて燃やした薪炭の上を裸足で歩くこと)ではなく、慧春尼の火定の事や、本山博の言う不動明王状態や、チベット密教の尸解で身体が焼けてなくなってしまうようなことを言うのではないかと思う。つまり語弊があるかもしれないが、肉体を残そうが残すまいが自在である人のこと。荘子もこの当時は、そういう技法と結果がわかっていた時代だったのだろう。

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